小さなコミュニティが乱雑に集まっている朝の教室。会話と会話が混じり合う中でも、佐藤の耳はちゃんと吉田の声を聞き取っていた。
「吉田ー。俺、やっぱりダメだったわ」
 らくがき顔で解りづらい気もするが、牧村はこれでいて喜怒哀楽の激しい性質だ。落胆しているのが全身から滲み出ている。
「そっかー。まあ、なんとかするよ」
「俺ももうちょっと粘ってみるぜ!まだ1カ月もあるしな」
 牧村はこの日日直で、朝の内にしなければならない細々とした雑用を片付ける為、吉田の傍から席を外す。それに入れ替わるように、佐藤が吉田に声を掛けた。
「今の、何の話?」
「あー、うん。まだ先の話なんだけどな」
 牧村の口からも、「一カ月」という単語が聴こえていた。佐藤も、脳内で一ヶ月後に何があるか探ってみたが、該当らしいものが見つからなかった。そこで声を掛けてみたのだが。
「新作のゲームの発売で、徹夜で並ぶ計画してんだ」
「予約とか出来ないのか?」
「いやー、予約の段階で発売予定数みたいなの?を超えちゃっててさ。だから予約は受け付けないんだって」
 そんな事がまかり通るのか、と読書家故にゲーム業界に詳しくない佐藤としては、ある種のカルチャーショックだ。まあ、確かに予約分で全部売り切れてしまったとなると、店頭に商品が並ばない事になるので、それはそれで良くない事態なのかもしれないが。
 吉田以外にも、徹夜で並ぶ覚悟をしている生徒がちらほら居るらしい。そこは牧村からの情報だった。
 そんな情報を各クラスから集めているくらいなのだから、当然牧村もそのソフトの為に徹夜で並びたい所なのだ。だが、両親からの承諾が得られなかったそうだ。まだ高校生。されど高校生。外泊(これもある種外泊だろう)の許可が下りるのに、微妙な年頃だ。
「って事は、吉田はOK貰ったのか?」
 それとも、まだ訊いてないのかとも思ったが、浮かんだその笑みに、返事を聞く前に解った。
「うん!母ちゃんは最初しぶってたけど、父ちゃんが援護してくれたんだ」
 ニコニコして家族の事を話す吉田を見ると、佐藤もなんだか嬉しくなる。自分の境遇はどうあれ、吉田が幸せに暮らして居たらそれでいい。出来る事なら、その傍らに自分が居たら言う事無いのだけど。
 そして、吉田はさらに嬉しそうなその笑顔を広めて、佐藤に言う。
「実はさ、佐藤のおかげなんだ」
「ん?」
 別に、自分は徹夜で並ぶ事を擁護した覚えは無いのだが。若干首を傾げていると、吉田が説明する。
「ほら、最近お前ん家で英語の勉強とかしてるだろ?その辺りを、買ってくれたんだ」
 学生が親からの信用を得る一番の近道は、勉学に励む事だ。ただ自分の部屋に招きたい口実が、こんな所で思わぬ成果を生むとは。
 こんな自分でも吉田の役に立ってるのかと思うと、佐藤は本当に幸せだった。
 しかしながら、夜を徹して並ぶという行為は、手放しに応援できない所もある。相手がただの友達であるなら、多少のリスクを含んで居たとしてもそいつの自己責任だと割り切って「おお、行って来いよ」なんて呑気に送りだすだろうが、何せ相手は想って止まない意中の人だ。自分よりも余程大切な存在。身の危険にさらすような事は、出来得る限り排除したい。
 とはいえ、こんなに乗り気な吉田に止めろと言えば、拗れる事は必須。
 なので、佐藤の取るべき行動は1つだった。
「なあ、俺も一緒に並んでも良い?それ」
 満面の笑みから一転。きょとんとした顔になった吉田に、この顔も可愛い、なんて佐藤は思っていた。


 佐藤にしてみれば当然の流れで出た台詞だが、吉田にしてみれば突然の申し出だ。欲しくもないソフトの為に、徹夜で並ぶなんて訳が解らない。まあ、吉田にもう少し佐藤に好かれている自惚れというか、自覚があるのなら、自分を心配してるだとか、一緒に居たのだという想像が出来ただろうが。
「え。いや。でも、ホントにただ並ぶだけだし。駅前の電気屋で座りこむだけだし、きっと凄い退屈だろうし、楽しい事なんて何もないけど」
 まさかとは思うが、佐藤が何かしらの娯楽的要素を期待していたというなら、それは訂正しなければならない。吉田は言葉を選ぶように、普段の彼にしては慎重に物を言った。
