佐藤が風邪をひいた。
 と、書けば一文で済む事だが、事態は結構深刻だった。深刻というか、今日で3日目、佐藤は欠席している。単に熱が引かないのか、別の疾患でも発覚したのか。
 吉田には何も解らない。何故って、メールも何もしてないからだ。
(だって、返信するのも大変だろうし)
 出来る事なら、家に赴いて、直接様子を見たいけど。
(……ゆっくり休んでいて欲しいし……)
 佐藤は姉と2人暮らしなので、そのお姉さんが帰宅していなければ、訪れた吉田を出迎えるのは佐藤の役目になってしまう。これではお見舞いの本末転倒にもなるのではないか、と吉田は思う。
 そんな訳で、今日も吉田はとぼとぼと1人で帰宅だ。そんな、決して明るい気分では無いというのに、救急車のサイレンが耳に飛び込んできて、さらに気が滅入る。まさかとは思いたいけども、佐藤、入院とかになったりするんだろうか。相手の状態が何も解らないだけに、不安ばかりが膨らむ。
 佐藤から最後に貰ったメールは3日前。つまりは、欠席初日。その日の朝、熱が出て今日は休むという簡素なメールが吉田の元に届いた。吉田はお大事にという内容の返信を打ち、校内ではすでに教師から聞きつけたのか、佐藤欠席の報せで女子が全員項垂れていた。そしてその日の夜、明日も休むかも、というメールが佐藤から来た。軽い風邪なら1日で治るだろうに、少し拗らせのか。吉田は今度は、朝に返したのより余程念入りに佐藤を気遣う文を打ち、ゆっくり休んで回復したらメール頂戴、と送信した。そのすぐ後、解ったよ、と佐藤の軽い微笑が見える様なメールが来て、それが最後だ。昨日は丸一日、佐藤から何のメールも無かった。
 メールが無い、ということはまだ本調子ではないのだろう。実はとっくに治っていて、心配した吉田が訪問しているのを待っている企てとも一瞬思ったが、さすがにそんな気持ちを利用したりはしないだろう。際どいラインではあるが、吉田は何となくその見定めが出来ている。たまに外して変なチョコレートを食わされたりもするが。
「…………」
 今も佐藤が高熱で魘されているとしたら。メールはしなくて良い、としか言えない自分が歯痒い。こんな時こそ、力になってやりたい。辛い思いをしているのなら、そこから解放してやりたい。
 吉田は医者でも学者でもないけど、佐藤の恋人なのだから。


 何となく、真っすぐ家に帰る気になれなかった吉田は、公園でぼんやりとしていた。今の時間は、子連れが多い。キャッキャと高い声で騒ぐ子供たちを見て、元気だな、とそんな事をぽつりと思った。
(……佐藤……)
 吉田は足の爪先で、地面を穿り返す様に抉っている。なんだか、力が出ない。佐藤の不調が移ったようだ。いや、いっそ移ってしまえと吉田は思う。折半して、佐藤の負担が減るのなら。
 項垂れる吉田の視界の端で、何か黒いものがもそりと動いた様な気がした。気になった吉田は顔を上げ、そちらを見る。蠢いたそれは、猫だった。黒猫。猫の形の影に、目をつけたような真っ黒い猫だった。それは、吉田の目の前を警戒にたったった、と歩いて行く。
 黒猫に横切られた、と目の前で起きた不吉な現象に吉田は顔を顰める。が、すぐに思いだした。いつぞや佐藤の言っていた事で、ここでは不吉な黒猫だが、ヨーロッパ等、イギリスの方ではむしろ幸運の印であると。その認識の背景も佐藤は説明したと思うけど、それは吉田の頭の名から零れ落ちている。覚えているのは、イギリスの方では、黒猫は縁起のいいものだという事。そこが、佐藤がかつて住んでいた所だと言う付加価値が無ければ、それすら吉田も覚えていたかどうか。
 佐藤の事を思うのだから、佐藤の方の流儀で祈ってみようか。
 黒猫を見た。だからきっと、良い事があるのだろう、と。


