佐藤=ヴァイオリン奏者
吉田=マネージャー




 佐藤隆彦というヴァイオリニストが居る。
 勿論その名前の通り日本人で、しかし音楽家としての実績は欧州を中心として培ってきた。そんな彼が最近、特に突飛た理由や事情も無く、生まれた故郷である日本へと舞い戻って来た。ある意味ゼロからのスタートだったが、その腕前とルックスの良さが両方とも際立ち、津々浦々にその名前を轟かすのにそう時間は要らなかった。
 そこまでの人気がありながらも、マスメディアへの露出はかなり少ない。
 なぜならば、彼のマネージャーが頑として首を縦に振らないからである――


「――って事になんてんだけど!世の中だと!!!」
 普段の生活で着実に堪るストレスを解消しようと、何気なく手に取った雑誌でむしろストレスを吉田は爆発させてしまった。何故なら、吉田こそが、このコラムで微妙に非難されている天才ヴァイオリニスト佐藤隆彦のマネージャーだからだ。濡れ衣だ!と叫びたいのだが、叫ぶ場所が解らなくてとりあえず本人にぶつけてみる。そう、佐藤に。
「お前が面倒臭がって引き受けないのを俺が代わりに断ってやってるだけなのに、なんでこんなに叩かれなくちゃいけないんだよー!」
 ムキー!と雑誌をぐしゃぐしゃにして吉田は憤った。佐藤がそういう事を引き受けるつもりが全く無いのを吉田は知って居るので、オファーの場で断らなければならない。まあ、状況を判断して即日か後日かくらいは図るけども。
 あくまで、そう、あくまで吉田は佐藤の意思を代理にしているに過ぎないのだ。むしろ、こんなに責められるなら佐藤にインタビューくらいやって欲しいとすら思っている。それなのに、それなのに、だ。
「皆、俺が出し渋ってるって思ってんだ……ホントの事言っても聞き入れてくれないし」
 うう、と吉田は肩を落とした。
 聴く耳も持って貰えないところか、「人のせいにするなんてサイテー!」みたいな事まで言われてしまった。真実って、無力なんだな、と吉田は思い知った。
「でも、断る理由はちゃんとしてるだろ?
 俺は音のイメージを大事にしたいから、個人情報はあまり出したくないって」
 実際、歌手にもそういう活動で居る者も少なくない。吉田も、気に入りの歌手やグループに、そんなスタンスで居るのに心当たりが1つや2つはある。
「言ってるよ。言ってるけど、無視されてるっつーか、それでも自分の所なら引き受けてくれるっていうよく解らない自身を押し付けてくるっていうか……あーあ、これから、またお断りの返事をしなくちゃならないのか……」
 吉田はこれからの自分を思って、落とした肩をさらに落とした。留守電にも、いくつかの用件が入って居る。今の電話もその中の内の1つで、まだ数件、残ってる。これから確かめるけども、相手はテレビか雑誌か、はたまたラジオか。どこからのどの層からにも、佐藤の評判は高い。佐藤は、人を寄せ付ける為の実力や話題性を、十分すぎる程持っていた。これがカリスマってやつなのかも、と吉田は佐藤を見て思う。
 いつぞや、吉田でも名を知っている国民的な芸能人との対談の依頼も舞い込んで来たのだが、佐藤は2つ返事で勿論断った。佐藤の返事が来るまで、吉田の中ではサインを貰う想像で一杯だったので、思いっきり抗議したのだが、思いっきり頬を抓れられて話は強制終了された。今でも時々残念に思う出来事だ。
 企画した本人からの依頼ならまだいい。困るのは、吉田と同じく代理にされた人で、おそらく絶対に取ってこいと言われているのだろう。何度も何度もお願いしますお願いします、と懇願され、しまいには泣かれてしまうケースも多い。胃の弱い人なら、今頃ストレスで穴が開くのを通り越して溶解してるんじゃないだろうか、というくらいの精神的苦痛、そして疲労を強いられる。
 しかし不幸にもというか幸いにというか、吉田はそういう方面に強い性質らしい。まあ、母親を見るとそれも頷けるけども。そういう意味なら、自分をマネージャーに抜擢したのは冴えていると言えるのだが、実態は違うというのを吉田は知っている。とても、良く知っている。
 佐藤の、この帰国の本当の理由も。
 ある種、この2つは同じ理由でもあった。
 佐藤は、吉田を探しに日本に戻って来た。そして、吉田から離れなくないから、マネージャーという隠れ蓑を着せて傍に置いている。
 好きな人に会いに行く。
 そんな、完全に利己的で、そして些細な私欲が、天才ヴァイオリニストの佐藤を動かす全てだった。