 そして佐藤は、その内容を聞いてやはり是非とも着いて行こう、と思った。そんな楽しくもない事に、吉田を独りにさせておけない。
「佐藤、このソフトが欲しいって訳じゃないんだろ?」
「まあな。だから、こういう時でも無いと経験できない事だなって思って」
 何事も経験だろ、と佐藤は呑気に言って見せる。それでも首を捻る吉田に、佐藤は仕方ない、と本音を打ち明ける事にした。
「一緒に居たいんだよ。吉田を独りにさせたくないし」
「……あ、……う〜……」
 吉田は少し唸り、そして顔を赤らめた。言わないと解らない吉田だが、言ったら理解はしてくれるらしい。可愛らしく紅潮する吉田は、この場で口付け無いのが残念な程、可愛かった。この話は、昼休みのオチケン部室ですべきだった、と佐藤は少し悔む。
「まあ、俺の事が邪魔だって言うなら行かないけど……」
「! じゃ、邪魔じゃないって!佐藤が嫌じゃないなら……まあ、来て欲しい……かな?」
 人の良い吉田は、こんな風に引いてみれば、すぐにその手を引いてくれる。吉田のこんな所も、佐藤は大好きなのだ。
「秋本もダメだって言われてさ。1人でも何とかなるかな〜とか思ってたけど、やっぱり一緒に居てくれた方が助かるし」
 一度は拒んで見せたからか、吉田はちょっと照れくさそうに言う。
 吉田が歓迎しているのは、一緒に並んでくれる同士を得られた面が強い。佐藤は、それがちょっと不満だった。好きな人と一緒に入れるから嬉しい、と出来れば声にして聞かせて欲しい。吉田が少なからずそう思っているのは、佐藤にも解るけど。
 しかし、仮にそんな風に素直に言われたら、それはそれで、佐藤は猛烈に困る羽目になるのだろうが、素を見せたくない不器用な自分を棚に上げ、佐藤は詰まらない気持ちを携えたまま、悪戯用の激辛駄菓子を吉田に騙して渡してみた。
「それ、一気に一口で食べるといいよ」
「ふーん?じゃ、頂きまーすv」
 ぱくり。
 朝の教室で、局部的な惨劇が起こるまで、あと数分。


 そんな日から暫く過ぎた頃、正確に言えば発売日の1週間前となった時。
 教室のドアで、吉田が誰かと話していた。しかし、その相手は今まで見た事は無い――というか、関わりの無い男子生徒だった。違うクラスが距離を移動してまで、果たして吉田に何の用があるのか。
 見ている分には、西田の様な懸想は見受けられないが、安心は出来ない佐藤だ。佐藤の中に、安全圏というものは存在しない。吉田が楽しそうに話しているのも、油断ならない要素の1つだ。
「今の、誰?」
 席に戻った吉田に、早速尋ねる佐藤。ああ、と吉田は至って普段の調子で答える。何も疚しい所の無い対応だと思える。そんな図り方をして人を見てしまう自分が、佐藤は時には鬱陶しかった。ただ、目の前の人をそのまま見ていればいいのに。
「別のクラスの徹夜組。店がかち合ったら取り合いになるから、その辺聞いて来たんだ」
 その話なら、吉田も乗り気で話すのも頷ける。佐藤の嫉妬は無事杞憂に終わった。
 同じだったのであれば、どちらかが店を変えたかもしれないが、実際は別々の店だったので吉田の予定はこのまま何事も無ければ実行に移せるだろう。
「あー、でも、あと一週間なんだな!ワクワクして来た!」
「…………」
「ん?どうした、佐藤?」
 何か物言いたげに、じっと見て来る佐藤。その様子を見て、まさか一緒に徹夜出来なくなった、と言われるのではと吉田は思わず身構えた。当日がこんなにも楽しみなのは、佐藤が一緒に居てくれるからなのに。そうでなければ、徹夜での座り込みにはうんざりしていただろう。
 しかしながら、佐藤にはソフトを買うと言う目的は無いのだ。無理して並ぶ事は無いと、吉田が改めて告げようとした時、佐藤が口を開く。
「吉田って、何気に顔広いな」
「へっ?」
「余所のクラスの奴だろ?今の」
 それも、体育等の合同にすら引っ掛からない、縁のないクラスだ。佐藤には挨拶をした覚えがあるかどうかすら、怪しい。
「いや、それは顔が広いって言うか、仲間ーっていうか。牧村が聞きまくった余波が周って来たもんだよ」
