少なくとも、この場に居合わせた人だけでは、蛇口を捻ったままのホースを持って動き回るという事が、いかに危険な行動かというのを今一度認識を改めて貰いたい。
「つっ……冷てぇ――――――!!!!!」
 掃除の時間。正面からまともに水をかけられた吉田の絶叫が、中庭を賑わせた。


 まさか向こうも人にかかる事を毛頭考えもしなかったのだろう。ホースを携えた手が、しばし止まっていた。何より顔が止まっていた。
 花壇の水やりが退屈で、惰性的に行ってしまうにしても、もっと注意はして貰いたい。ぽたぽたと身体のあちこちから雫を垂らし、吉田は思った。
 わざとかけた所でこんなにも全身にかからないだろう、というくらい吉田は全身ずぶぬれだった。ピンピン撥ねる癖っ毛も今はぺったりしていて、まさにぬれ鼠という表現が相応しい。
「うっわー、吉田ごめん!後で何か奢る」
 吉田をずぶ濡れにした張本人が、駆けよって来て両手を合わせ、謝るジェスチャーを取る。それを吉田はじろ、と横目で眺めて。
「……焼きそばパンとカツサンド」
「う゛。……し、仕方ない……」
 さり気に人気の高い物と値段の高い物を強請り、少し気分がすっとした吉田だった。まあ、服はびしょ濡れのままだが。
「オチケンの部室で着替えて来た方がいいよ、吉田」
 そう言ってくれたのは、吉田と違い数センチの差で難を免れた秋本だった。そのセリフを受け、牧村が「体操服取って来てやるよ」と言いながら教室に駆けこむ。確かにこんな状態では教室には上がれないので、2人に有難く従う事にした。
 それにしても、今が真冬でなくて本当に良かった。もしそうだったら、一発で風邪を引いているに違いない。
 何せ全身水を被ったので、靴の中まで浸透している。がっぽがっぽと歩くたび間抜けな音がしてなんとも情けない気持ちになる。
 部室までの道のり、吉田に降りかかった災難を予想しながらも「暑いからって服ごと泳ぐなよなー」なんて揶揄する軽口がかかる。それに「うるせーよ」と返す吉田。吉田の取った後は、小さい水たまりが出来ている。今吉田を追跡しようとするなら、とても簡単だった。
(佐藤に知られたら、絶対バカにされるよなー)
 意地の悪い笑顔を想像し、吉田は先を進めた。なるべく出会いませんように、と祈りつつ。
「………吉田?」
 しかし、そういう時にこそばったりと出会ってしまうもので。
 ちょうど角を曲がり終えた佐藤が、吉田に立ちはだかるように現れた。うげ、と呻いた吉田の脳内に、思わずRPGでの敵遭遇のBGMが鳴る。せめてもの救いは、他に誰も居ない事だろうか。特に女子とか。
「…………」
「………う、な、何だよぅ」
 絶対からかうに決まってる、と吉田は思った佐藤は、しかし何も言わずじぃっと吉田を眺めている。はっきりと解る視線に、吉田が居心地悪そうに呟いた。
「………誰に?」
「へ?」
 佐藤の呟きはそう小さいものでもなかったが、セリフの意味する所が解らなくて、吉田は間の抜けた声を出してしまった。
 吉田の両肩を、佐藤ががしぃ、と掴む。手が濡れるんじゃ、と吉田はそんな事を思った。
「誰にやられた?吉田、言って。……誰にやられたんだ?」
 佐藤は何やら必死に、吉田の答えが来るまで質問を止めない雰囲気だ。
「ちょ……さ、佐藤?」
 何だか教えてくれと、尋問されているような懇願されているような。据わってるようにも見える佐藤の双眸は、怯えているようにも見える。
「吉田……」
 思いつめた声で吉田の名を呼び、何だか泣きだす直前のように佐藤の双眸が揺れる。高校からの彼しか知らない人から見れば、佐藤が泣くだなんて夢にも思わないだろうが、吉田は佐藤のそういう弱い部分も知っている。
 とてもよく知っている。
(……あ。もしかして)
 吉田は何となく、佐藤の今の状態に陥った理由が解ったような気がした。
「……別にわざととかじゃなくて、ほんのうっかりだって。事故だよ、事故!」
 吉田は、相手に悪意が無い事を強調するように、明るく言った。
 昔、小学校の頃、佐藤は掃除の度に埃まみれになったり、びしょ濡れになっていた。それは勿論、苛めっ子達によって。
 それと同じ事が吉田にも起きたのかと、佐藤は思ったのだろう。……何せ、校内の女子において吉田はたっぷり恨まれる覚えがある。まあその原因はズバリ佐藤なんだが。
「…………」
 吉田の説明を受けても、それでもなんだか自分の惨状を痛ましそうに見つめる佐藤。本当の事を本当だと伝えるのが難しい事だと、吉田は最近学んだ。
「ほら、今日もすっごく暑いしさ。水かぶって逆にラッキー?みたいな」
 涼しくなるし!と笑って見せる吉田。しかし佐藤は固い表情を崩さす、ポケットからハンカチを出したかと思えば、それで吉田を拭き始めた。ハンカチなんて、小さい布だ。吉田に纏わる水を拭いきれる筈も無く、吉田と同じくあっという間に水を滴らせる程になった。
「ちょ、佐藤……。…………」
 愚かとも呼べそうな佐藤の行動を、けれど吉田は止めさせる事は出来なかった。でもあんまり佐藤が近付くから、それ以上近寄ると佐藤まで濡れる、というのは言おうかな、とは思うけど。
「それは?」
 佐藤が目で指すのは、吉田の持った体操着。
「……ああ、オチケンの部室で着替えようと思って」
 何だか、すっかり忘れ去られてしまっていた。その為に、歩いていたと言うのに。
「そうか、着替えか」
 そう呟いて佐藤は、しかし部室へ向かう吉田の進行を邪魔するように真ん前に突っ立ったままだ。退いて、と吉田が言おうとする前に。
「うえ?……わあああああッ!」
 ひょい、と佐藤に抱き上げられ、いとも容易く吉田の身体が宙に浮く。身長差があるから、佐藤に抱き上げられると結構な高さを感じて、いきなりだと驚く。今のように。
「何なんだよ!……っていうか濡れる!濡れるって!」
 ずぶ濡れの自分の制服が、佐藤のも濡らしているのが肌で解る。
「もう濡れてるよ」
 しかししれっと言う佐藤。
「な……何だよ本当に」
 全くもう、と吉田はぼやく。
 服が濡れてしまっているというのに、全く気にもしない佐藤が解らない。とは言え、本人が気にしないなら吉田もどうでもいいか、と思えて来てしまう。濡れたまま歩くのはあまり気持ち良いものではないし。自分で歩かずに移動出来るのは楽と言えば楽だ。
 ふ、と軽く吉田は息を吐いた。夏の日差しの中、濡れた服はともかく露出した肌に関してはもう乾いている程だ。
 女子に目撃される事も無く、部室に着いて降ろして貰った時、佐藤の衣服はやはり吉田に触れていた部位は見て解る程濡れていた。
「佐藤も着替えた方がいいよ」
「うん、そうだな。そうする」
 意外な程吉田の意見をあっさり引き受け、佐藤は自分の体操着を取りに教室へ向かった。佐藤が部室から出て行ってくれたのは、吉田にとって都合が良かった。着替えの所を佐藤に見られずに済むからだ。出てって、というのも男同士だと何だか逆に恥ずかしいし。
(今の内に着替えちゃお)
 べったり張り付いてしまった服を剥ぐのはひと苦労だったが、それでも吉田は無事に佐藤が戻る前に、着替える事が出来た。


