人類が唯一足を踏み込む事に成功した、地球外天体――つまり、月。
 地球の周りを公転衛星ではあるが、日々僅かとは言え、徐々に地球との距離を開けている。
 今はまだ途方も無いくらいの先、けれど確実に月が消える未来が待っている。
 昨日と変わらない様に浮かんでいる月を眺め、佐藤はふとそんな事を思う。


 冬の良くない所は寒いのとすぐ暗くなる事、と吉田は思う。今はそうでもないけれど、小さい頃は明るい時が外に出られる時間だったから、それが短くなってしまう。
 放課後、図書室でちょっと過ごしていたら、外はすでに夕暮れも終わりに差し掛かっていた。
「すーぐ暗くなっちまうなー」
 校門を出てから、確実に暗闇が増している。街頭はすでに点灯していた。
「まあ、これでも昨日よりは日が長くなっている筈だけどな」
 最も昼の間が短い冬至を過ぎたのだから、と佐藤は言う。実際にはきっとそうなのだろうけど、あまり実感は湧いて来ない。
「――おっ、星が出てる」
 すでに闇色となっている部位には、都会では見えないと言われている星がそれでも健気に輝いている。瞬く、という表現のように、ずっと灯っている訳では無く、ちらちらと点灯して見える。
 月は何処だろう、と探して目を巡らすと、丁度吉田から見て横の空に月は在った。星と比べて存在感が圧倒に見える。星が少なく見えるから、余計に月が一際目立つのだろう。
 その月は、吉田の目にはまん丸に見えた。
「なあ、今日って満月だっけ?」
 佐藤に吉田は訊いてみた。何せ佐藤は博識だ。
「あー、確かに丸いな。でも、満月じゃなかったような気がする」
 月の形状は見た目では無く、暦の上できちんと決まっている。簡単な計算で次の満月の月日が割り出される程だ。佐藤なんて、見て円ければ満月でいいじゃないかとすら思うのだが、やはり完全に満ちていないと認めないという人が居たのだろう。吉田も、満月じゃないと知ってちょっと残念そうだった。
 地球に最も身近で、そして唯一の自然の天体による衛星。いつかは国内旅行みたいに月に遊びに行く時代が来るだろう、なんて言っているが、この当たり前に在る月が、いつかは文字通り手も届かない、姿も見えなくなる存在だとどれくらいの人が知識の片隅に仕舞っているだろう。最も、その頃人類が存続しているという保証も無いけれど。
「吉田って月とか行ってみたい?」
 本当に何となく、佐藤は訊いてみた。何か言ってないと、月から妙な事を連想してしまいそうだからだ。――別離が確定している、身近な存在というものに、自分に相応するもの。
 等々に訊かれた吉田は、へ?と目を大きくしたが、からかうような意地悪な質問でも無かったからか、割と真面目に返事を考えてる様子だった。そんな所が愛しいのだ。吉田は。
「んー、そうだなぁ。やっぱり、一回は行ってみたいよな。
 無重力体験とかしてみたいもん」
 無重力だけなら、スペースシャトルに乗る事でも出来るのだが。吉田はそういう事を言っているのではないから、佐藤も野暮な突っ込みは入れない。
 月からだと地球が月みたいに欠けるって本当かな、とか、宇宙食って美味しいのかな、とか、吉田は取りとめのない事を話す。佐藤も、知っている知識から、月には風が無いから人類初の足跡がまだ残っているとか、クレーターにはいちいち全て名前が付いているのだとか言い、吉田の感心と興味を引いていた。
 どれだけ科学に疎い人物でも、月を知らない人は居ない。それはたった1つの衛星だからか、あるいはそれ自体に魔力があるからなのだろうか。嘘か誠か、満月の夜には犯罪が増えると言うし。
 吉田は、今日、月が出ていて良かった、と思う。佐藤の話は楽しいし、何より意地悪じゃないし、揶揄もしない。楽しい時間だ。話しながら、再び月を目に留める。
「満月じゃないけど――でも、綺麗な月だよな。佐藤」
 月の明かりは太陽の反射光と言うが、とても同じとは思えない。仄かで、儚げで、暗闇の中ぽつんと灯っている。
 綺麗だ、と吉田が佐藤へ言うと、佐藤は頷きかけて――不意に、吉田の顔を見つめる。なんだろう?と吉田は佐藤の次の動向を待った。
 佐藤の口が動く。
「……月が綺麗ですね」
「へ?う、うん、」
 何で敬語?と怪訝に思ったが、それ以外は変でも無いので、とりあえず頷いておいた。その後、しばし佐藤は吉田を見続け――やおら、口角を吊り上げた。意地悪い、からかうような笑みだ。英語の問題に間違った答えを書いた時、浮かべる様な。
「なっ!なんだよその笑い方!!何が言いたいんだよ!」
 折角今日は穏やかに終わると思ったのに!と別の方向こみで吉田が憤る。
「別にー? ただ、吉田、日本文学もちゃんと読まないとな、って。夏目漱石とかさ」
「夏目漱石くらい知ってるよ!「吾輩は猫である」を書いた人だろ!?」
 何故ここで夏目漱石が出て来るのか、吉田にはさっぱりだけど、とりあえず無知では無いと噛み付く様に言い返す。
「まあ、そうだけど。でもそれだけじゃないよ。確かに小説を書いてたけど、英文学者だって事、知ってた?」
「えいぶんがくしゃ……英文学? え、英語の先生だったの? 夏目漱石って」
 初耳とばかりに吉田は目を瞬かせた。案の定の反応に、佐藤は押し殺すのに失敗した笑みを零す。まあ、もとから隠すつもりもあまりなかったけど。
「おー、英文学者がちゃんと解ったか。偉い偉いv」
 ちょっと間が空いたけどな、と付け加えて、吉田の頭をわっしゃわっしゃとかき混ぜる。固い髪質の吉田の頭は、すぐにぐちゃぐちゃになった。何すんだー!と叫びかけた所、佐藤はその口にさっと素早くも自然な流れで口付ける。怒りで赤かった顔が、すぐに別の意味になった。
「〜〜〜◇☆◎%$&△×!!!?」
 全くの不意打ちで構える事も出来なかった吉田は、キスが終わった後軽いパニック状態だった。目が回っているのが見て解る。
 自分でくしゃくしゃにした頭を自分で整えながら、佐藤はくらくらしている吉田にそっと言う。
「吉田と居ると、月が綺麗に見えるよ」
 かの文豪の時代。日本人は奥床しいから、異国の愛の言葉には、こう言わせて使えとそう教えたそうだ。




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