 以前、親に徹夜を許されなかった牧村は、依然としてそんな親の態度を覆す事は出来ないでいるらしい。しかしその反面、情報の収集には勤しんで居る。ソフトの初回購入の特典は店によって違うので、その辺りの情報をかき集めて吉田に託したのは牧村だ。佐藤も一応、それなりに調べてみたけれども、この場合はネットよりも口コミの方が早かったようだ。
 確かに、あの男子が吉田の元を訪れたのは、そんな牧村のお零れから生じたものだろう。けれど、それを当然に受け入れる吉田が佐藤には羨ましい。
 絶対に誰も信用しないという程でも無いが、昨日今日の知り合いで心から打ち解けた会話は出来ない。
 あれだけ女子とにこやかに話していてなんだ、と思われるかもしれないが、本当の自分は対人関係において酷く臆病だ。
 今は失念しているような吉田だが、言えば頷いてくれるだろう。
 そんな自分だからこそ、今の2人があるのだから。


 決戦は金曜日。なんていうフレーズが佐藤に思い浮かぶのは、今日が金曜日だからだ。明日の土曜が発売日だ。
 学校が終わった後、一旦家に戻って着替えてから現地集合。着いたら並ぶ、という手筈だ。佐藤が赴いた時、吉田はすでに並んでいた。と、いうか座っていた。
「佐藤ー。こっちこっち!」
 吉田が精一杯手を伸ばして、自分に報せてくれる。和やかに顔を緩めて、佐藤は愛しい人の元へと駆け寄る。
 すでに3人並んでいた。大体、20代後半の男性ばかりで、おそらくこの中で自分たちは最年少だろう。
 吉田も佐藤も、スポーツバックを携えてやって来た。最も、その中身がかなり違うのは、開けてから解る事だ。
「吉田、下に敷くからちょと立って」
 地べたにそのまま座りこんで居る吉田を立たせ、佐藤はバックから取り出した銀色のシートを敷く。
「これ、地面の冷えから防御してくれるシート」
 そして佐藤は、何かぺったんこなビニール製のものを手渡した。空気を吹き込めば、小ぶりの座布団になるのだそうだ。
「佐藤、準備万端だな〜」
 感心していう吉田に、佐藤は苦笑しか返せなかった。ここに佐藤が居なければ、吉田は直接アスファルトの上で長時間を過ごす事になっていただろう。やっぱり、ついて来て良かった、と佐藤は思わずに居られない。
 そもそもお前が言いだしっぺ何だから、これくらいの準備はしておけ、とチクリと釘を刺すのを忘れない。純粋に吉田の事を案じたのもあるし、正論を突かれて言葉を詰まらす吉田の顔も見たい為に。
 出だしから佐藤にやり込められてしまったけど、シートもクッションの座り心地もかなり良い。直接地面の上に坐って居たら、佐藤が来る時点で早々に尻が痛くなっていたのだ。甘く見ていたと思わざるを得ない。
「一人で並ぶ事になってたら、トイレとかどうするつもりだったんだ?」
 何気ない会話を交えて、吉田の危機管理認識もそれとなくチェックしてみる佐藤。
「ああ、トイレ行く時だけとらちんにメールして来て貰おうかな〜って」
「……ふーん」
 虎之介の名前に、佐藤の態度は素っ気ない。直接の繋がりのな2人であるし、それ以上に中学ずっと吉田の親友のポジションを荷っていた事への嫉妬が裏に隠されている。
 そんな複雑な事情を孕んでいる佐藤に気付かない吉田は、自分のバックの中を開けて行く。
 そこから、携帯ゲーム機とソフト数本が出て来た。
「たっくさん持って来たから、好きなの選べよ」
 吉田がニコニコ勧めて来る。
「……………」
 ゲームの順番待ちにゲームをするのか。シュールだな、と佐藤は口には出さず、そう思った。


 ゲームをやりながら、時には談笑もしつつ、時間は着実に過ぎて行く。とは言え、明日の開店時間にはまだまだだ。
 そうしていたら、牧村と秋本が顔を出しにやって来た。
「おー、やってるなー」
「佐藤も一緒なんだね」
 まあな、と秋本に応える佐藤。2人は差し入れ、とコンビニの菓子を適当に見繕ってくれた。終わったら俺に一番に貸してくれよ!と念を入れて牧村達は去って行った。どうやら、それが目的の牧村に、秋本が付き合わされたような感じみたいだ。
