廊下をてくてくと歩いていただけの吉田に、不意にこんな言い合う声が聴こえて来た。
「……だから、止めろって……」
「……いーじゃん、ちょっとだけ……」
 小さい音量は、距離の関係だけではなく、実際に声を潜めているような感じだった。そんな会話に、わざわざ聞き耳を立てに行く趣味は吉田には無いが、その相手が虎之介と山中だとしたら、話はまた別だ。何かがあったら手遅れな2人だからだ。
 吉田は声がした方に足を進める。多分、この曲がり角の先に2人が居る筈だ。
 ひょっこり顔を覗かせた所に、果たして2人は居た。
「おいコラ!山中お前、とらちんに――……… ………… ………………………」
 目の前にある2人の状態に、吉田の声が止まった。


 吉田遅いな、と佐藤は頬杖ついて愛しい人の登場を待ちわびていた。そんな佐藤の意識の中から、対面に坐っている牧村は綺麗にログアウトされている。何だかんだを話しかけられて頷いているのは、佐藤の無意識が行っている反射だった。
「吉田何してんだろーなー。早くしないと、昼休み終わっちゃうぞ」
 もぐもぐと弁当を食べながら、牧村が言う。これまでは牧村のセリフなんて、右から左に流すだけだったが、その中に吉田というキーワードがあったため、今のセリフは佐藤の脳内に反応した。
 昼休みになった直後、先に行っといてくれと佐吉田に告げられた。前の時間は自習で、その時の授業の係であった吉田は、集めたプリントを提出に行かなければならない。
 そして言われた通り待っているのだが、吉田はまだ現れず、代わりにもならないが牧村がやって来た。ただプリントを机の上に置いて来る作業にしてみたら、やけに時間が掛っている。
 昼休みは、佐藤にとって重要な時間なのだ。折角クラスが同じでも、授業中にちょっかいを出すわけにはいかない。その分のストレスを解消する場でもあり、家に帰ってから次に吉田と会えるまでの空白を耐える充電の役割もある。今日は牧村が来てしまったが、女子と居る時に堪えている分は放出出来るから、牧村が同席のこの場でも早く吉田に来て貰いたい。
 いっそ迎えに行くか、と佐藤が半ば決意を固めかけた時、吉田は現れた。――が、様子がやや可笑しい。
 僅かに怪訝そうな目をする佐藤の前、牧村が明け透けに言う。
「おー。どうした吉田ー?何だか仲間が頭から食われたのを目撃した時みたいな顔してんぞ」
 憔悴したようによれよれと入って来た吉田は、そのまま席についた。ぐでっと机の上で伸びている。
(まー、確かにある意味、食われてたけど……)
 吉田は牧村のセリフに触発されるように、さっきの光景を頭の中で再生する。
 角を曲がった所で、周りの目から隠れるように身を置いていた山中と虎之介は――
 キスを、していた。
(あれは!絶対に舌も入っていた!解る!俺には解る!!!)
 何故なら、佐藤にされた事があるから……と別方向からの羞恥に見舞われそうになった吉田は、慌てて思考を切り替えた。
 山中と虎之介は、あれでも好き同士で、とりあえず恋愛観念の立場だけで見ればキスをしても問題は無い……のだけど、その驚きの為に吉田はつい、ある意味いつもの通り山中を殴り飛ばしてしまった。
 更に吉田を悩ますのが、そのまま逃げるようにぴゅーっと立ち去ってしまった事だ。山中はこの際どうでもいい。ただ、虎之介が気がかりだ。あんな逃げるように立ち去ったのでは、自分が虎之介を避けているのでは、と相手に思わせたかもしれない。そんな事はないのに。ただ、吃驚し過ぎただけで。
「吉田ー? お前、なんかホントに具合が悪いのか?」
 目に見えて落ち込んでいる様が解る吉田に、牧村も若干不安を混ぜながら問い質す。が、吉田はなんでもない、と力無く言って頭を振るだけで。
 顔色が悪くないと言う事は、もしかして恋の悩みか、と牧村はたまに発揮する勘の良さを発動させた。吉田は現在、誰かに恋をしていてそれは難しいもののようだ。具体的な事は解らないけど、1人百面相をする吉田を見て難問に直面している様子は窺える。
 よし!これは俺の出番だと、牧村が意気込んで吉田に声を掛けようとした時だった。
 佐藤の掌が、ぺたり、と吉田の額に当てられる。
「!」
「んー、吉田、ちょっと熱いかもな……次の時間は、休んだ方がいいかもな。
