「吉田くん。良かったらこれ……」
 なんて躊躇い口調で差し出された物は、ラブレターや家庭科の授業で作ったカップケーキ、なんて甘酸っぱい代物ではなくてバナナである。それも一本では無く、立派にひと房。
 ついでに言えば、吉田にバナナを差し出したのは野沢弟であり、言い方が躊躇いがちになったのは口を大きく開くと胃の内容物、まさに吉田へ手渡そうとしている物が零れ出そうな危機感に瀕していたからである。
 バナナの皮散乱魔の正体が野沢ツインズの仕業であるという事は、犯人探しの旅を終えた牧村と秋本からすでに聞いていた。その動機も。
 犯人発見現場にて、美術絵の飽くなき探究を試みる野沢姉と、校内の景観と美観を保つべく奮闘を続けていた生徒会長とでなかなかのバトルがあったらしくて、うっかり吉田は「ちょっと見てみたかったかも」なんて思ってしまった。強烈な事に定評のあるこの学校の女子生徒でも、何かあの2人は別格!みたいな気がしない事もないし。
「で、バナナか」
「うん、バナナ」
 見たままを口にする2人。むしろこんな時は見た事しか言えない。
 テーブルの上には、バナナ。何をしても覆らない事実である。
「まだ満足な絵が描けないのかな」
 吉田は早速バナナを食べていた。見た目で選んだ割には、というかその判断の為かなかなか美味しい。
「まあ、これが描けたら、っていう水準や基準なんて、本人次第だし」
 佐藤が言う。半ば諦めているような、達観した言い方だった。そして、まだ事態の終焉は迎えて居ないのだとも言っているみたいに受け取れる。確かに、あの双子が簡単に大人しくなるとは思えないなぁ、と吉田も頷く所だ。
 今は放課後、場所は佐藤の部屋。帰る時間、日直だった佐藤は日誌を職員室まで運びに行き、その間吉田は昇降口で待っていたのだがその時間で野沢弟からバナナを受け取った、という顛末だ。佐藤にしてみれば数分の間空けていた時間で吉田がいきなりバナナ(しかもひと房)持っていたので、どこか異空間にでも舞い込んだかと思った。バナナ持ってるスタンスがデフォルト的な世界に(どんな世界だ)
 バナナ持って下校なんて、無駄に目立つんじゃないかと佐藤は思ったりしたのだが、バナナなのが良かったのか、そんなに奇異な目には遭わなかった。むしろ商店の立ち並ぶアーケード街では普通の様な、あと何て言うか吉田似合うし。バナナ持ってるの。さすがつり目ザルの異名を授かる事はあった。
 バナナの皮投棄に関しては、生徒会長のまち子が厳重にそして喧しく野沢ズに注意していたので、校庭や校内にバナナが点在する事はない。……と、思いたい。
 まあ最悪バナナの皮が散らかっていても、それで滑らなければ良いのだが。……ホントに良いのか?それで。
「そーいやさぁ」
 もぐもぐ、とバナナを2本目に取り掛かりながら、吉田は言う。
「お前さ、俺が記憶無くしてる時、何かした?」
 むしろ「何かしただろ」みたいなニュアンスで尋ねる吉田だった。
「別に、何もしてないけど?」
 にこっ、と笑顔で佐藤は言う。胡散臭い……!と吉田の警戒心が全身からぶわわっと吹きだす。
「少なくとも、吉田の思ってるような変な事はしてないよ」
「……その言い方じゃ、俺が変な事考えてるみたいじゃん」
「だって吉田、俺がする事「変な事」って言うし?」
 そういう事なんだろ?とちらりと視線を投げかけると、吉田の顔はぼっと赤くなる。
「初めてはまだしてないから」
「ばっ……!言うな馬鹿――!!」
 吉田は怒っているが、怒りとは別に顔を赤くしているので、恐怖なんて何も感じないものだ。むしろ、微笑ましく感じてしまう。
「……俺の方からも聞きたいんだけど――お前、記憶ない時の事は何も覚えてない訳?」
「へっ?うん、そうだけど」
 吉田の認識だと、校庭で転んだ後目を覚ましたらオチケン部室の前に居たのだ。そして、目の前に居た佐藤に尋ねてみたら、返事もなくキスされて、その後べったりとした抱擁をされた。
 佐藤のキスは、タイミング的はいきなりでもする前の時間がゆっくり流れるような気がする。一度視線を合わすから、そんな風に感じるのだろう。
 それが何の前振りも無しにだなんて、最近の傾向にしてみれば結構珍しい様な。完全不意打ちでのキスなんて、いつ以来だろうか。あるいは、初めてのキスの時か。
 余計な事を思い出した、と吉田は唸って赤くなる。
「……そうか、覚えてないのか」
 そんな吉田だが、思わず零れたというような佐藤の呟きはしっかり聞きとっていた。どこか安堵したような響きを持っていたが、雰囲気としては何だか寂しそうだ。
 記憶喪失では無いけれど、吉田は自分の目の下の傷が出来た時の事を、明確には覚えていない。佐藤にとっては重大な出来事だったのだろうというのは何となく解るから、時折無性に申し訳ないとも思う。
(……ひょっとして、俺、何かしたのかなぁ)
 佐藤から何かされた事ばかり気にかけていたが、逆の可能性だってあり得るのだ。
「……なあ、ホントに何も無かった?」
 内容はさっきとおおよそ同じだが、含めたニュアンスはかなり違った。今は佐藤の身の方を案じている。
 全くお人好しだ、と佐藤はひっそり笑う。そこが可愛い所なのだけども、それが自分だけでは無いというのが少々不満だ。
「無いよ、本当に」
 佐藤は答える。
「本当に……何も無かった」