 牧村の扱いに気を付けなければ、秋本に明るい未来は訪れないな……などと佐藤は考える。その横で吉田は、差し入れのお菓子を嬉々として開けていた。
 その後もちらほら、顔見知りのクラスメイトが徹夜で並ぶ吉田に声を掛けて行く。吉田以外に居ない訳じゃないが、やっぱりこうして徹夜で並ぶ許可が下りたのは、ほんの数名らしい。ある種、吉田は皆の希望を背負った選ばれし者なのだ。
 それにしても、と同じく声を掛けに来た、普段から比較的吉田と会話を交わすクラスメイトに受け答えしている吉田を見て、以前自分が言った「顔が広いな」という台詞を佐藤は思い出す。その表現には多少語弊が含まれるだろうが、そんなに親しい仲でなくても、徹夜をしている所を行って労ってやろう、というくらいの意識を与える人物ではあるらしい。吉田というのは。
 小学校の頃、吉田は皆の輪の中心だった。今はそんな姿はすっかり影を潜めてしまったと思っていたが、それは環境のせいで吉田本人が原因ではないと言う事か。
 あの時、吉田がよく目だったのは、苛められていた自分を庇っていたからもあるだろう。
 最も今だって、佐藤にちょっかいを出されている事で、女子の注目の的ではある。
 思いの外、吉田の人生に関わっている自分に、佐藤は密かに笑った。


 ゲームをしたり、話したりダラダラしたりと、屋外でもやっているのは佐藤の部屋に居る時と然程かわりない。しかし勿論、その時と同じように手を出して来たら、徹底に拒否しなければならないが。
 そんな吉田の意思が通じてか、佐藤はそういう意味では触れてはこない。そんなもの解りの良い所はちょっとつまんない……なんて思って無いぞ!思ってないったら!!と吉田は一人で慌てていた。
 その時。
「あっ、居た。吉田!」
 その声というか、呼ぶ時の雰囲気で、吉田は背後からかけられた声の主にすぐに気付く事が出来た。しかしそれで吉田が思ったのは「最悪だ!」の一言だ。自分だけだったのなら、そこまでは思わなかっただろうが。
「ラクガキくん達に、今日ここで並んでるって聞いたんだ。だから、差し入れ…………げ。」
 この、良い人の代表格とも呼べる西田に、ここまでの壮絶な顔をさせられるのは、吉田の知る限り佐藤だけだ。2人の因縁の理由を思うと、吉田はかなり居心地が悪い。言ってみれば「私のために争わないで!」みたいなベタな展開だ。見る分は全く問題ない展開だが、当事者になってあまり気分の良いものではない。と、いうか、そう、最悪だ。
「……なんで、佐藤が居るんだよ」
 憎々しげに西田が言う。
「吉田が居るんだから、俺が居て当然だろ?」
 そう言って、これみよがしに吉田を抱き寄せる。腕を回すだけの仕草でも、友人用と恋人用があるのだと、吉田は佐藤と付き合い始めてから知った。だから解る。これは恋人用の抱擁だ。
 佐藤と西田が対峙している所に居合わせて、何が困ると言えばこうやってお互いの意地の張り合いが自分に降りかかる事だ。西田は普段から思い込みの激しい節はあるけれど、情報操作で人ひとりを破滅に追いやる事すら出来る、状況分析に手慣れた佐藤ですら、その洞察力を極限まで低下させてしまう。意地の張り合いなんて、佐藤のキャラクターじゃないのに。
 つくづく、恋とは人を変えさせるものだ。……良くも悪くも。
「ちょ、ちょっと佐藤!」
 その吉田の声に、はっと我を戻したのは西田だ。西田は半ば無意識で佐藤とにらみ合いをしていたが、佐藤は意識的なので我に返るという事は無い。
「あー……吉田。ほら、差し入れ」
 佐藤への険しい視点から打って変わって、慈愛で包み込まれた微笑みを持って、手にしていた紙袋を吉田に差し出す。中を見れば、ベーグルサンドが2つ3つ。おそらくだが、そういう専門店で買ったものだと思われた。同店で買ったらしい、テイクアウトようのドリンクもついてある。
「えええっ!い、いいよ、こんなに」
 明らかに今までの差し入れとは質の違いに、吉田は恐縮した。
「いいから、受け取ってよ。吉田の好きそうな甘いのも頼んだからさ」
 甘いヤツ、と吉田の目が輝く。それを、かなり面白くなさそうに見る真横の佐藤。
