2月に入り、学校内全体がピリピリと緊迫、というよりももはや殺気立ったような空気に満たされているような気がする。
「……気がする、って思いたいけど、気のせいじゃないんだよな」
 自分の向かいに坐る、牧村と秋本のどちらともなく、呟いた。秋本も、表情だけで自分にも解る、とばかりに頷いていた。
「やっぱり、バレンタインだよねぇ」
 秋本が言ったバレンタインという単語が、吉田の中では戦闘開始の合図か何かのように聴こえてしまう。現時点でこれなら、当日は一体どうなってしまうというのか。教師としての権限を行使しても、女子達のあの勢いには全く敵わないというのは、この前行われた美術の授業で証明された様なものだ。まあ、前からそうだとは思ってたけども。
「皆、佐藤にチョコ渡す為に今から準備してるんだろうな〜。……うう、当日が怖い……」
 秋本の呟きは吉田のみならず、この学校の男子全員の思いだった。バレンタインに女子が居ないといいと思う共学の男子生徒なんて、この世にここだけだと思う。
 と、その時。
 チッチッチ、と舌打ちのような音がした。見れば牧村が、あの口を更に尖らせて唇を慣らしている。猫か鳥でも呼んでるのかと、秋本と吉田は一瞬周囲を見渡したが、どうやら異議を唱える時の小粋なアクションだったようだ。
「甘いな、お前ら。女子達は、佐藤に渡すためじゃなくて、渡さない様にピリピリしてるんだ」
 えっ、そうなの?と2人は驚いた顔になる。特に吉田なんて、佐藤からそんな話しを聞いていなかった。まあ、これは聞かなかったからなんだろうけども。
「大量にチョコを貰っても、佐藤が困るだけだからあげるのは止めておこう、って校内では協定結んだ訳だけどよ、ほれ、余所の学校の生徒とかは、通学路で待ち伏せして渡すかもしれないだろ」
 しれない、というより確実に渡すだろう。吉田の顔が知らず剣呑になる。
「今の内から殲滅活動に勤しんでるみたいだけど、相手がどこに潜んでるかを全部把握し切れた訳じゃないからな……ま、当日まで当分こんな感じだろ」
 この牧村のセリフだけ聞くとバレンタインの話しなのか戦争の話しなのか区別が出来ない。
「14日過ぎれば、大丈夫かなぁ」
 不安がっている秋本の声。
「事前にこれだけ騒いでるって事は、それだけ当日に力入れてるって事だし、多分いいと思うけどなー
 15日のチョコなんて、26日のクリスマスケーキみたいなもんじゃん」
 中々説得力のありそうな牧村に、秋本もやっと安心したようだった。しかし、そんな2人のやり取りを前に、吉田はずっと不機嫌のままだった。
「全く……佐藤、当日休めばいいのにな」
 ふん!とツンケンとした吉田の態度は、普段は見られないような荒みようだった。
「吉田、それは……」
「――俺がなんだって?」
 どちらかと言えば吉田を落ち着かせようと、それは佐藤に対して言い過ぎだと言おうとした秋本の声を遮り、当の佐藤が現れた。昼休みの半分以上過ぎている時間だが、佐藤はオチケンの部室へとやって来た。そして、当然のように吉田の隣へと座る。
 目に見えて機嫌の悪そうな吉田の原因は、今来たばかりだけども時期を考えればすぐに見当がつく事だった。今だって、バレンタインの贈り物を控えさせる為、女子と一緒に昼を済ませて来たばかりなのだから。
 佐藤の問いかけに、吉田は「別に」とぶっきらぼうに答える。また、吉田が同じ事を言ったらどうしよう、とハラハラしていた秋本は、それにほっと胸を撫で下ろし――
「えー? 何、凄い気になるから、言ってよ。ね?」
 なのにしつこく食い下がる佐藤に再び冷や汗を流し始めた。お願いだからそれ以上訊かないであげてー!という秋本の願いは無残なくらい届かない。いや、届いているけども無視されているのだろう。
「……佐藤はバレンタイン当日、どーするんだよ」
 不安がっている秋本には、吉田も気付いていた。さっきみたいなセリフは止め、ニュアンスだけ同じにして佐藤に言う。しかし吉田がまだ機嫌悪いので、喧嘩勃発しやしないかと、秋本は依然おろおろと汗を飛ばしている。んで、牧村と言えばハイティーン雑誌で「女子からチョコを貰う為に必要な20の事」という記事を熱心に読み込んでいた。こんな状態でも(色んな意味で)バレンタインにチョコを貰う事をまだ諦めていない彼の精神は見上げるものがあるだろう。が、見習いたくは無い。
 普段に加え、やたら目つきの悪くなった吉田に、佐藤は他にどれだけがこんな吉田の顔を見れているんだろう、と自惚れながら思った。吉田は基本お人好しだから、余程の事が無ければ人に怒りをぶつけたりしない。
 ……実の所、佐藤以上に山中の方が遥かに怒りの感情を向けているだろうが、気付きたくは無いのかその事実は佐藤の中でスルーされていた。