 って事で牧村。先生にそう言っといて」
「へ?……あ、ああ。いいけどよ」
 体調が悪い様には見えなかったのだけども、しかし確かに今の吉田の顔はとても真っ赤だ。熱がありそうに思える。
 牧村は空になった弁当を携え、部室を後にする。2人だけになった室内で、佐藤は吉田にしか見せない顔で振り向く。
「で、本当は何があったんだ?牧村には言えない事なんだろ?」
「うー………」
 まだ感触が残る様な額を気にしつつ、吉田は唸る。牧村には言えない事だけども、かと言って佐藤にも打明けられる事でも無いのだが。とは言え、黙秘を決められる状況でも無さそうだ。
 仕方なしに、吉田は説明する事にする。
「えーと、その、さっきさ………友達がキスしてる所、思いっきり目撃しちゃって」
 吉田は敢えて名前を晒すのを避けたが、佐藤はすぐに虎之介と山中の事だと気付いた。ただキスの現場を目撃しただけなら、吉田はこうは塞がないだろうし。
「それで、まあ、それはいいんだけど。好き同士なんだし」
 目撃した所を思い出したのか、真っ赤な吉田は酷く可愛い。とは言え、ここで押し倒しても話は進まないので今は耐える。
「ただ、その……驚いちゃって、殴り飛ばしてそのまま来ちゃってさー」
「……それは、まぁ……良く無かったな」
 あまり要領を得ない佐藤の台詞だったが、吉田はうん、と頷いた。
 例えば佐藤が、吉田とイチャイチャしてる所をジャックやらヨハンやらに見られて「うわッ!!」みたいな顔をされたら、少なくともいい気はしない。そう思うと、佐藤の眉間も軽く寄る。
「謝りたいんだけど……やっぱ、顔を見るのが何だか気まずくて……」
 うぅぅ、と吉田はまた呻いた。
「……うん、そう言う事なら、俺に良い考えがあるかな」
 佐藤は勿体ぶったような口調で言う。
「えっ!何何?」
 期待に満ちた吉田の目を、満面の笑みで受け取りながら佐藤は言う。
「つまり一方的に見ちゃって気まずいんだからさ。吉田も俺とキスしてる所を見せれば、ほら、条件が同じになるぞv」
「……………。佐藤の………ばかぁぁぁぁああああ――――――!!!!!」
 こんな目に遭っても、結局また自分の意見を聞こうとする吉田が、佐藤にはホントのホントに、可愛いのだった。


 佐藤に怒鳴ってすっきりした……という訳でも無いのだろうけど、毒気が抜けた様な吉田は虎之介にちゃんと向き合って謝る決意をした。山中の方は……まあ、いいだろう。
 なるべく人が来ない所を、と吉田は屋上に虎之介を連れて来た。
「その……ご、ごめんね、とらちん。昨日はなんていうか……」
「……別に、ヨシヨシが謝る事ねーだろ」
 ぶっきらぼうに言い放つ虎之介は、傍目見て物凄く激怒しているように見える。単に困っているだけなのだと、中学からの付き合いがある吉田には解る事だ。
「う、うん。でも、何て言うか。好きな人とキスしてるだけなんだから、別にとらちんも悪くないのに、あんな態度は無いよなーって思ってさ……」
「…………」
「と、とらちん?」
 表情と内面の合致が難しい虎之介だと、吉田も解っているが、今の鬼気迫っているような表情は、ちょっと逃げ出したい。
「……ねーのかよ、」
「へっ?」
 虎之介からの声は聞き取りにくくて、吉田は目を瞬かせる事しか出来なかった。そんな吉田に、虎之介はまたもう一度言う。
「……気持ち悪いとか、思わねーのかよ」
「へ??」
「だって……男と……」
 ごにょごにょ、と虎之介の声が聞き取りにくいものになっていく。が、おおよそ言いたい事は把握できた。
(……そーいえば、そう思うのがフツーなんだろうなー)
 どうも吉田には男同士というより、佐藤のドSキャラや山中のダメ人間ぷりの方が余程問題に思えて仕方ないのだが。
「……まあ、世間一般じゃないかもしれないけど……好きになっちゃったんなら仕方ない……とも言いたくないけど」
 せめて山中があともう少ししっかりしてくれたら!と吉田は苦虫を噛み潰した顔になる。
「気持ち悪いだなんて、思わないよ」
「……………」
 それを聞いて、虎之介は、顔をくしゃりと歪めて――笑った、と吉田には解る。
「……やっぱ、ヨシヨシすげーな」
「ん?」
