まだまだ夏の盛りの8月下旬。それでもどこかもの寂しい空気が漂うのは、夏休みが終わるからだろう。
 それはもうどうしようもないが、それでも今年の吉田はちょっと気が軽かった。
「ちょっと義男!」
 母親の声がする。何、と自堕落に寝転んで漫画を読んでいた吉田は、その声にむくりと起き上がった。
「そんなにごろごろしてて、夏休みの宿題は終わったの? そろそろ休みも終わるのよ」
 思えば小学に上がった頃からずっと言われていた台詞だ。その度にこそこそと逃げ隠れしていた自分だが、今年は違う。
「うん、終わってるよ」
「ほら見なさい。いつも早めに……って、え? ええ!?」
 やってない、まだ、もしくはそれに準じるような台詞ばかり聴いて来た母親は、生まれて初めて聞くと言って過言でない息子の台詞に目を丸くした。
「うそ! ホントに終わってるの!?」
「うそってどういう……ホントに終わってるもん」
「だってアンタ、休みの間ちょこちょこ遊びに行ってたじゃない」
「だから、その先でちゃんと宿題やってたんだってば」
 他でも無い、その吉田の行き先とは佐藤の家だった。勿論外に遊びに出掛けた事もあるが、どちらかと言えばエアコンの効いた室内でまったりしていた方が多い気がする。借りて来た映画を見たり、何でも無い事を話したり。あとは……ちょっと恋人っぽい事をしてみたり。そして、宿題もやった。
 吉田としては、宿題なんて残り10日を切った所で手を付ければいいや、と思ってたのだが(そして母親の叱責が飛ぶ訳だが)佐藤が見てあげるというのでちょこちょこ持って行ったのだった。まあ、結果論でも無く、持って行って良かったと思う。特に英語なんて、どうやっていかさっぱりだったし。そんな、偏差値の高い恋人のおかげで、吉田の今年の夏休みは、十分の余裕を持って終焉の美を迎えられそうなのだ。
「で、結局信じて貰えなくて、実際に宿題見せてよーやく認めたんだぜウチの母ちゃん! もっと息子の言う事信じろよな!」
 ぷんぷん!と怒る吉田の前には、佐藤の姿が。母親とのやり取りのあった後日、吉田は佐藤の部屋へと訪れていた。特に何をするでも無いけど、2人きりなのが重要なのだ。
「まあ、それは日ごろの行いってヤツだよ。その重要性が解っただろ?」
「そうだけどさぁー………」
 そんな事言うなよ、とばかりに吉田は不貞腐れた。可愛いヤツ、と佐藤は胸中で呟く。
 吉田の宿題を見たのは、本格的にやばくなった時でも落第だけは逃れるようにしたのと(学年が違うと絶対に同じクラスになれないので)宿題が終わるまでは帰らせないという口実と、それと自分で解けなかった時の”お仕置き”という愉しみも込めている。吉田のおかげで、佐藤の夏休みもまた、とても充実したものとなった。去年の夏は……まあ、ある意味夏休みが無いというか、そもそも休みが無いと言うか何と言うか。
「あー、でもこの時期でこんなにのんびり出来るのもいいなー。なーんか優越感」
 その優越感は、きっと去年の自分にだろう。座ったまま、吉田は上半身を伸ばす。
「今ごろ皆、何してるかなー」
「……………」
 別に吉田は、何の意味も含まずただそう言っただけだろうが、佐藤としてみれば、折角2人きりなのに自分が吉田の心を独占出来ないなんて、といささかつまらなく覚えた。せめて2人で居る時は、他の事なんて考えずに自分だけ見て貰いたい。2人だけの時だけ、とは言うがそれでもかなり傲慢だとは佐藤も自覚している。吉田の心は、吉田だけのもので干渉し、自分の好き勝手に捻じ曲げて良いものではない。そんな事をしたら、それはもう「吉田」では無くなるだろうし。
 でも佐藤は、自分の事でいっぱいになってあわあわする吉田の顔がとても好きだから。
「……それじゃあさ、吉田」
 佐藤は自分の乾きに吉田が勘付かない様、注意を払いつつ平静を装って言う。
「吉田の平穏な夏休みに貢献した俺に、何かご褒美頂戴?」
「えっ、ごほうび……?」
「そう、ご褒美」
 にこにこ、と頬付けをついて吉田の顔を覗きこむようにし、佐藤はひたすら微笑を浮かべて見せる。