 吉田の中に、佐藤の記憶が何もかも、無かった。
 今から思えば至極当然の反応なのだけども、吉田から本気の拒絶を受けた時の衝撃は今もはっきり思い出せる。
 なんだかんだで、吉田は自分を甘受してくれるのだと思っていた。そんな、いつの間にか生まれていた傲慢さを気付かされた結果でもあった。
 記憶を無くしても、吉田は吉田だから。自分を受け入れてくれるに違いない、と。
 佐藤はふと隣の吉田の頭、というか髪を撫でてみる。吉田は「いきなり何だ?」という顔を浮かべても、その手を払いのける様な事はしなかった。
 記憶を無くした吉田は、佐藤から逃げるように――いや実際逃げるつもりで距離を取ったのだと思う。触れられても避けれる距離。捕まえようとしても届かないその距離へと。
 西田からの抱擁はひょいひょいとかわす吉田だが、こうして自分が撫でる手を遮らない。そこに含まれた特別さを、佐藤は気付いていない筈がなかったというのに。
 全然知らない、わからない、と自分を見た吉田は、あるいはブタだのデブだのと罵ってくれた連中より、余程恐ろしいものだった。佐藤にとっては。
 吉田は知らないと言う。なら、自分も拘るのはこれでおしまいにしよう。
 一時の記憶喪失の事なんて。
 今、こうしているこの時は、吉田は佐藤の事を知っているし、佐藤は吉田の事を知っている。
 吉田が佐藤の事を好きなのを知っているし、佐藤が吉田の事を好きなのも知っているのだ。
 佐藤は、頭にある手を丁度いい、とばかりに吉田を引き寄せ、そしてまた不意打ちのように口付けた。軽く、唇の表面の柔らかさを楽しむ為のキスだった。それでも吉田には、こんなキスでもかなりの刺激になる。
「もー!いきなりはしないって言ったくせに!」
 正確には、事前に言えば良いのかという佐藤の台詞に吉田が頷いたというやり取りが成された訳だが。
 プンプン、と可愛らしく怒る吉田に、佐藤は自分の唇を舐めて言った。
「バナナの味がする」
「!!!」
 バナナの味がする吉田は、しかしイチゴのように赤くなった。バナナが欲しければこっち食え!とバナナを突きだすイチゴみたいな吉田。
「ファーストキスの味って、レモンだとかイチゴだとか言うけどさ。
 吉田は、どんな味だった?」
「聞くな―――ッ!そんな事!」
 怒っている吉田を余所に、しれっと尋ねる佐藤に吉田はまた顔が熱くなってしまう。それも、怒っているからでは無くて。
「えー、だって気になる」
 吉田のこの反応が気に入った佐藤は、さらに楽しむためそう言う。
「知らないっ!もう、忘れたッ!!!」
 ふんっ、と吉田はそっぽ向く。
「忘れただなんて……吉田、酷い」
 そう言って、佐藤は悲しむポーズを取ってみる。
 泣く真似はパフォーマンスだが、それを寂しく思う気持ちは本物だ。
 まあ、あんな不意打ちで闇討ちのようなキス、逆に記憶は残らないのかも。極端に驚いた時、その時の出来事は却って脳に記録されにくいというのは、吉田が目の傷をこさえた時にある種証明している。
 そんな風に自分を落ちつけようとしている佐藤に、吉田の台詞が飛び込んだ。
「……だって……あれからもう、何回したと思って……」
 とうとう首まで赤い吉田は、ごにょごにょと言い募る。
「……だいたい味とか、よくわかんないッ!」
 その言い方は照れ隠しのようだが、それが覚えている事に対してか、忘れている事に対してかはさすがの佐藤も判断の材料が少ない。それでも言える事は、どっちにしろ可愛いと言う事だ。
「……そっか」
「う、うん」
 カックン、と実にぎこちない動きで吉田は頷く。キスの話でここまで動揺するのもいっそ珍しい。
 たたがキス、されどキス。と言った所か。佐藤もその感覚は解らないでも無い。ただ唇の表面を合わせるだけの行為が特別な意味を持つのは、好きな人が相手の時だけ。それ以外は何の感傷も生み出さない。
 本当に、好きな人以外とでは、何をしても無意味だし無価値なのだけども、したという事実だけは残る。
 心だけじゃなくて、身体の方も吉田が始めてだったら良かったのにな。今となっては叶わないその願いは、佐藤の胸中でだけ呟かれる。
「それじゃ、吉田」
「ん? ……… ……………」
 満面の笑みとなった佐藤が、吉田との距離をさらに縮める。近づきつつある佐藤に、警戒の色を思いっきり滲ませているが、しかし吉田は避けたり逃げたりする事は無かった。記憶喪失だった時のようには。
「味が解るまで、キスしようかv」
「―――はっ!? へぇぇええ!!??」
 そう言い、さらにぐっと近づいた佐藤の顔に、吉田は目を回さんばかりにうろたえた。
「いやだって!今バナナの味しか……っ!!」
「それもそうだな」
 佐藤は案外素直に頷いた。しかしそこでほっと胸を撫で下ろすのは早計である。
「じゃあとりあえず、まず吉田に俺の味を覚えて貰おうvv」
「ちょっ……さ、佐藤――――ッ!!!」
 もうどうしたいのか解らず、佐藤の名前を叫ぶ吉田。
 その声も、その名前の持ち主に塞がれてしまう。
 あまりに深く交わされたその口付けでは、もう中はすっかり混ざり合ってしまう。
 吉田も、しているキスに、バナナの味を感じてしまったのだった。



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