 あれっ、と吉田は思った。ここは、どこだろう。
 どうやって来たかは知らないが、どこかの屋敷の庭園みたいな場所に居る。自生する森や林とは何となく違う。
 ここは、どこだっけ。そしてどうやって来たか、どこへ行くか。何も解らず、首を捻る吉田に声が掛る。
「吉田?」
 と、その声は前から聴こえた。見れば、そこに居たのは――
「佐藤!」
 弾んだ声で吉田が言う。さっきまで見ていた場所に、突如佐藤が現れたのは不思議だが、今はそれよりも顔を見れた喜びが勝っている。佐藤、と吉田はもう一度名前を呼ぶ。
 どちらが駆け寄ったか、次の瞬間には吉田は佐藤に抱すくめられていた。ぎゅう、と少しキツいが全く息苦しくは無い。
「やっぱり、吉田小さい」
「やっぱりって何だよ。やっぱりって」
 そんな茶々を交えた小競り合いの後、やはりどちらが仕掛けたとも解らないキスをした。ああ、幸せだな、と思ったのは吉田だが、佐藤もそう思っているのが唇越しに吉田にまで伝わる様だった。


 と、いう夢を見て、吉田は目を覚ました。起きた時、今のが夢だと解り吉田はそれはもう羞恥で顔を赤くした。何つー恥ずかしい夢だ、と布団の中で身悶える。折角、そんな夢のせいで目覚ましより早く起きたと言うのに、いつものように母親からの叱責を貰ってしまった。義男、起きなさい!と。
 のそのそと朝食と身支度を終え、吉田は学校へと向かう。昨日の夜も今朝も、メールは無かった。黒猫に願掛けしたみたけど、佐藤はまだ病気の様だ。
 でも、佐藤の夢を見れたから、ちょっと良いかな。
 何だかんだで良い夢だった、と吉田はふにゃりと顔を綻ばせた。


 そして学校。
「吉田、おはよう」
「あー、おはよう……じゃないいいいいい!!佐藤!何で学校来てんだよ!?」
「それは俺が学生だからだよ」
「ちっがーう!違うと解ってる風に応えんな―――――!!」
 そう、教室に着いた吉田に、さらっと朝の挨拶をしたのは、他でも無い佐藤であった。とてもピンピンしている。元気そうで何より……と、言いたい所だが、それより言いたい事が山ほど。
 しかし、時間の余裕が無い時刻に来てしまったので、その山ほどある言いたい事は一時保留である。胸中にぐるぐるしたものを為、不完全燃焼な吉田を、佐藤は授業中もこっそり盗み見て、その顔を堪能していた。


