その日、吉田は珍しく目覚ましのアラームが鳴る前に目を覚ましていた。
 が、身を起こした所でまんじりともせず、何も行動を起こす事無く時間だけが過ぎていった。
「………………」
 そうしている内、いつものように母親からの「いつまで寝てんの!起きなさい!!」という怒声が聴こえて来た。時計のアラームなんかより、実質的な吉田の目覚ましだ。
 ふぅ、と気だるく吉田が息を吐き、のそのそと着替えを始める。
 その顔は、この時はまだ気付かれないものの、確かに赤みを帯び始めていた。


 まるで雲の上でも歩いているような、実に心許ない足元。でも、原因が解っているから、吉田は特に気にするでも無かった。登校途中に出会った虎之介から「何かヨシヨシ、ぼーっとしてんな?」と怪訝そうにされても、やっぱり理由が判明しているから、割と適当に誤魔化して難を逃れた。
 そうこうして、やっと教室に辿りついた。何だか、今日はこの道のりがやけに遠くに思えた。
「おはよー」
 と、牧村と秋本の2人に声を掛ける。おはようと2人はすぐに朝の挨拶を返してくれたのだが、その後揃ってじっ、と吉田の顔を見た。
「吉田……なんか、顔赤くないか?」
 まず、牧村が言った。
「うん、熱でもあるんじゃない?」
 そして続けて秋本が言う。顔が熱いというのは、吉田も自覚はある。だからこそ、問題無いと見ているし、誤魔化す必要も感じていた。
「朝寒いから、そのせいじゃないか?」
 声が変に上ずったりしないように、注意しながら吉田が言う。しかし、2人は先ほどの虎之介のように、すぐには退いてくれなかった。
「いやー、でも、そういう赤さとは違うと思うぞ?」
「まだ時間あるし、一度保健室で熱でも測って来たら?」
 2人がどちらも純粋に心配してくれていると解る。でも、今はそんな気遣いは煩わしい限りだった。ほっといてくれよ!と言ってしまいたいくらいに。
「もー、何、2人そろって心配性だな!何も無いって」
 そう言って吉田は、強引に机へと向かう。
 しかし、そこに。
「どうかした? 何、朝っぱらから揉めてんの? 吉田」
「!!」
 背後から佐藤の声がかかり、吉田は身体が飛び上がらんばかりに反応した。


「あ……」
「おー、佐藤、おはよー。なあ、吉田の顔が熱いんだけど、熱でもあるっぽくね?」
 おそらく故意ではないだろうが、言いかけた吉田のセリフを遮って牧村が言う。うわああああ!何て事言うんだお前!!と吉田が内部で悶絶する。
「へえ、顔が赤い?」
 明らかに楽しそうな色を含んだ佐藤の声。しかもそれは、吉田がそれを隠したいと解った判断での事なのだ。全く意地が悪い。
「どれ、吉田。風邪でも引いたの?」
 俺が診てやろう、とばかりに今は背中を向けている吉田の前に回り込む。佐藤が覗きこむ前に、吉田が腕でガードする方が早かった。
「だから、何でもないんだって!熱とか風邪とか関係ねえの!!」
「隠すなよv」
 吉田の意見をさらりとスル―して、佐藤は顔を遮る腕を退ける行動に出る。何せSっ気のある佐藤なので、相手が嫌がったりすると燃える性格をしている。しかし同時に、相手に嫌われるのを何よりもとことん恐れている性質でもあるので、ある種、難儀とも言えた。
 ある程度、越えてはならないボーダーラインを見切っているつもりだし、本気の拒絶と単に恥ずかしいだけとの区別も見分けられる。この場では、吉田のこの反応は後者だろう。佐藤は嬉々として腕を掴む。
 その時、違和感。
「――あれ、お前、本当に熱い………」
「あーもう!離せって!!」
 ブン!と思いっきり手を振る。余所事を考えていたせいか、佐藤の手はその動きであっさり解けてしまった。あれ、と吉田が拍子抜けな顔になる。そして、その反動で身体が大きく傾く――
 いや、反動だけのせいではない。倒れて行く身体を、持ち直す事が出来なかった。景色がぐるぐる回る。なんだこれ。変なの。気持ち悪い――
「吉田っ」
 慌てたような佐藤の声。
 転倒すんぜんだった身体を、佐藤の腕が掴んで支えてくれた事だけは、吉田にも解った。


