学校生活において大いなる福音である夏休みに、無粋なまでの染みを作るその日を登校日という。辛うじて半日とは言え、早起きの代償は何とも如何し難い。
 その日を明日に迎え、それに備えるが如くに自宅でだらだらしていた吉田は、だらだらしたまま佐藤に「明日の登校日かったるい」的なメールを送った。
 佐藤の返信は他人よりちょっと早い様に思う。単純に、文字を打つ手が早いのだ。身長の高い佐藤は勿論手も大きいのだが、それとこれが関係しているかは定かではない。
 佐藤からの返信を見る為、メールボックスを開く。ちなみに、本人全く無自覚だが、顔が綻んでいたりする。
 しかし、その文面を見て顔色が変わった。
 佐藤からの返信は、初めは佐藤側のちょっとした状況が綴ってあり、問題の一文はその後だ。
 メールには、こうある。

『明日提出のレポート。ちゃんと今の内から鞄に入れておいた方がいいぞ』

「……………………」
 その文面を、きちんと内容を理解してから、吉田はピピピと素早く携帯を操った。今度は通話で、しかし相手は同じで。
 さっきまでメールを打っていたのだから、相手が出るのは早かった。繋がると同時に、吉田は叫ぶ。
「すっっっっかり忘れてた――――――!!!!!」
 と。


「どどど、どうしようどうしよう、コロっと忘れてて何もしてないよ俺!
 てかあれ、表にくっつけるプリントみたいなのあったよな!?それもどこ行ったんだか全く見当もつかないんだけど――――!!」
 どーしよー!とひたすら喚く吉田。
『吉田。とりあえず、落ちつけ吉田』
 諌める佐藤のその声は「大方そんな事になってんじゃないかと思った」と語っていた。
『そのプリントなら、何枚か予備で刷ってあるから。とにかく、来れるなら今からこっちに来いよ』
「う、うん!今すぐ行く!!!」
『晩御飯は要らない、って母親に言っておけよ』
「解った!!」
 さり気に夜にまで付き合いを命じられたが、課題の事で頭が一杯の吉田が気付ける筈もなかった。


 タンクトップに短パンという、怠惰な夏の生活を送るに相応しい服の吉田だったが、そこから大慌てで外出着に着替えた。佐藤に言われた通り、母親にメール夕食不要の件を送ってから、あとはひたすら佐藤の家を目指した。1秒でも早く!
(うー、暑いー!!!)
 自転車を漕ぎながら、吉田は暑さに呻く。今日もまた最高気温が35度だというから、家に引きこもっていようと思ったというのに。
 佐藤の家に着いた頃、吉田は汗だくも良い所だった。しかし、着替えを持って来たからシャワーを心置きなく浴びた。この着替えも、佐藤に言われて持参したのだった。どうせ汗かくだろ、と言われて。
 汗を洗い流し、さっぱりした吉田は、佐藤の部屋に向かう。いつもなら本を読んだりだらだらする所だが、今日は課題をやっつける為に来たのだ。
 吉田が取り組まなければならない課題は、世界情勢についての何かをまとめたレポートだった。例えば未だに後を引く世界不況やら、石油等の燃料枯渇問題、幼児虐待とか高齢化社会のような事だ。勿論、問題定義の方向ではなくてもいい。医術の進歩や、実現性が高くなりつつある一般人の宇宙旅行についてに関してでも。
「佐藤は、何にした?」
 吉田はとっくにレポートを書きあげている佐藤に尋ねる。
「地球温暖化がメインで、その他環境問題」
 確かにこの暑さは問題だよな、とついさっき体感した吉田は頷く。
「……うーん、環境問題が一番やりやすいかなぁ」
 吉田が考え込みながら言う。
 何せ下調べの時間も惜しいので、出来れば資料が無くても書けるようなものがいい。しかし、普段ニュースや新聞に慣れ親しんでないと、そういう事はかなり厳しい。そして勿論、吉田は普段慣れ親しんでいない部類の人間だった。
「テーマから決めるんじゃなくてさ、自分に興味があるものの中からテーマを探すと良いんじゃないか?」
 取り上げるテーマにうんうん唸って困っている吉田に、逆転の発想と佐藤は言う。
「例えば……この前iPadが入った時、電子書籍化について結構騒がれてただろ。
 もし吉田がコンビニで立ち読みしてるような雑誌が、そういうツールで配信される事になったらどうする?」
「え、そうだなぁ。その時は………」
「今思った事を、書けばいいんじゃないかな」
 確かに、今の内容なら課題の趣旨にもあっているし、自分の中にある知識だけでも何とか書けそうだ。よし、これでいこう!と吉田は決めた。
 佐藤からレポートと提出の時に必要なプリント(のコピー)を貰い、ペンを取る。課題との戦いは、常に孤独だ。結局は自分一人でやるしかないのだから。
「いきなり書くんじゃなくて、思い付いた事をメモして整理してからだと書きやすいよ」
 それでもさりげなく、佐藤が援護射撃をしてくれる。それはいいアイデアだ、と思った次の瞬間、ノートなんて持ってこなかった事に気づく。手にしているシャープペンだって、佐藤の物だ。
 どうしよっかな、と少し躊躇っていると、す、とルーズリーフが何枚か差し出される。
 ありがとう、と言えば大した事無い、みたいな態度で佐藤が笑う。
 色々課題をサポートしてくれるのも勿論ありがたいけど、佐藤の笑顔が見れる距離が嬉しかった。


