「うー、さぶさぶっ」
 そんな風に一人で呟き、少しでも気を紛らわそうとした。急激な気温の変化に、服装が追いつかない。
 吉田はホットのココア(残念ながら、自販機のコーヒーは無糖ばかりだった)を抱え、掌をじんわりと温める。普通なら熱そうな温度が、今は丁度良いくらいだ。明日も今日のように寒いのなら、上着の下にはセーターを着込んでこよう、と吉田は今から決めた。
 近くの公園のベンチに腰掛け、吉田はココアを飲む。この公園は、よく小さい子がその親と一緒に外での遊びを楽しむ場なのだが、今は誰も居ない。気温のせいというより、単に時間帯の問題だろう。遊び手のいない公園は、寒さのせいもありより一層寂しげだった。
 まあ、そんな風に光景が見えてしまうのは、吉田の心情の錯覚かもしれなかった。吉田の脳内には、女子に囲まれながら帰る佐藤の姿が鮮明に映っている。それもその筈、ついさっきの出来事だからだ。1時間も経っていない。
(今頃、どこで何をしているんだろうな……)
 佐藤の事だ。全く自分に興味の無い場所に連れて行かれたとしても、あの完全な愛想笑いで乗り切っているのだろう。
 現在の佐藤の事は解らないが、明日の佐藤の事は吉田には解る。佐藤の自宅で、自分と一緒に居るのだ。
 ――吉田。次の土曜日、お化け屋敷が超有名な遊園地と俺の家に行くの、どっちがいい?
 満面の笑みで迫られたあの選択には、果たして自分の考える余地があったのか、永遠の謎である。と、いうか、素直に「ウチに来てよ」くらいいえないのか、あの性格歪み男は!
 そもそも自分が素直に頷けない性格なのを棚に置いて、吉田は憤っていた。おかげで、ちょっと温まったのは僥倖だったかもしれない。
 明日は何の菓子を買っていこうかなー、と考えながら、ココアを飲んでいると、吉田はふとある物に気付いた。見つけた当初は半信半疑だったが、それをまじまじ見つめてみると、自分の初見が間違っていない事が判明した。
「……………」
 ちょっと考えてから、吉田はそれに手を伸ばす。
 そして、大事に仕舞いこんだ。


 そして、次の日。
 特に大きなトラブルが訪れる事無く、吉田は無事に佐藤の家のチャイムを鳴らしていた。……まあ、この部屋に入って無事で居られるかどうかは解らないが。
「いらっしゃい」
 程なくして、服装にも表情にも飾り気の無い佐藤が現れる。そんな佐藤の姿を、自分以外のどれだけの人数が知っているんだろう、と最近の吉田はそんな事がちょっと気になっていた。
 おじゃまします、と声をあげて、吉田が靴を脱いであがる。佐藤の部屋までの、長くも無い距離を、並んで歩く。
「……………」
「……吉田?」
「えっ? 何?」
 訝しそうな声で呼ばれ、吉田が撥ねるように声を上げた。
「いや、それはこっちのセリフと言うか……何、俺の事じっと見てるのかなって」
「べ、別に? 気のせいじゃないかなー」
 あはははー、と吉田は乾いたような笑みを浮かべ、佐藤の部屋に入るドアを開けるときにもおじゃまします、と言った。
 何か、色々と可笑しい。挙動が不審と言うか。
(一体、何なんだ?)
 軽く首を捻りながらも、佐藤はコーヒーを入れる作業を続ける。基本、吉田が傍に居てくれれば、それで満足してしまう佐藤だった(まあ、居たら色々したくなるけども)。


 部屋に居る時は、だらだらするのが2人のスタンスだ。ゲームでもあれば賑やかになるのかもしれないが、ここには本しかないし、佐藤は元より吉田も読書は嫌いな性質じゃない。2人がそれぞれの読書に没頭する時も多々あるが、好き勝手やってる状態はさほど嫌いでは無い。もっと言えば、勝手にしてくれている状況が嬉しい、とでもいうか。この部屋も、吉田の人生の中の一部になれているように思える。
 とは言え、そこは2人とも健全な若者であるし、それ以上に恋人同士だ。ダラダラするだけではない。ドキドキしたりする。
(うー、……心臓、めちゃくちゃドキドキしてる……)
 左胸に手を当てなくても、解る程だった。胸の鼓動が全身を震わせているようにすら、思える。
「何か、飲む?」
「ジュース……」
 今の吉田は冷たくて甘いものが欲しかった。疲れているし、何より熱いから。
 わかった、と佐藤は小気味いいくらい上機嫌な発音で返事をして、キッチンへと向かった。何あの顔。締まりないでやんの、と悪態をつく吉田の顔も、中々緩んでいる。好きな人と沢山触れあえるのは、幸せな事だ。
 そう、幸せな。
 その単語で思い出した吉田は、はっとなって起き上がった。裸のままの上半身もそのままに、衣服を掴みあげ、しかし着るのではなくてポケットを探る。
(良かった。ちゃんと無事だ)
 寝室から出た吉田は、さっきまで佐藤が読んでいた文庫本を手にした。
 佐藤がジュースを持って戻った時には、吉田はちゃんと服を着て待っていた。