 深く沈んだ意識を、誰かに持ち上げられるような、そんな覚醒だった。
「……………」
「起きたか?」
 ここが学校の保健室だという、吉田の状況把握が済む前に、佐藤の声がした。その方に顔を傾ける。目に入りそうになった前髪を、佐藤の綺麗な指先がそっと退ける。微かな感触に、寒気の溜まってるような背筋がほんのり温かくなる。
「38度の熱だって。まあ、ここまで上がってたら、逆にハイになって気付かないもんなんだろうな」
 そう言いつつ、佐藤が苦笑を浮かべているのは、すぐに気付けなかった自分に対してだろう。ぼんやりと、吉田は佐藤を見上げる。
「……俺、熱あったの?」
 ワンテンポもツーテンポも送れた吉田の反応を、しかし佐藤は楽しそうに見やる。
「今が丁度上がりきってる所かな。解熱剤はちゃんと飲ませたから、帰る頃にはちゃんと歩けると思うよ」
 まあ、家まで送るけどね、と当然に佐藤が言う。吉田が居た堪れなくなったのは、帰りに付き添われる事では無く、意識無い自分にどうやって解熱剤を飲ませたか、という事だった。その方法は明白で、聞く気にはなれない。何も飲んでいない筈の唇は、水気を含んでいた。
「……………」
 その時の記憶が無い事が、却って色々想像させて、ますます居た堪れなくなった吉田は毛布をすっぽりと被ってしまった。ベッドの上に出来た小さい固まりに、佐藤の笑みがますます深くなる。
「……佐藤のせいだからな」
 くぐもった声がした。聞き取りにくかったが、そう言った事は解る。人気のない保健室は、吉田の声を聴くのに邪魔するものは何もない。
「ん? 俺のせいって?」
 謂れの無い嫌疑をかけられても、佐藤の笑みはそのままだ。しかし、鉄仮面のようなその微笑も、吉田の言葉で容易く崩れてしまう。
「……夢の中で佐藤が出て来たから……朝起きて、ぼーっとするのも、顔が熱いのも、胸がドキドキするのも、そのせいだって思って……だから……」
 だから異変に気付いた虎之介や、秋本と牧村にも誤魔化したのだ。まさか顔の赤い原因が、佐藤が夢に出たからだなんてとても言えないから。
「――へぇ、」
 さっきより幾分トーンを落とした声で、佐藤が言う。その声に、吉田は自分が今、とんでもない事を口走っていた事に気づく。言った後に気付くなんて、本当に熱が回っているらしい。
「そう、夢に俺が、ね………」
 どちらかと言えば爽やかな系で人気を集めている佐藤が、こんなにサドっ気ある低音で喋るだなんて、クラスの女子は誰も思わないのだろう。
「……う、ね、眠るから、出てって……」
「ヤだ」
 きっぱりした声に、佐藤のドS心に火がついたのを察した吉田は、包まった布団の中で「うひゃー!」と怯えていた。佐藤が病人相手でも手加減しないのは、吉田には嫌ほど解る。
「ね。吉田、顔見せて」
「…………」
「吉田?」
 優しい声の裏に、実力行使の意思があるのを感じ取り、吉田はおずおずと鼻先まで顔を覗かせた。嬉しそうに微笑む佐藤とバッチリ目が合ってしまい、一瞬風邪とは別に熱が上がる。あぅ、と声も無く呻いていると、佐藤の顔がより近付いた。
「バッ……!何すんだ!!伝染るだろ!!」
 どう見ても口付けようとしている佐藤に、吉田は気だるい身体ながらにも抵抗した。
 反抗する理由が、学校で不埒な事をするでもなく、病人相手に無体を強いる事でも無く。相手の身体を気づかうセリフが咄嗟に出るあたり、吉田の人の良さが滲み出ている。
「風邪が伝染るなんて、半分以上迷信だよ」
「えっ、そうなの……って、それじゃ半分未満は本当って事だろ!!」
 最近、吉田の突っ込みのキレ味が良くなったように思う。それだけ慣れて来たと言う事か。
 本格的に暴れさせて、眩暈を起こさせるのは忍びない。佐藤は、吉田を宥めつつも、その距離を確実に縮める。
「俺が原因で熱が出たんだろ?なら、責任取らなくちゃなー」
「せ、責任ってこんな時ばっかり……」
 何やら言いたい事が色々ありそうな吉田の口を封じ、佐藤は病人相手にするようなものとは思えない、濃厚な口付けを交わした。普段より、やはり吉田の口内は熱い気がした。
 たっぷり吉田を堪能した後、確実にキスの前より真っ赤になった吉田に、額同士をコツンと合わせて囁く。
「ねえ、夢の俺って、どんなだった?何したの?」
「ぅ…………」
「教えてくれるまで離さなーいv」
「うぅぅぅぅぅ……」
 熱と羞恥の為、目を潤ませて吉田が呻く。やがて、観念したように、口を開いた。
「……別に。いつも通りだよ」
「んー?」
「だ、だから………」
 吉田はぼそぼそと説明する。一応本当を言っているのだから、疑われたり否定されたらちょっと困るな、と思ったが。
 言い終わった後。佐藤の蕩けそうな笑みを見て、そんな不安は途端に吹き飛んだ。