 吉田のとげとげした視線をたっぷり浴びながら、佐藤は言う。
「そうだな〜。帰って部屋で大人しく、本命の子からチョコレートくれるの待ってるよ」
「おっ。佐藤もやっぱり、本命チョコは欲しいんだな?」
 俺と同じだなとばかりに牧村が雑誌から顔を挙げて言う。
「それはそうだよ。やっぱりバレンタインだし」
「だよな〜。俺も欲しいな〜」
 佐藤と牧村が軽口のような会話をする。この2人、たまにノリが合う。
 佐藤は勉強も出来て、スポーツも万能で、ちょっと近寄りがたい所もあるけれど、好きな子の事を言う時は、同じ高校生だととても身近に感じる。だから秋本も佐藤を友達だと思える。
「……あれ、吉田。顔、どうしたの?」
 ふと、吉田を見てみると、その顔は目に見えて解る程に真っ赤だった。怒りの為……では無さそうだけど。
「なあなあ、佐藤はどんなチョコが欲しいんだよ」
 しかも吉田のその顔の赤みは、牧村が佐藤に質問する度に赤くなっていくような気がする。
「んー、そうだな。手作りでもいいし、市販でも良いよな。きっと真剣に選んでくれたんだろうし。
 もっと言えばチョコで無くてもいいな。とにかく、そういうイベントの日に何かしてくれるのが嬉しいって感じで。
 キスしてくれるだけでもいいや」
「〜〜〜〜ッッ!キッ、キスだけって、おまッ!!!」
 ガタッと椅子を揺らして、吉田が上手く言葉にならないくらい、動揺している。
「どうした、吉田ー? キスだけで真っ赤になってウブだな、お前♪」
 表向き、一般論の様に言う佐藤のセリフだが、吉田にはこれが自分への個人攻撃だと解る。しかし、ここでそれを突っ込む訳にもいかず、ただ呻いて黙るしかない。
「よ、吉田?どうかしたの?ホントに」
 友達の豹変に、秋本もおろおろしっぱなしだ。
 そんな秋本のセリフを聞いて、佐藤は。
「うん、そうだな。顔も赤いし。
 保健室行くか、吉田v」
「絶対行くもんか――――――――!!!!!!」
 吉田の叫びは、オチケンの部室をも揺らした。


「もー!!人前であんなギリギリな事言いやがって!」
「良いじゃないか、気付いてないんだし。っていうか気付くはずの無い2人だったんだし」
 微妙に秋本と牧村に暴言を吐く佐藤だった。まあ、確かに気付いてはいなかったが。
「……で、何。お前、チョコ欲しいの」
 まだ不機嫌の体を見せながら、吉田は尋ねる。
 佐藤へのチョコは買っていない。と、いうより買おうかどうか迷っている、というのが実情だ。
 あまり良い状況ではないが、佐藤の本音が聴けたと言うのはありがたい。……出来れば、もっと別の形が良かったけども。
「牧村に言った事は嘘じゃないよ。チョコじゃなくてもいいし、キスだけでもv」
「…………」
 その笑顔を見て、吉田は絶対何かあげよう、と心に決めた。でないと、とんでもない事をさせられる(される?)かもしれない。
「で、それはそうと。女子からのチョコは貰わないって本当?」
 吉田は佐藤に尋ねた。牧村の話では女子達自らが決めた総意のように言っていたが、絶対佐藤が何かしらの操作をしたに決まっているのだ。吉田には確証は無いが確信は出来る。
「まあな。俺がどうこう口出す前に、そういう流れにはなってたようだけど」
 ふぅん、と吉田は半信半疑な返事をしたが、ここは信じる事にした。山ほどの贈り物が当人には迷惑でしかない、という判断が出来る程度の理性が女子にあるとは思いたい……が、美術大会の時の惨劇が脳裏を過ぎる。
 きっと、バレンタイン当日はあんな感じでチョコレート狩りが始まるのではないか……そんな予感がして来た。
「それに、渡しに来たらちゃんと断るって」
 佐藤の呟きに、吉田は本当?と見上げた。
「うん。そういうのはちゃんと断る」
 いつも吉田をダシに女子の誘いを断る佐藤が言うとかなり怪しくもあるが、小池の告白を断った事は忘れない事実だ。それが今に至るきっかけなのだし。
 ただ、一緒に遊びたいな、という軽い誘いだったら、適当にはぐらかす佐藤だけども、気持ちが付随すれば真っ当に返事をするのだと思いたい。
 今更のように、小池の告白を断った佐藤に対して頬が染まる。断ったのは、その時ですでに佐藤の中には吉田が居たからだ。
「何、顔赤くしてんの?」
「あ、赤くない………」
 2月の寒さも感じない程熱い頬を持て余し、それでも意地っ張りな吉田はそう言い返すしか無かった。そんな吉田も、佐藤には物凄く可愛いし、愛しい。
 にこにこして眺める佐藤。
「……あのさー、佐藤」
 顔の赤みが大分薄れた吉田は、話を切り出す。
「その、あんまり断れないようなら、ちょっとなら貰って来ても、俺、怒らないからな?