 どれだけ居ても、帰る時の佐藤のちょっと名残り惜しそうな顔は、いくら長時間居たとしても払拭されないと思う。なんだか、置いて行かれるような佐藤の目。自分の家に帰るだけなのにな、と吉田はその時の佐藤を思い出しながら湯船に浸かっていた。
(――今頃、佐藤、何してるかな)
 気付けば、佐藤の事ばかり考えている。特に今日は、気にしなければならない理由があった。その原因は、自分で撒いたのだ。
(また、本でも読んでるのかな)
 今日、手にしていたあの本を、読んでいるのだろうか。あの本はいつ読み終わるのだろうか。最終頁に、いつ辿りつくのだろうか……
 あれこれ思いながら、自室に引っ込む。と、その時をまるで見計らったように、携帯の着信音が鳴り響く。ドキーッ!と心臓が逆バンジーしたように撥ねたのは、その着メロが佐藤だったからだ。
 あわわわ、とうろたえながらも、吉田は通話のボタンを押す事に成功した。
「ももも、もしもし!!!」
 はたして携帯でもこの掛け声(?)が必要なのか疑問だが、もう習慣のようになっているから気にしない事にした。
『吉田。――俺の本に何か挟んだよな』
 もう最後まで読んだのか!佐藤の読書スピードに、驚愕する吉田。まだ、こちらの準備が整っていなかったというのに。心の。
『読もうとして、手に取ったら何か挟まってる感触があったからさ。何だろうって思って見てみたら……』
「…………」
 そうか。何も律儀に全部読まなくても、何かが挟まっている事くらいは解るな。吉田は今更に、自分の計画の欠点に気づいた。もはや破綻した計画である。
 ふ、と携帯の向こうで佐藤が微笑むのが解った。途端に、顔の温度が上がる吉田。
『この四つ葉のクローバー。俺の為って思っていいの?』
 今日の吉田がどこかそわそわしていたのは、これを潜ませるタイミングを図っていたからだったのだ。四つ葉を見つけた時、そんな吉田の心情を慮り、思わず顔が綻んだ佐藤だ。
「ぅ………」
 絶対されるであろうその質問に、切り返す文句はtちゃんと考えていた筈なのに、まさにその直面に立たされて頭の中は真っ白だった。
 頭は真っ白だけど、顔は熱いし、胸の中はぽかぽかとあったかい。目もぐるぐるしてきた。
『いつ見つけたの?探したの?俺にくれるために探したの?』
 矢継ぎ早の佐藤の質問は、回答を求めたというより、そのセリフからの吉田の反応を楽しむ為だった。まあ、普通に知りたいと言う欲求も勿論あるけれども。
 そんな微妙に歪んだ意思に気付かない吉田は、律儀に答えていた。
「いや……き、昨日、たまたま見つけて……」
 ふと見た足元に、クローバーが密集している箇所があった。四つ葉でもあるのかな、と思って何気なく見ていたら、本当にあったのだ。こういうものは、大抵血眼で探すより何気なく目にした方が見つかるものなのかもしれない。
「だ、だから……それで………
 ……………」
『吉田?』
 優しい佐藤の声。吉田は、頭の中が沸騰して来た。
「だ、だから〜〜〜っ!! 
 もー!お前も俺と同じ高1だろ!?そのくらいの年齢が、こーゆー真似すんのがどれくらい恥ずかしいかってのも解るだろ!見つけたらそういうの察して、そっとしとくのが大人の対応ってモンじゃねーの!?」
 ただえさえ、普通に手渡すのが出来なくて、こんな本に忍ばせるという回りくどい手段を取っているのだ。こっちがこうやって苦労してひた隠しにしようとしていんだから、付き合ってくれても良いのに!!!
 場違いな怒りに吉田は燃えた。まあ、単に照れ隠しな訳だが。
 言いたい事は言い終えて、はあはあ、と肩で荒い息をする。音量というより、精神的に体力を摩耗した。
『へー、吉田も大人を語るようになったか……』
 爆笑を堪えているような声で、佐藤が言う。
 なんでこんな事しちゃったんだろう!と吉田は今こそ後悔の念に見舞われた。
「う、うっさいな!!!」
 顔を真っ赤に、吉田は怒鳴る。もう、一方的に切ってしまおうかという時、佐藤が言う。
『でも、俺はそっとなんてしておけないよ』
 その声は、さっきまでとは裏腹に、静かで穏やかなものだった。
『だって大人なんかじゃないし』
「…………」
『それに――嬉しかったから。俺にくれたのが。これ、別に、何かの間違いじゃないよな』
 何をどう間違えたっていうんだか。しかし突っ込み方に困った吉田は、別の事を言う。
「……うん。佐藤がさ、今よりちょっとでも幸せになってくれたらな、って思ったんだ」
 だからあげたんだ、とまるで呟く様に、吉田は言った。
 佐藤には幸せになって欲しい。でも、自分には知力も財力も無いし、体力にしてみても誇れる程でもない。以前のように、身体を張って佐藤を謂れの無い暴力から救えるかも疑問だ。まあ、今の佐藤なら、性質の悪いの数人に囲まれても容易く返り討ちにしそうだけど。山中を蹴り飛ばした場面を思い出し、ちょっと遠い目をする吉田。
『……………』
「え、えっと、さ、佐藤??」
 何でもいいから、この際揶揄でもいいから何か言ってくれないと、かなり居た堪れないのだが。電波でも途切れたか?と吉田が怪しむ前に、佐藤の声がした。
『――あ、ゴメン。充電切れそう』
「え、そ、そうなの?」
 充電切れの、あのピーとかいう電子音は、相手には聴こえないものらしい。
『うん、それじゃ』
「う、うん」
『おやすみ』
「おやすみ……」
 その後、プツン、と繋がっていた電波が切れる。
 何だか、ぎこちないようなやり取りで通話は終わった。
 あまりに恥ずかしい真似に、土壇場までするかどうか、散々迷ったけど――
 嬉しかった、という佐藤の言葉を聞いて、吉田は、やっぱりあげて良かったなかもな、とちょっとだけ自己満足に浸ったのだった。