 そこからやや間があって、ようやく吉田の機能が働きだしたのか、顔が徐々に赤らんでいく。すぐに「そういう」ご褒美に頭が向いてくれるのは、ちょっと嬉しかった。恋人としてちゃんと認識されてるようで。
「え、えっと〜、」
 顔が真っ赤になった吉田は、視線を彷徨わせながら言う。狼狽する胸中を、佐藤に悟られているとは、まだ自覚に薄い様な様子で。
「それじゃ、今度お昼でも……」
「そうじゃない。解ってるだろ?」
 食事でも奢って解決しようとする吉田を、佐藤は勿論逃がさない。バレると解って嘘を突く吉田は可愛い。でもやっぱり、素直にもなって欲しい。
「今すぐ、ここで」
 佐藤が強く強請ると、吉田が困った様な顔をする。でも、紅潮したままだ。
「ダメ?」
「ダ、ダ、ダ、ダメっていうか、その、心の準備が……」
「大丈夫、そこまで貰うつもりはないから」
「そ、そ、そこまでって、何処だよ!」
 立ちあがらんばかりの勢いで、吉田が言う。
「いやー、何だか吉田、物凄い事考えてそうな顔してるからv」
「そんなに変な事考えないッ! ただ、キスとかするのかなって……!」
「あ、キスしてくれるんだ」
「!」
 嬉しいなーvと呑気に喜ぶ佐藤に、吉田が「しまった!」と硬直する。
 ある意味、墓穴を掘ったと言うべきか。吉田はもう、湯気が出そうだ。
「………い………」
 たっぷり頭の中でぐるぐるした後、ようやっと吉田が口を開く。
「今すぐじゃないと……ダメ?」
「………。うん、ダメ」
 上目遣いで尋ねる吉田に、ちょっと心がグラっと来た佐藤だが、そこはすかさず自分の要求を通す。後でも良いと言っても、吉田はきちんと果たしてくれるだろうが、このちょっと困った顔がかなりツボに来たのでもう少し堪能させて貰う事にした。吉田の意見を承諾してしまえば、たちまちこの表情は失せてしまうだろうし。
 ぞくぞくと悪寒を感じる程に震える心が、自分の中にあるのが佐藤は少し不思議だった。数年前まで、こんな感覚とは無縁に生きていたし、その期間の方が長いのに。こんな風になってしまうのは、吉田だけ。吉田の前でだけだ。絶対。
 吉田は散々困って、しかしもう何も言い返さず、結局佐藤の言う通りにする。吉田は優しいから、拒否したりしないのだ。出来ない、かもしれないが。
「……じゃあ、目、閉じて」
「えー」
「なんでそこで不満そうな声が出る!?」
 意を決して切り出したと言うのに、あんまりな展開だ。そこは吠えるように吉田が言った。
 あるいは雰囲気の飲まれれば、吉田からのキスも無い事ではないが、思えば部屋に来て最初のキスが吉田の方から、というのは無かった気がする。だからこんなに緊張しているのか、と思うと佐藤の愛しさも一入だった。
「だって、吉田がキスしとうよする顔、見たいもん」
「もん、とか言うな。もん、とか」
 唇を尖らして抗議してみれば、すかさず吉田からの突っ込みが入った。期待通りのリアクションに、佐藤の口元が薄っすら綻ぶ。
「ま、仕方ないか」
 そう言って、佐藤はすっと瞼を落とした。粘ればここでも自分の意見が通りそうだが、さっきどうしても今日が良い、という我儘を通した所だ。何でもかんでも、吉田に押し付けるのは良くない。それに、相手の願いを叶えたいという思いが、佐藤にも無いわけでもないのだから。
 佐藤にしては、割と大人しく従ってくれた事に、吉田は多少の警戒を持ったが、目を閉じたままの無防備な姿勢を保ってる佐藤を見て、それも徐々に薄れて行く。やがて吉田は「よし、」と覚悟を決めて、そっと佐藤に近寄った。
 早くしないと、佐藤が訝しんで目を開けてしまうかもしれない。吉田にとって最悪なのは、そのタイミングがキスの寸前に及ぶ事だ。さっさとやるに越した事は無い。が、さっさと出来る事では無い。吉田には。
 まず、間近になった佐藤の顔に「うっ、」となって近寄る動きが止まった。普通にしても格好いい佐藤は、目を閉じても格好良くて、しかも睫毛は長くて、黒くて艶やかだ。それがそっと伏せられている。ここまで近づいて不躾に拝むのが、何だか阻まれる。
「〜〜〜〜〜っ、」