 いっぱりだとあれだけど、3,4個とか、5,6個とか……」
「……………」
 視線を逸らしてそんな事を言う吉田に、佐藤の中には疑惑が広がる。――吉田は、チョコレートが好きなのだ。何度も佐藤の仕掛けた悪戯に引っ掛かる程に。
「吉田v」
 にっこぉりvとした笑顔を見て、吉田は上手く隠していた(つもり)の自分の企みがバレてしまったのを察した。が、時はすでに遅かった。
「もしかしてお前、俺からチョコの横流し貰おうとか、そんな事考えてないよな〜?」
「そ、そ、そんな事、考えて無いに決まってんじゃん〜」
「へ〜、そうー?」
「うん、そ、そ、そう、そう」
「へ〜〜〜〜」
「へ……えへへへ。えへへへへへへ………」
 笑うしかない吉田だった。


 そして決戦――もとい、バレンタイン当日。
「……一旦家に戻ってから佐藤ん家行くよ」
 発電でもしそうな空気をひしひしと感じ、吉田は言った。
「……ああ、それがいいだろうな。一緒に帰れ無さそうだし……」
 珍しく、佐藤が弱ったように言う。
 まあ、無理も無い、とある種佐藤より禍々しいオーラを放つ女子達を吉田は眺めた。
 佐藤が他校の女子からも目を付け始められた当初、それらから守る為に佐藤の周りをがっちりガードしての下校が続いた訳だが、今日はその時を遥かに凌駕している。今の迫力に比べたら、あの時のものなんてライオンの前の子猫ちゃんだ。
「え、えーと。なんていうか、頑張って」
「………ああ」
 良く解らないままに出した吉田の励ましに、佐藤もただただ頷くだけだった。
 佐藤も大変だが、吉田もまた大変だった。女子からのやり玉にあがるくらい、吉田は表向きでも佐藤と最も仲の良い生徒であり、それは大統領への直通電話であるホットラインの様な扱いでもある。
「ねー、ヨシヨシ、ものは相談なんだけど、このチョコ、佐藤君に届けてくれない?」
 と、いうやり取りが地味に繰り返されている訳で。
「……ごめんだけど、そういうの受け取ってたらキリがないんで。ホントにごめん」
 吉田はぺこぺこと頭を下げる。しても居ない約束で怒られるのは嫌だけど、こうして頭を下げる事に抵抗感は無かった。こう言っては何だが、佐藤の本命は自分だから。
「あ〜、やっぱり。そんな感じだと思った」
 吉田にとって幸いなのは、今の相手は話しの解る井上だった事だろう。きちんと彼氏の居る彼女は、佐藤への憧れは芸能人へ向けるスタンスから決して逸しない。吉田に断られたが、苦笑だけで済ませてくれた。
「じゃ、まあいっか。これ、ヨシヨシにあげる」
「えっ!ええええ!!い、いいの!!?」
「うん。彼氏には別に用意してるし、自分で食べるのも虚しいしね」
 ありがとー!と吉田は素直に受け取った。実際井上のチョコは市販のもので、大げさでも無い、かと言って安っぽくも無いセンスの良いものだった。貰い受けるのに、あまり躊躇いは生まれてこない。
 チョコレート貰って嬉しい!と喜んでいる井上に胸に、ちくりとした罪悪感が刺さる。実は、吉田にあげる事で、ついでに佐藤も口にしてくれないかな、という計算込みだったからだ。勿論素直に、吉田にあげたいという気持ちもあったけど。
「じゃあ、これ、とらちんと一緒に食べようかな」
 吉田のセリフに、井上は少し慌てる。それはついでに佐藤に口にして貰うという計画がご破算になるからではなく。
「ああ、とらちんにもちゃんと用意してあるから」
「あっ、そうなんだ」
「うん。何だかんだで、迷惑掛けてるしねー」
 井上は苦笑する。単なる中継役とは言え、そういう自覚が無いわけではない。それでも、虎之介が断らなければならない事だと決め、伝える事も止めないが。
「って事で、これからあげてくるわ」
「うん。井上さん、チョコありがとね」
「ふふ。今の時代、義理チョコなんて逆に貴重でしょ。
 来月の3倍返し、待ってるからねーv」