「治ったんなら、一言メール寄越せよ! そしたら、………そしたら………」
「吉田? 続きは?」
「いや……良く考えたら、メール貰っても特にする事無いなって……」
 勢いに任せたはいいが、中身は追いつかなかったようだ。顔を赤くし、吉田は恥じる。
 今は昼休み。例によってオチケン部室にて、吉田は朝から溜めていた言いたい事を散々ぶちまけた。まあ、その結果も散々だった訳だが。言った方の吉田が。
「……特に出来る事も無いけど……メールは、欲しかった」
 その、勢いを無くしてぽつりと呟かれた言葉が、佐藤の胸に直に響いた。最初が最初なだけに、素直な吉田には免疫が薄いのかもしれない。
「驚かせようと思って」
 と、佐藤はメールをしなかった理由をそう述べた。まあ、それは成功したと言える。
「そんなに怒るとは思わなかった。ごめん」
 佐藤だが、吉田もまた素直な反応に対処が困る。いや、困ると言うか、そこに嬉しさと恥ずかしさも加わる訳だが。
「まあいいや。普段の佐藤って事なんだし……もう、熱とか良いの?」
「ああ、バッチリ」
 それから、佐藤は何か意味を持たせるような笑みを浮かべた。
「それがさ、凄い事が起きて」
 凄い事? と吉田は首を捻る。
「中々熱が引いてくれなくて、明日も、つまり今日の事だけど休まないといけないのかな、って眠ったらさ――夢に、吉田が出て来て」
 その一言に、吉田は丸く目を見開く。自分が佐藤と会った夢を見て、そして佐藤もまた夢の中で自分と会っていたという。しかしそこまでの事情は知らないは、単に自分の夢の吉田が出た事に驚いているのだとだけ思った。
「それで目を覚ましたら、いきなり熱が引いてたんだ。凄いだろ?」
「う……うん、」
 長引いていた熱が引いたのも凄いだろうが、実はもっと凄い事が起きているのだか佐藤はそれを知らない。そして、吉田の驚きはむしろ此処からだ。
 いつものちょっと意地悪そうな笑みを浮かべ、佐藤は訥々と語り始める。
「夢の中の吉田は可愛かったな〜。ぎゅってしても大人しくて、キスしても文句言わないしさ」
「…………!」
 吉田は、身体が飛び跳ねるかと言う程驚愕した。佐藤が言ったのは、勿論佐藤の夢の中での吉田の行動だろうが、吉田の見た夢の中で吉田が取った行動と同じだった。
 まさか。そんな。まさか。
 あり得ない、としか思えないが……そうなのか?
 同じ内容の夢を見た。というよりも、同じ夢の世界に居たという感じだ。しかしそもそも、夢の世界なんてものが実在するのかどうか。いや物質的な存在じゃなうのだから、実在云々の表現もちょっと合わないかもしれないが。
 驚愕し、固まる吉田は羞恥にやられているようにも見えた。そんな吉田を見て、佐藤は嬉しそうに微笑んでいる。3人分、吉田が足りないのだ。笑った吉田も、怒った吉田も、今目の前でしている様な固まった吉田も。正直な所、不調が長引いたのは薬が効かないとかではなくて、吉田に会えなかったからじゃないか、とすら佐藤は思うのだ。その証拠に、夢だとしても吉田に会えた事で、体調はすっかり元通りだ。
「……あ、あのさ。佐藤……」
「ん? なんだ?」
「イギリスで黒猫が縁起が良いのって、なんでだっけ?」
「は?」
 何故にいきなり、ここで黒猫の話題が出るのか。いや確かに以前そんな事を言った気もするが、だからと言ってこのタイミングで。しかし、吉田が余程「教えて!」と訴えているのが解った佐藤は、とりあえず答えてやる。
「イギリスでの黒猫っていうのは、不思議な能力を持った生き物とされてるんだ。幸運だと持て囃すのは、むしろ崇めているからなのかもしれないな。まあ……若干ニュアンスも違うだろうけど、日本で言う所の白ヘビみたいなものか?」
「そ、そうなんだ」
 説明ありがとう、と吉田は頷いた。意味不明な質問に、佐藤はちょっと怪訝な顔をする。
 一方で吉田はちょっとは落ちつきつつあった。そうか、黒猫は不思議な力があるのか。
(だったら……そのせいかな?)
 自分の願い事が叶ったのも。まあ、願いを叶えるのが黒猫の役目かどうかは知らないが、あの時、黒猫が目の前を過ぎた時にした願いは、全て叶っている。
 吉田は祈った。佐藤の病気が治りますように。
 そして。
 佐藤に、会えますように。
 その夜吉田は佐藤に出会い、次の日佐藤も回復していた。
 偶然かもしれないし、偶然じゃないかもしれない。同じ内容の夢だったのはやっぱりたまたまで、黒猫も何も関係無いかもしれない。
 まあ、それでも。仮にそんな奇跡が起きたとして、その為に後の吉田の人生の運を、全て使いきってしまったのだとしても。
 こうして普段通りに登校している佐藤を見ると、何も惜しくないと思える吉田だった。



<END>