 佐藤に言われた通り、まずはメモ書き程度に思い付いた事を次々に書いて行く。出だしを決め、まとめの結びも決めた。あとはメモ書きを見て、中身を埋めて行けばいい。ちょっとパズルのようで、やっていて楽しくなった。
 調べたい事あったら、パソコン出すから、と佐藤は言い、自分の読書に没頭していった。
 よく考えてみたら、別にプリントだけ貰って自宅で課題を済ませばよかったのかもしれないが、でもここはエアコンが効いているし、自分の部屋みたいに雑多になってなくて、気が散らないし。
 そして何より佐藤が居るのだ。
 課題に取り組んでいる為、視界にも入らないが、確かに存在は感じる。
 浮かれる程でもないけど、やっぱりちょっとそれが嬉しい吉田だった。


(〜〜〜、よし!完成――――!!!)
 クオリティやレベルの問題はこの際置いといて、レポートしての体裁が整った用紙に吉田は声を上げずに快哉した。規定枚数はクリアしたので、心置きなく提出できる。沈黙したまま、両手を挙げる。何故なら、佐藤は眠っているからだ。
 何時の頃からは定かではないが、吉田がふと気付けば佐藤は目を綴じてすやすやと眠っていた。長い睫の双眸が閉じられると、それだけで十分絵になる美しさだった。吉田は課題をちょっと中断し、間近でそれを眺めた。おそらく、佐藤に傾倒する全ての女子が見たがっているだろう、その寝顔を。
 寝顔が見れたというより、自分の前でそこまで無防備になってくれた事の方が吉田にはくすぐったい。確実に寝入っているのを何度も確認した後、吉田はそっと佐藤の額にキスをして、また机に戻った。
 集中している時はあまり感じなかった、空腹具合が今主張し始める。佐藤はアイスティーやビスケットを差し出してくれたが、とっくの前に食べつくしている。空の皿にはビスケットのカスが乗っているだけ。
(夕飯、一緒に食べるんだよな)
 母親にそのメールをしたのだから、と吉田は思い出す。ここで帰って来て「ごめん。やっぱ晩飯いる」とかのこのこ現れたら、凄い代償を強請られそうだ。
 時間を見れば、十分夕食の時間だった。佐藤が空腹で起きてくれないかな、なんて事をちょっと期待してしばし見守っていた吉田だが、空腹を抑えきれなくなり、可哀そうだが起こす事にした。このままだと、夕食が無しになってしまうかもしれない……何て事は無いと思うが、早く何か食べたい。
「佐藤、佐藤、」
 肩に手を置いて、ゆさゆさと揺さぶる。佐藤は起きない。
 起こしたいけど痛がらせたくない、と思っていたからか、力がちょっと足りなかったのかもしれない。今度はちょっと強めに揺さぶってみると、肩に乗っていたような頭がかくん、と動いた。その衝撃で佐藤は目を覚ます。覚醒直後のぼんやりした眼差しが自分に向けられ、どこか妖しいような双眸に吉田はこの時だけ空腹を忘れてドキっとなった。
 彷徨う焦点が目の前の吉田に絞られた時、佐藤がふっと笑う。
「な、なんだよ」
「いや……起きた時に、好きな人が居るのって、いいなって思って」
 さらりと言われたセリフに、「なななな!」と壊れたレコーダーみたいになった真っ赤な吉田をそっと退かし、佐藤は姿勢を直す。
「………もう、こんな時間か……」
 時計を見て、佐藤が呟いた。
 佐藤の中の時間がどこで止まっているか定かではないが、そのセリフを聞くとかなり前から寝ていたように思える。
 眠気を振り切る為か、大きく伸びをした佐藤だが、腕を戻した後もちょっとぼんやりしたような顔つきだった。すっきりしてない、というか。