 井上の軽いノリに、うへぇ、と吉田も冗談交じりに呻いて見せた。最後に笑いあって、虎之介の所へ向かう井上の背中を見送る。そして、誰も居ない廊下を歩いた。
 放課後の校内だか、とても閑散としている。と、いうのも、佐藤を死守する為、女子がこぞって校外に見張りに出ているからだ。
 そのおかげである意味、犯罪の起こらない安全地帯というだろうが、その監視の目は自身の命すら脅かす可能性すらある。もうちょっと後から帰ろう……という男子達で校内にそれなりに人は居るが、実質半分の生徒数だと意外に人に出会う確率は減るものだった。
 秋本は洋子ちゃんの為に早く帰ったし、牧村は無謀にも外に居る女子にチョコを強請りに言った。「まだバレンタインは終わって無い!」と果敢に校門をくぐって行ったが、どうか彼の命に終わりが訪れないのを祈るばかりだった。
 吉田は、ある程度女子が退いたら連絡する、という佐藤の言葉を受け、メール待ちの最中だった。さて、それまでどうするか。図書室で時間を潰すのがこの場での最善策かな、と足は図書室へと向かう。
 しかしながら、この時の判断を、吉田は少し後悔する羽目になった。
「――吉田!」
 その道すがら、嬉しそうに自分の名前を呼ぶ西田を出会って。


 西田の顔を見た時、吉田の中に突如何かの音楽が流れた。脳内を検索してみると、その曲はドラクエで敵と遭遇した時のBGMだと判明した。西田は相手をして欲しそうにこちらを見ている…!!
「や……やぁ〜、西田。それじゃー……」
 まさにするーっと西田をスルーしようとしていた吉田だけど、そんな空気が伝わる相手では無かった。
「吉田、1人なのか?佐藤はどうしたんだ?好きな子を1人にするなんて、全くあいつは……」
 苦々しい表情で西田が言う。この善人にそんな顔をさせるのは、世界広し言えども佐藤くらいなものだろうな、と思う吉田もまたその原因の一環なのだが。
「……いや別に、させたくてしてる訳でもないし……」
 佐藤のフォローか、、吉田はつい受け答えをしてしまった。
 吉田への懸想を抱く西田は、どうも佐藤へ対する評価は厳しい。まあ、それはそのまま逆に当てはまる事だけども。
 もっとお互いが、良い所を知って認め合って貰えれば、自分の負担が大分減るんだけど、なんて希望的観測を抱く吉田の目に、ある物が目に入った。
「西田……チョコ、沢山貰ったんだな」
 へー、と何だか感心したように言ってしまった。
「ああ、全部義理だけどな」
 それでも、嬉しそうに西田は紙袋の中にあるチョコを眺める。
 きっとこれらのチョコは、西田から何かしら助けて貰った人の感謝の形なのだろう。西田の場合、義理は義理でも義理人情という感じがする。
(……いいなぁ〜。あれだけあったら、1カ月はチョコに困らないぞ……)
 食欲での羨望でチョコを眺める吉田だった。じぃ、というその視線に歪みは無い。
 そんな吉田の熱っぽい視線を、西田がややこしく勘違いする……と、いう事も特には無くて。吉田がチョコが好きだと言うのは、西田も熟知していた。
「吉田。なんなら1つ要る?」
「へ? ……だ、ダメだろ、そんなん!西田にあげたんだから!!」
 一瞬空いた間で、吉田の心の揺らぎが見えた。
「いいって。「皆で食べてね」って貰ったヤツもあるし」
 どれだったかな〜と袋の中をまさぐる西田。
 さっき、井上からもチョコを貰ったし、それに紛らわせればいいかな……と、吉田はちらっと思った。
 けども。
「いや、さすがに……やっぱり………」
 ここはどう貰うかではなく、誰から貰うかが重要なのだ。井上は、自分を全くの友人だと思ってるから、吉田も受け取ったけど。
 でも西田は。
 そんな吉田の思いが届いてか、西田は探す手を止めた。通じた事は喜ばしい事だが、同時にかなり申し訳ない。西田はただ、目の前にチョコ好きの人が居るから分けようと思っただけなのに。
「ま、それもそうだな」