「何で佐藤まで着替えてんだ?」
 牧村がまず言った。
 吉田がホースの水を引っ被ったのはすでに周知の事実であるが、佐藤が着替えるに至る理由は勿論誰も知る由も無い。
「ちょっとね。吉田とぶつかっちゃって」
 ぶつかった程度の接触で着替えが必要になるまでに濡れそぼるものだろうか、と吉田の頭に疑問が湧くが、牧村がそれに思い至っても困るので、ここはあえて沈黙を守った。
「……吉田とぶつかっちゃったんだって、佐藤くん……」
「……どうせまた吉田から抱きついたんでしょ!……」
「……そのせいで佐藤くん、濡れちゃって……」
「……吉田、許すまじ!……」
 何だか、遠くの囁きに物騒な文句が混じってるのは、気のせいではないのだろう。恋人が出来た現状、女子にモテなくても構わない……とは思うがやはり嫌われて嬉しいものでも無いので、吉田は夏だけどちょっと木枯らしを背負うのだった。ぴゅーっと。
「あれ?佐藤も体操服なの?」
 今度は秋本が現れ、きょとんとした顔で尋ねる。同じ答えを、佐藤はした。よく考えれば不自然極まりない回答に、そうなんだ、と素直に納得してくれる秋本の人の良さが吉田には有難い。
「でも2人だけ体操着だと、何だかお揃いみたいだよね」
 ふふふ、と呑気に笑いながら言う秋本。そういう見方も出来るけどさ、と苦い顔になる吉田に、ふと隣の佐藤を見上げると何とも嬉しそうな笑顔。
 もしかしてお揃いの服になりたくて、わざと濡れたのかと、そんな拙い考えが吉田の中を過ぎる。
 まさかな、と思いつつも、佐藤は時折どうしようもなく性質の悪い行動を働く事を鑑みると、ありえなくもない話かもしれない。成績優秀、スポーツ万能の面でしか佐藤を知らない人は、佐藤がそんなくだらない悪戯のような事を取るなんて想像も出来ない事だろう。おのれ吉田め!という空気を背後でひしひしと感じながら、吉田はそう思った。
 ともあれ、帰る頃には乾いてるだろう制服を着に、もう一度部室に立ち寄らなければ。
 そしてその時の着替えには、どうあっても佐藤と一緒になる事に吉田が気付いたのはまさにその時だった。
 果たして佐藤の計画の真意がそこにあったのか、あるいは教室内で体操服でお揃いになる事も含まれていたのか。
 それはもう吉田には解らない事だ。



<END>