「じゃあな。夜になると冷え込むから、注意しろよ!」
 まるで春風の様な爽やかさで、西田は去って行った。どうも、あの様子だと他に入ってある予定の合間にここを訪れた様な感じだ。時間を作って。
 そんな西田を見送って、吉田は身を縮こませて、未だ腕をまわしたままの佐藤をそっと窺った。
「……あの〜」
「何だよ」
 人の不機嫌さと言うのは、たった一言で解るものらしい。すいませんもういいです、と恐怖に負けそうになるのを堪え、吉田は恐る恐る切りだす。
「……西田から貰ったベーグル、食べて良いかな……?」
「吉田が食べたければ食べれば良いんじゃないの」
 いっそ物を食べている時以上の仏頂面だ。それでも、不貞腐れているだけで本当の怒りではないのは、回された腕の感触で何となく解る。
「佐藤も、ベーグル食べなよ」
 折しも、丁度時間は夕飯時。最もその時間を狙ってでの、西田の差し入れなのだろうが。
 吉田の申し出に、佐藤は一層険しい顔でじろっと睨むように吉田を見る。いくらなんでも、恋敵の差し入れを食べろなんて、言い過ぎだったか、と吉田は身を竦ませた。完全にへそを曲げた佐藤は、帰ってしまうかもしれない。そんな危惧も抱く。
 しかし佐藤は、「吉田はどっちがいいの」と言いながら紙袋の中を覗く。これは食べる意思表示だろう。
 こういう時、佐藤を気遣って自分の好物を避けて言っても、結局看破されてしまう。吉田は素直に、ローストブーフのを選ぶ。残ったスモークサーモンが、佐藤の口に運ばれる事となった。
 なんだ、佐藤も普通に西田に接する事が出来るじゃないか、と吉田はちょっとご機嫌にベーグルサンドを齧る。
 ――正直な所、佐藤は西田の差し入れなんて、食べたくもなければ見たくもない。とは言え、ここで自分が食べなかったらその分も吉田が食べる事になり、それはそれでなんだか面白くない。葛藤の末、佐藤は吉田への分を減らす方を取った。
 佐藤の心は、複雑なのだ。とても。


 やがて時刻はゴールデンタイムを迎え、駅前の繁華街が最も栄える時間がやって来た。ここは若干そこより離れた場所にある為、酔っ払いに絡まれるような事態は、幸い訪れなかった。まあ、なったらなったでそんなものは佐藤の人睨みで尻尾巻いて逃げるだろうけど。
 段々と、店に向かう人より帰宅する流れの方が大きくなり、やがて人の姿が殆ど見えなくなってきた。
 また少し増えた時があったが、それは終電を逃してしまった輩が始発までの身の置き場を探して彷徨っているのだろう。すでに、深夜と呼ぶ時間帯になっていた。
(えーと、あと5時間……いや、6時間……あれ、どっちだっけ??)
 そんな単純計算が出来なくなる程、吉田の意識は睡魔に蝕られていた。船を漕ぎ始めているのを、吉田本人は気付いてないんだろうな、と佐藤は窺うように見て微笑む。
「吉田、眠いなら寝ても良いよ」
「え……でも……」
「開店したら起こしてやるから」
 何のために自分が居ると思ってるんだ?と、間近の佐藤に優しい声で言われる。そんな声で言われてしまうと「絶対寝るもんか!」と散々誓った決意が、ふにゃふにゃと溶けて行くようだった。佐藤の声は危険だな、とおぼろげに吉田が思う。
「んー……じゃあ、ちょっと、寝る……」
 ちっとも、ちょっとでは済まなさそうな具合に吉田が言った。佐藤は吉田の身を引き寄せ、自分の肩に吉田の頭が乗るように密着させる。座っても尚顕著な身長差の為、中々具合が良かった。
 目を閉じると、佐藤の体温だけを感じる。佐藤の体は、服越しでも温かかった。
 佐藤、温かいな。吉田は胸中で呟く。
「吉田の方が温かいよ」
 すると、佐藤からこんな声が掛る。
 胸中だけにとどめたかと思ったが、口を出たのかもしれない。あるいは、ただの偶然か。
 それを確かめる事無く、吉田は心地よい体温に包まれながら眠りに落ちた。
 今日は、とても楽しみに心待ちにしていた。
 ずっと欲しかったゲームが手に入るし、何より。
 こうして佐藤と今までの中でずっと長い時間、一緒に居られるのだから。



<END>


*ちょっと長くなりましたんで、後編と言うか後日談続きます〜