 西田が意外な程明るい声で言う。見上げた顔は、何だかさっぱり……という言い方も可笑しいけれど、何だか清々しそうな雰囲気さえあった。
 西田は正直、拒まれてちょっと嬉しかったのだ。何故って、本気で好いているという自覚を持ってくれているという証になるから。こんな暗い喜び方をするのは、佐藤が伝染ったみたいでちょっと嫌だけども。
「……吉田は佐藤にあげるのか?」
 何を、と言う程西田も野暮では無かった。
 吉田は、ぽっと顔を赤らめた後、うん、と、こっくんと頭を揺らす。
 そんな吉田はとっても可愛らしい。
 抱きしめたくなるが、それは決して許される事ではないのだ。西田は、ぐっと堪える。
 西田はこの前、吉田が止めた佐藤との決闘(?)の時に思い知った。
 佐藤の事を想う吉田が、きっと、最も可愛いのだ。



 もう大丈夫、のメールを貰い、吉田も帰路に着く。途中、もう女子は大丈夫みたい、と怯えている男子に救済を施しながら。
 家に帰り、大慌てで引き出しの中に隠していた紙袋を取りだす。潰れていないのにほっとした。
 これはこの前、虎之介と一緒に遊びに出掛けた時、催事場で買ったものだ。タイミング良かったよな、とその時を思い出して笑う。
 自分で作った物じゃないけど、とても真剣に選んだのだ。喜んでくれるといいな、と吉田は大きくは無い紙袋を大事そうに持ちあげた。気持ちと一緒に足も弾ませて、佐藤のマンションへと向かう。
 すっかり慣れた道を辿り、程なくドアの前へと立つ。佐藤が出て来るまでの僅かな間でも、身体がそわそわしてしまう。
 ガチャと戸が開かれた。
「あ、佐藤――――ッッ!!?」
 ぐいっと腕がもげそうなくらいの力で引っ張られ、吉田の足は多分宙に浮かんだだろう。気付けば、吉田は佐藤の腕の中にすっぽりと収まっていた。
「……何だか、随分久しぶりに吉田の顔、見るような気がする……」
 ぎゅうぎゅうと吉田を抱きしめながら、いつもの張りが薄れた声で佐藤が耳元で呟く。その感触に、吉田の背筋がぞわぞわっとなった。
 数時間前まで、一緒に教室にいたと言うのに随分な口振りだが、つまりはそれだけ佐藤が疲弊してると言う事だ。帰るまでの道のり、女子達の間に何があったのか、かなり気になる所だがここはそっとしておいてあげよう。
「寒かっただろ。温かいの淹れて来るから」
 吉田は先に佐藤の部屋に通され、温まった部屋で凍えた身体を癒した。固まった様な身体が解れて行くのが心地いい。
 今の内、と吉田は鞄の中から紙袋を取り出した。どんな顔をするかな、と今から想像で楽しんだ。
 今日、自分がバレンタインの贈物を用意してあるのは、佐藤には内緒にしてあったのだ。佐藤は自分があげる側だと決め込んで来て、強請る事すらしない。吉田は弱にこの状況を利用して、佐藤を驚かせようと思った。単に、虎之介と遊びに出かけた時、バレンタインの催事場を見つけた時に立てた計画だ。
 互いにあげたとなると、一ヶ月後にまたややこしいかもしれないが、その時はその時、とさほど気にしては居ない。
 長い間、バレンタインは女性から男性に贈るのが定説だったけど、好きな人が居るのなら贈る側の方が多分楽しいと吉田は思う。最近、女から男への構図が崩れて来たのは、きっとそんな単純な事だと思った。


 部屋は温めなければならないから、17度で溶けてしまうチョコレートは置けない。キッチンに置いておいたチョコを手にし、コーヒーと一緒に吉田の元へと訪れた。
 そして。
「はい、佐藤。バレンタインのチョコ!」
 佐藤が差し出す前に、吉田からチョコが突きつけられた。えっ、と佐藤はリアクションを取るのが遅れる。驚いたのと喜びが混ざり合って、初めての感覚が襲う。
 まるで生まれて初めて手にする物のように、佐藤は恐る恐る酷く慎重な手つきで吉田からのチョコレートを受け取る。軽い重み。直前まで外で持ち歩いて筈だから、冷たい筈なのに何故か手にはじんわりと温もりが伝わるようだった。