 一方、佐藤はベッドの上、枕に顔を押しつけるように突っ伏していた。その顔は、吉田に負けず劣らず――いや、吉田以上に赤い。
 充電が切れただなんて、嘘だ。とにかく一刻も早く通話を切りたかっただけの口実だ。毎度の如く、嘘なのだ。
 だって――あれ以上、吉田と話していたら、とんでもない醜態を晒しそうで。みっともない自分の本心を、吉田へ曝け出してしまうかもしれない。何の虚勢も無い自分は、吉田の一挙一動でおそろしく振り回される、そんな弱い人物なのだから。
 吉田の何気ない一言で、地に沈む程に落ち込む事もあれば、逆に天まで昇って戻ってくれないくらい、舞い上がったりもする。
 今のように。
(――今より、だって!?)
 ばすばす、と枕を叩きながら、佐藤は悶える。――顔を真っ赤にして。
 ああ、吉田のバカ。あいつは何て、バカなんだ。この世で最も大バカだ!
(お前が俺に付き合ってくれている以上の幸せなんて、あるはず無いってのに!!!)
 胸中で吉田をバカバカ、と罵る佐藤は、それとは別に頭の隅で、今ここに吉田が居なくて本当に良かった、と思う。止められない悪態よりも、きっとこの表情は、ぐしゃぐしゃになっているだろうから。
 嬉し過ぎて、もう、どうしればいいのか、解らないくらいに嬉しくて。
 幸せで。
 好きな人が、自分の幸せを願ってくれる。これ以上の事が、本当にあるのかと思う。
 その好きな人が、それを望んでいたとして。
「……………」
 ベッドの上で、ごろり、と身体の向きを変えた佐藤の眼には、吉田がくれた四つ葉がある。幸運を呼ぶアイテムとして、あまりに有名な草。 
 四つ葉のクローバーは、見つけるのは大変かもしれないが、増やすのは簡単だ。四つ葉の苗からは四つ葉が咲くので、ちゃんと育てられたらこっちのもんである。
 吉田が自分の事を思ってくれている。これ以上の幸せなんてあるもんか、と思う傍ら、吉田と居ると今以上の幸せがこの先あるのかもしれない、とも感じて来る。
 幸せとは、決められた数を探し当てるものではなく、自分で増やせるものかもしれないから。



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