「佐藤、もしかして具合悪い?」
 どうもだるそうな佐藤に、吉田は心配になって来た。とにかくさっきまで、課題を完成させる事だけ頭が一杯で、相手の体調なんて思いもしなかったから。
 不安そうに眉を顰める吉田の頭に、佐藤は手を軽く乗せる。
「そこまでじゃないけど……やっぱり学校が無いとあまり身体動かさないし。だからそんなに疲れてないから、睡眠も浅いような気がしてさ」
 変な言い方かもしれないが、ある種の睡眠不足と言えるだろうか。とりあえず何か疾患を抱えている訳ではなさそうで、そこはちょっと安堵した吉田だった。
 それに、と佐藤は続ける。
「吉田の顔、見れなかったし」
「………何、ソレ」
 憮然としたように吉田は言っているが、顔は赤い。好きな人に会えなくて寂しい、という気持ちは説明するでもなく伝わったようだ。佐藤は、顔を綻ばせる。もしかして、吉田も自分に会えなくて寂しかったのかな、そうだといいな、と思いながら。
「で、課題終わった?」
 本題と言っていいそれを、佐藤は尋ねた。
 吉田は得意げに、満面の笑みで頷く。
「バッチリ! もうこれで明日は怖くないね!!」
「そっか。それは良かった」
 あまりに喜ぶ吉田が可愛くて、クスクスと小さく笑う佐藤。こうして、意地悪な態度を抜きにした表情は、いちいち胸を打ち抜いて困る、と吉田はさりげなく佐藤から視線を外した。ドキドキしてしまうのはいいけど、それを相手に気取られるのは恥ずかしい。
「ついでに聞くけど、他のはどうなってんの?」
 勿論、課題の事だろう。う、と吉田はちょっと顔を引き攣らせる。
「だ、大丈夫だって。ちゃんと新学期には終わらせるってば」
 えへへ、あはは、と乾いた笑い付きで言う。と、言う事は出来ていないという事だ。やれやれ、と胸中で佐藤は嘆息する。
 どうせ吉田の事だから、問題集は答えを移せばいいや、とか、実質の提出日は9月1日じゃなくて実力テストの日だから、とか拙い謀を頭の中で巡らせているのだろう。そしてそんな佐藤の想像は思いっきり的中していた。
 また近い内、今日みたいな事態になに違いない、という予想も。
 まあ、そんなちょっと先の事はさておいて。
「メシはどうしよっか。外、食いに行く?」
 佐藤の声に、吉田はんー、と考え込む。
 吉田としては、このまま家でだらだらしていたい。今日はずっと課題に取り掛かっていたし、佐藤は眠っていたし。
 傍に居るだけで満足とさっきまでは思っていたが、やっぱり話したりしたい。特にこれがしたいという事も無いけど、譲れない気持ちだけはある。
 佐藤、家で食べよう、とか言ってくれないかな。さっき、佐藤が自ら目を覚ますのを待っていたのと同様、吉田は様子を窺ってみる。
 しかし、さっきやっぱり佐藤は自分から起きなかった。
 吉田が言おうと決めたのと、佐藤が付け加えて提言をしたのはほぼ同時だった。
 家で、というニュアンスを込めた、ちょっとだけ違うセリフが重なり、その後互いにちょっとだけ顔を見つめ合い、それからとても小さく噴出した。
 ――こういう時間が、2人とも、何より幸せに思うのだった。




「吉田。明日はちゃんと起きろよ。夜更かししてゲームとかしてないで」
「起きるってば!バカにすんな!」
「何なら、モーニングコールしてやろうか♪」
「そんなんっ…… ………… ………………」
 真剣に考え更けている吉田に、この場での返答はさておき、明日の朝吉田に電話を入れてやろうとこっそり決めた佐藤だった。



<END>