 帰国の理由がそれなのなら、吉田が居るこの時点で目的はすでに達成されているのだが、それでも日本に留まって居るのには、柵からだった。今でこそ渦中の人のような佐藤だが、帰国当初は無名も同然だった。そんな佐藤がコンサートを開く為に、艶子には色々策を労して貰った。裏工作とも言う。そうして無事に開催の運びとなったのだが、その代償というか必要条件というか、ある程度の開催を約束させられたのだ。佐藤のルックスと音楽の腕を冷静に分析出来る艶子は、初回で佐藤への世間の評価は高騰すると踏んでいたのだ。そしてそれらの利益は艶子の元に転がる。
 ギブアンドテイクはお互い様だ。無理を言っているのは自分だという自覚は佐藤にもある。狭い日本とは言え、1つの国の中でたった1人を探すのだ。一朝一夕で叶えられる事では無いと、長い滞在になるだろうと思っていたし、佐藤は条件をそのまま受け入れた。
 コンサートを開くのには、表向きの帰国の理由が欲しかったからと、もしかしたらそのコンサートに吉田が来てくれるかもしれない、という淡いというより儚い期待があったからだ。艶子が自分をプロデュースつもりでいるのを、佐藤は解っていた。その上で、昔の自分のエピソードを話せば、吉田か、吉田の周囲の人が気付くかもしれない。
 はっきり言って、苛められていた小学の頃の記憶は、佐藤にとって生々しい傷だった。思い出として昇華させるのには、まだ時間が、大分必要だろう。
 しかし吉田に関するエピソードは、その傷の中にある。まさに傷口を抉り出す作業になるだろうが、佐藤はそれでも構わなかった。本心からは逃げられないというのが解ったのだ。逃げても苦しいだけなら、痛みを孕んでも何かに繋がる事がしたい。
 そんな決意を胸に秘め、佐藤は日本での初コンサートに立った訳だが、そのコンサートの席で、いきなり寝こけている吉田を見つけ、頭の中から楽譜が綺麗にすっ飛んだのは、佐藤だけが胸に留めている事実だった。
 後から吉田から聞き出すに、風邪で寝込んでしまった母親の代わりに来たのだと言う。
 そして紆余曲折の末、吉田は佐藤と共にいる。形や伝え方が違っても、同じ「好き」という気持ちを共有しながら。


 まさに幸せ――と言いたい佐藤だが、そこで大して取り合わずに交わした艶子との「契約」が自由を蝕む。とりあえず今年一杯は、スケジュールに縛られる事にそうになりそうだ。いっそすっぽかしてやろうかと思わないでもないが、その時の報復を思うとやらない方が賢いと判断を下す。何せ、佐藤にとってあまり頂けない事に、艶子は吉田を気に入ってしまった。それを思うと、艶子の「仕返し」は、自分にとってまさに恐ろしいものになるだろう事は、予想も立てないで解る事だった。
 まあ、その辺は前向きに。逆に艶子が味方で居る限り、今の現状はある程度保証されている、という事だ。
 吉田は、次の相手に、また電話でペコペコと謝って居る。
 ――ずっと昔から、吉田が好きだよ。吉田を探す為に、日本に戻って来たんだ
 そう伝えた時の、真っ赤になった吉田の顔は、今でもよく覚えている。