「正直、見られてもうヨシヨシとはダメかもって思った。気味悪がられて、避けられられちまうんだろうなって」
「そんな事ないってばー」
 虎之介の中の懸念を払拭させるように、吉田は小さく笑い混じりで言った。その声に、虎之介もようやく完全に気を持ち直したらしかった。にっかと欠けた歯を見せて笑う。
(……ごめんなー。とらちん)
 虎之介の笑顔を見た吉田は、もう一度虎之介に謝った。きっと虎之介の中で、吉田は普通に女の子が好きなストレートだと思っている。だから同性愛者に理解がある吉田に深く感心しているのだろう。
 まあ、仮に現在女子と付き合っていたとしても、今の発言が変わるとは思わないけども。
「……まあ、するのはいいんだけどさ。学校は止めといた方がいいんじゃないかと思うんだけども。学校は」
 それにしても、どうしてどいつもこいつも校内で人目憚らず手を出すヤツばっかりなんだろう、と吉田は思う。佐藤とか。西田とか。ある意味牧村も。
「お、俺だってそう言ってんだよ!でもアイツ、ちっとも聞いてくれなくてっ……!!!」
 吉田の忠告に、真っ赤になって愚痴り始める虎之介。佐藤との関係を打ち明けたのなら、この逆の構図にもなるのかな、と吉田は将来に対してささやかな楽しみを見出して、少し、笑えた。


「……どうやら、悩みは解決したみたいだな」
「うん、まーな。……って、どこでどうしてそんな不満そうなの」
 今日は、放課後から佐藤の部屋へのコースで現在人目を気にする事無く、2人でまったりしようという時だ。折角英語の課題抜きに寛ぐ場面だと言うのに、何故か佐藤の顔は顰められている。
「別にー。結局吉田、俺に相談らしい事してくれなかったなーって事だけ」
 ふん、と頬杖ついてそっぽ向く佐藤だった。こんな子供っぽい態度に、可愛いと思うのが先走るのは良くない事なのだろうか、と吉田は自分の判断に迷う。
「そりゃー、俺だって自分でどうにか出来る事はどうにかするよ」
「もっと頼っても良いのに」
「……いや、佐藤に頼った場合、見返りが怖い」
「……………」
 吉田の的確な突っ込みに、佐藤も黙るしか無かったようだ。眉間にはさらに皺が寄っている。
 こうなると、フォローしたくなるのがお人好しの性というものだ。単に惚れた弱みかもしれないが。
「……まあ、相談って程じゃないけど」
 吉田はそう前置きして言う。
「友達とかに隠し事したままって、やっぱ良くないのかなーって」
 佐藤との事を隠したいのは、単に女子が怖いだけなのだ。虎之介達にまで秘密にしておくのは、その余波を煽っているだけとも言える。
「……………」
 佐藤はそっぽ向いて頬杖ついた姿勢のままだ。まだ機嫌が斜めなのかなぁ、と吉田が地味に困っていると。
「……別に、何もかも打ち明けて無いと友達じゃないって訳でも無いうけど」
 吉田とは視線を合わせないまま、佐藤が言う。
「秘密があっても、信頼しあえる事は出来るだろ」
「――そ、そっか。うん、そうだな」
 自分の悩みを包んでくれるような、優しい意見に吉田はコクコクと頷く。嬉しそうに上下に頷く頭に、佐藤は自分のをそっと、こつん、と合わせた。
「ん?何?」
「別に……」
 言葉の少ない佐藤に、隠し事のせいで相手に引け目を感じているのは、虎之介に対しての自分だけでは無いのだと、吉田は気付いた。まだ、吉田はここから離れていた佐藤の生活をまるで知らない。
 秘密があっても信頼しあえる、というのは、佐藤の希望――願望から出た言葉かもしれない。
 佐藤が言った時は、虎之介との事を指してではあったが、勿論吉田は相手が佐藤だとしてもきっとそうだと頷いた。そう言う代わりに、吉田は軽く凭れかかる佐藤の重みを受け入れる。
 女子の前で流暢に嘘を吐く佐藤より、こうして上手く言える台詞が浮かばなくて結局隠しこんでしまう佐藤の方が、吉田はとても、大好きなのだ。
(――まあ、それでも言ってくれた方が嬉しいんだけどな)
 やっぱり、好きな人の事は色々知りたいし。
 なんて思ってしまった自分が恥ずかしくて、赤くなる顔が相手に見られない今の体勢に、吉田はそっと感謝した。



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