 ほぼ毎日合わせてると言っていい顔なのに、吉田は見慣れるなんて事が出来ないのだった。いつも何か、どこか格好良くてそれが常に新鮮な驚きと共に甘い痺れを齎す。あくまでほんの些細な仕草や表情なのに、吉田の頭の中がそれで一杯になってしまうのだ。何も考えられなくて、不格好な姿を晒してるんじゃないかと、吉田は気が気では無い。最も佐藤は、そんな状態の吉田に「可愛いv」と感激しかして居ないのだが。
 心臓がばくばくと煩いが、ここはキスをしないと何時まで経っても終わらない。吉田はもう一度気合を込め、佐藤にぐっと顔を近づけた。佐藤の顔に手を掛けて、自分の顔の角度を調節したかったが、そうしたらキスまであと僅かだと佐藤は判断するだろう。そこで佐藤は、きっと、絶対、自分の顔を見る為に目を開けるだろう。そうはさせない、と吉田はあくまで顔だけを近づけた。多分、そう位置はずれないだろうし。
 後少し。ごく僅か。
 そこまで、吉田は近づいた時、とうとう――
「っ!!! わ―――――!!!」
 吉田は突如、叫び声を上げて部屋の壁際まで後ずさった。あとちょっと。まさにそのタイミングで、佐藤の目が不意にぱちりと開いたのである。
「しまった、ちょっと早かった」
 佐藤は自分の判断の甘さに舌を打つ。
「だっ、騙したな――――!!?」
 まるで全身をけば立たせた猫のように、威嚇する吉田。怒ってるらしいが、そんな吉田も佐藤には可愛いものでしか無く(色んな意味で)
「ごめんって。だって、やっぱりちゃんと覚えておきたくてさ」
 その為にはちゃんと見て無いと、と佐藤は言うのだった。吉田はぐぅ、と唸るような声を出す。
「覚えてって……いつも、してる事なのに」
 顔を赤らめて吉田は言う。
 いつもと言うか、顔を合わせればする事である。眩暈がする程激しいのはその限りではないが、唇の感触を確かめる様な、愉しむようなものは毎回と断言できる。ダメ、と言ってる校内でもやるのだから。
「まあ、毎日してるようなもんだけど、」
 と、佐藤。
「でも、毎回違うから。出来る事なら全部覚えておきたい」
 本当の意味でのそれは不可能かもしれないけど、せめて吉田からのキスだけは、という事らしい。
 キスなんてどれも同じだよ。そう言おうとして言えなかったのは、吉田の中にも同じ気持ちがあったからに他ならない。昨日と今日のキスが、同じである筈が無いのだ。周りの状況が、そして何より2人の心境が違えば当然同じとは言えない。動作的には同じ事だとしても。
 ああ、だからいつまで経っても、佐藤の綺麗な顔に慣れないのだな、とも吉田は思った。怒った佐藤と笑った佐藤の印象が違うように、昨日の佐藤と今日の佐藤にも。僅かかもしれないその差異に、吉田は敏感に反応する。そこまでしっかり見えてしまうのは、佐藤の事が好きだからだ。それはきっと、佐藤も同じ事で。
 佐藤の気持ちは解ったけど、やっぱり応えるのが難しい時もある。
「……でも、見られるの、やっぱり……」
 出来ない、と言い終わる前、佐藤の掌が吉田の髪をくしゃりと撫でる。もう無理強いしないよ、とその掌から佐藤の意思が伝わるようだった。伏せてしまっていた目をあげると、そこには優しい笑みを浮かべた佐藤の顔。
 ――あ、今だ。
 何の根拠でそう判断したのか、吉田はこの時を口付けるタイミングだと決めた。すると、さっきの躊躇は嘘のように、誰かに後ろから押されたのより余程スムーズに吉田は佐藤の唇に自分のを重ねていた。あまりに自然な動きに、吉田は自分の目を閉じるのも忘れたし、佐藤も閉じて居なかった。驚きに見張られた双眸が見える。結局、顔が見たいという佐藤の要求が叶った形となった。
 今日のキスも、忘れない思い出にしよう。このちょっと驚いた佐藤の顔と一緒に、心の中に刻み込まれる。例え、これからまた重ねられる記憶の中に埋没してしまっても、吉田の中に在り続ける。
 驚いた素の顔を見られたくないのか、眉間に皺を作った例の表情になった佐藤を、吉田は指差して笑った。



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