(お、終わった……!)
 最後の一件を片付け、吉田は大きく息を吐いた。解放感からか、酸素が美味しく思える。
 せめて、最後の人がもの解りよくて助かった。その1つ前の人は、何度頼む出来ないの押し問答したか。思い出すだけで嫌になるので思い出すのは止めておいた。
 少しは自分で断れよ、と思わないでもないが、そうしたらまたややこしい事になるのだろう。それくらいは解る。かと言って、そのツケが全て自分に周るのも、またどうだろう、と思うのである。何せ佐藤は、マネージャーを飛び越えて直接持ちかけられた依頼にも「マネージャーが禁止してるから」という理由で難なくすり抜けてしまう。スタジオに訪れた際、やたら敵視を感じたら、その事が絡んでいると思って間違いなかった。禁止なんて、言ってないのに。
 ふと、吉田の耳にヴァイオリンの音色を感じた。近いがこの部屋ではなく、隣の部屋からだと推測する。その部屋は大きなテラスに面していて、外の景色を浴びる事が出来る。奏でたくなるような部屋なのだ。ここは避暑地のような場所で、隣の家というものがあったとしても、大分離れている。外に出て弾いた所で、誰に責められるだろう。
 音を辿る様に、吉田はそっと隣の部屋に移った。思った通り、庭に面して、吉田に背を向ける形で佐藤はヴァイオリンを弾いていた。図らずとも、さっき電話に忙しない吉田を眺めていた佐藤と、逆の構図になっていた。
 吉田は繊細な音に耳を傾ける。テラスには椅子があるけど、そこに行けば佐藤に気付かれてしまう。別に気付かれるのが嫌なのではなく、その為に音の流れが変わる事を吉田は懸念していた。
 佐藤のマネージャーとは言え、吉田は音楽には全くの素人だった。関わった事のある楽器と言えば、学校の授業で触ったリコーダーやカスタネットくらいだろうか。そんな吉田でも、佐藤が上手いと解る。その辺のプロよりも、ずっと。格が違うというか桁が違うというか……見ている世界すら違うのかもしれなかった。
 ある時、ふと何となしに吉田は佐藤に尋ねた。ヴァイオリンを始めたきっかけについて。佐藤は綺麗に笑って、なんとなく、とだけ答えた。吉田は特に強い根拠や証拠は持って無かったが、それは嘘だと直感した。
 小学を卒業してからこの前の再会まで、佐藤がどこで何をしていたか、吉田は端々を啄ばむようにしか知らない。せいぜい、渡英し、艶子という知り合いが出来た、という程度で。
 佐藤に関する空白は多い。全てを知りえないと好きにはなれない、という訳でもないけど、やっぱり気になってしまう。
 この先、ずっと一緒に居たら知る事もあるのだろうか。
 昔の姿が微塵も見出せないような、広くて逞しい佐藤の背中を眺めながら、吉田はぼんやりと思った。


 背後に愛しい人の気配を感じながら、佐藤はしかし素知らぬふりをして演奏を続けていた。存在のみならず、気付かれたくない、という吉田の気持ちまで汲み取って。
 佐藤がヴァイオリンを始めたのは他でも無い、何かをしていて気を紛らわせていないと、吉田の事ばかりを思ってしまいそうだったからだ。そんな時、たまたま目に着いたのが、この楽器だった。その程度の執着だ。
 曲が弾けるようになると、佐藤は無心で奏でた。弾いている時、佐藤は自分を人ではなく、曲を奏でる為の楽器の一部だと思うようにした。それなら、何も思わないし、何も患わない。心も乱れる事も無いだろう。
 しかしそうやって奏でた音は、むしろ吉田への情景を募らせるばかりで、挙句の果てには堪え切れなくなって帰国を決めた程だった。つまり佐藤は気を逸らす為の手段に、逆に自分の気持ちを突きつけられる羽目になった。当初の目的とは真逆の結果を招いたが、今はこれで良かったと思う。心から。


 佐藤は吉田の気配を感じ、それまで弾いていた曲をそれとなく早々に切り上げ、別の曲に移った。
 それはヴィバルディ四季の「春」で、佐藤はこの曲を弾くと酷く胸が軋むのだ。その理由はあまりに単純で、小学の卒業式にBGMとして流れた曲だからだ。吉田との別離を飾った曲だった。
 かき乱される感情を嫌い、一時期は全く弾かなかったこの曲だが、吉田と再会してからはよく弾いている。クラシック音楽としてこの曲は有名で、多分日本人の耳にも心地よい曲なのだと思う。「冬」に至っては第二楽章に歌詞をつけられ、童謡のように扱われている。
 小学の卒業式にも流れた曲だと、それを知っているのかどうかは定かではないが、吉田はこの曲を弾いた時「あっ、これ知ってる!」とばかりに顔を輝かせた。吉田がクラシックに関心が薄いのは、小学の浅い付き合いでも知れた事だ。どうせなら、知っている曲を聴いている方が吉田も楽しいだろう、と佐藤は練習の時、この曲を弾いている。手慣らしとしても良い曲でもあるし。
 ――この曲を弾き終えたら、振り向いて吉田の元に行って、抱きしめて軽くキスをして、労いの為に紅茶を入れて――
 作曲者の意向を全く無視して、こんな事ばかり考えて弾くこの音色は、一体どんなものになっているのだろうか。佐藤には解らない。
 それでも、それこそ吉田と再会する前から、自分の出す音は全て吉田に捧げてきたのだろうな、と佐藤は思うのだった。




――END――



*なんか無駄に長くなった…!
とりあえず佐藤は断る理由には吉田を使いまくるという話。言い訳に使える事すら嬉しんだと思う(笑)
最初は吉田一般人の予定がさりげにマネージャーに変えましたよぃ