 結局、一日の殆どを保健室で過ごした。何せ高熱だったので、下手に家に返すよりは熱が引くまで保健室に置いておいた方が安全――というのは、実は佐藤が保険医に進言した事で、勿論そうした理由は学校に置いておいて、自分が吉田を看たかったからに他ならない。言い訳程度に、家で一人で寝かせるよりは、医学の知識ある者が滞在する部屋に置いておきたかったから、というのもある。
 佐藤が飲ませた(飲まさせた)薬のおかげか、下校時間にはまだ微熱がありそうなものの、普通に歩くのには何の問題も無かった。こうして歩いてみると、やはり朝の状態は異常だったのだな、と吉田は改めて思い知った。
 そして、言った事は実行する佐藤のポリシーにより、いつもの分岐点では無く、家の前まで送られてしまった。なんだかよく解らないが、無性に恥ずかしかった。家を見られるのなんて、今更だと思うのに。
 佐藤は、今日は世話になりっぱなしだった。朝、保健室に運んでくれた事から始まり、昼には佐藤がコンビニのオニギリでお茶漬けを作ってくれて、それを食べた。お茶は職員室から貰った来たのだそうだ。佐藤みたいな優等生は、職員室に入るのに何の畏れも無いのだろうな、と吉田はちょっと思ってみた。
 それから喉が乾いたら、と言ってポカリを2本ほど枕元に置いて行った。2本も飲みきれないと思うのだが、それだけ佐藤が気づかってくれているのかと思うと、何だか嬉しかった。結局丸々1本は残ってしまって、佐藤に返そうと思ったのにその手づかずのポカリは自分の鞄にしっかり入っていた。
 帰ったらまた熱を測っておけ、と言われたが、佐藤には悪いがスルーさせてもらおう。引いた感触があるし、この後はもうじっとしているつもりだし。
 部屋着に着替えて、吉田はふぅ、と溜息をついた。朝、起きぬけにした時のように。
 佐藤と一緒に居て――目が覚めて。今までのが夢だという現実に、吉田は暫く呆然としていた。現実の世界であれだけ会っているのに、まだ足りないと夢の中にまで出るだなんて!
 きっと、夢のメカニズムはそんな情緒を無視したものなのだろうけど、吉田はそう思ってしまった。そう思えてならかった。だから余計に、口を噤んだのだ。
 佐藤から問い質されたけれども、夢の中の佐藤は実際の佐藤と、何も違わない。
 いつも、佐藤と過ごす時と、同じ事をしてきた。
 他の人には見せない顔で微笑んで、ぎゅっと身体を抱きしめて、こんな自分相手にとても上手なキスをする。
 そんな佐藤に、吉田は何時だって、熱が出そうなくらいドキドキしているのだった。


 さて、後日――
「――なあ、大丈夫?熱とか出てない?」
「出てないって。だから、言ってるだろ?半分以上迷信だって」
「だから!残りの迷信じゃない部分を俺は心配して――」
「うぃーっす!吉田に佐藤、オハヨー。んで、何が迷信だって?」
 佐藤と些細な諍いをしていた所、無邪気に登校して来た無邪気な牧村の無邪気な一言に、吉田はギクッ!!となった。
「えーと、だからほら。プリンに醤油かけるとウニみたいな味になる、みたいなの」
「お。それか。誰かやった事あんのかなー、それ。何、吉田やるの?」
「い、いや、やらないけどさ」
 そんな適当な会話を交わした後、牧村は自分の席に着く。ほっと胸を撫で下ろして、その様子を見守っていた吉田。
「俺達もそろそろ座った方が良さそうだな」
 佐藤が言う。確かに時刻は迫っていたが、何だか体良く逃げられた気がする。不満そうに眼を吊り上げる吉田。その目を本人に解らすように、佐藤は席に着く前、ちょん、と吉田の眉間を押した。
 その後――というか、今日、丸一日。風邪が伝染ってないかと、始終自分を観察する吉田の視線を感じ、昨日の看病分の報酬以上のものを貰った心地の佐藤だった。



<END>