 目の前で吉田がこっちとじぃ、と見ていて、佐藤は焦る。こんな時、何を言えば吉田は一番喜んでくれるのだろうか。クラスの女子相手にはスイッチを押すように簡単に出て来るセリフの数々は、吉田の前だと全部吹っ飛ぶ。しかも、何故だか付き合いが続く程に、その度合いは酷くなっていった。
「あー……ありがとう」
 結局、散々悩んでそんな事しか言えなかった。吉田がそんな自分に失望してないか、不安になったが、佐藤の声を聞いた途端、輝くような笑顔になった吉田に今のセリフで正しかったのだと胸を撫で降ろした。
 吉田はきっと、何も飾らない事を望んで居るんだと佐藤も解っている。それでも、素の自分が吉田にとって相応しいとは、どうしても思えないのだ。
 佐藤からのチョコを受け取り、吉田は「ありがと」と吉田は言う。すぐに言える吉田が佐藤には眩しい。
「開けて良いよ。今から食べよう」
 佐藤に促されて、吉田は箱を開けて行く。蓋を開けて現れたのは、ケーキだった。両手の輪に収まりそうな、小ぶりのチョコレートケーキ。
 佐藤に切り分けて貰って、早速口にした。チョコレートの生地にチョコレートがかかった、とてもシンプルなケーキだ。
「んー。なんか果物っぽい感じがするけど」
「生地とチョコの間に杏のジャムが塗ってあるんだよ」
 なるほど、どうりで生地には何も含まれていない筈だ。行儀悪いと思いつつ、そっとコーティングされたチョコを取ってみる。はっきりと解る程ではないが、確かに何かを塗って、濡れているような光沢があった。
「吉田のも開けて良い?」
「うん」
 佐藤は自分が食べたいというより一緒に食べたくて、包装を解いた。すでにチョコレートを食べている吉田だが、普段の好きっぷりを思えば吉田には軽いだろう。
 最初はきっと、吉田は自分があげたものだからと我慢するのだろうけど、その表情を堪えずに居る事は出来ないだろう。その時の吉田を思って、今からくすくすと小さく笑う佐藤だけども、中身を見た途端それらの予想は見事に覆る事になった。
 吉田が贈ったものは、チョコレートであってチョコレートでは無かった。
 チョコレートフレーバーの、紅茶だった。
 ティーバックだが、その瓶ブラック、ミルク、スイート、と種類を楽しめるようになっている。
「面白いだろ、それ。ホワイトチョコもあるんだ」
 にこにこ、と笑うように吉田は言った。
 食べる時顰めてしまう顔を、佐藤は気にしている。紅茶ならその心配は無い。これを見た時、吉田はそう思った。それに紅茶なら冬の間中楽しんでもらえるだろうし。
 開けて、中身が紅茶であった事に佐藤は完全に裏をかかれた。吉田は敢えて口に出さない理由も、佐藤はすぐ感づいた。自分のあの食事中の悪癖を、吉田はちゃんと考えてくれているのだ。
 思えば、あの食べ方のせいで苛められていたのかもしれない。それでも、こんな風に吉田が汲み取ってくれるのなら。
 こんな自分も、ちゃんと受け入れられそうな気がする。
 ふと、口元に微かな感触を感じた。見れば、顔を可愛らしく染めた吉田が自分を覗きこんでいる。
 キスしたのだ、という認識が遅れてやってきた。
「……何、今日の吉田って、とっても積極的だな」
 吉田がそんなだから、からかいたいのに佐藤も何だか上手く出来ない。
 まあ、ほら。今日はバレンタインだし、と吉田はそう言った。
 だから佐藤も、普段の自分らしくない自分の事も、バレンタインだからとそう思う事にした。
 来月のホワイトデーにも、きっと何かとびきりの事が待っている。いや、一ヶ月後を待たなくても、明日にだって自分の世界を吉田が彩ってくれる。
 とりあえずは自分も吉田にキスがしたいと、そっと顔を寄せる。まだ口にしていないチョコレートの甘い方向が、佐藤の口内にも広がった。



<END>