佐藤のキスは優しい。
 そしてしつこい。
 唇を合わせるだけじゃ足りないと、舐めたり軽く噛んだりしてくる。
 それでも最初は様子を窺ってるのか、少し抑えているようだ。
 それは段々と大胆になっていく事で解る。


 ぺろり、と何度もされているのにちっとも慣れない感触に、背筋がぞわわっとした。
 目の前に、佐藤の姿が広がる。
「……う、さ、佐藤ぉ………」
 どうしていいか解らないから、とりあえず名前を呼んでみる。それに意味があったかなかったのか、吉田にも解らない。
 佐藤はその男前を、蕩けそうな笑みに変えて何度も吉田の唇に舌を這わす。その内、唇周辺から口の周りへと広範囲に広がる。顔中を舐められているみたいだ。
「ちょ、佐藤、何だよ!」
 動物みたいだぞ!と吉田が言おうとした時だった。
 佐藤が口を開く。発音する。
「にゃおーぅ」
「………………………………………えっ?」


 はっ!!と吉田が目を覚ました。
 目の前に居るのは、佐藤では無く一匹の猫。起きた吉田に吃驚したか、軽やかな動きで床に降りる。人懐こい猫は、それでも吉田から近い所で座っている。
(………。えーっと………)
 吉田は、これまでの経緯を思い返す。
 今日は朝から映画を見に行って、昼飯を食べた後佐藤の部屋に向かおうとして、店を出る時にはおそらく通り雨だろうが結構な雨量を空から降らしていた。
 しかし、予報をきちんとチェックしていた佐藤が折りたたみ式の傘を持っていて、2人は濡れずに移動で来た。相合傘になってしまったが、まあ仕方ないだろう。折りたたみ式なのでちょっと傘が普通のよりコンパクトで、やたら密着してしまったのも仕方ない事なのだ。きっと。うん。(思い込み中)
 そして無事マンションの玄関ホールまで来た時、現れた。
 それは白と黒の猫で、濡れているのは雨のせいだからまだいいとして、どこかのバカが適当に捨てたゴミのせいらしく、身体に粘着テープを巻き付けたまま、どうしていいか解らない、という感じに、そこに居た自分達に訴えるように(と、吉田は思ったと言う)ニャーニャー泣き始めた。
 これでほっとけれる吉田の筈も無く、この瞬間から粘着テープ剥離作業が始まったのだった。かなり困難を極めたのは思わず寝入ってしまった吉田の疲労で解って貰えるだろう。
 いや、吉田だって本当は寝るつもりは無かったのだ。粘着テープを何とか取り終わり、あとは身体を洗ってやるだけ、という段階になった時、後は自分がやるから吉田は部屋に行ってて、と佐藤が促したのだ。この時、吉田はかなりへとへとだったので、この申し出は有難かった。感謝の言葉を述べた後、きちんと手を洗って佐藤の部屋に赴く。そして、何気にベッドの上にどさり、と倒れ込み――休むだけの筈が、寝てしまっていたと。
(だって……佐藤のベッド、凄く寝心地いいし……)
 布団も羽毛だし、と言い訳にならない言い訳を胸中で述べてみる吉田だった。
 どうも、かなりの間寝ていてしまったらしい。少なくとも、べっちゃりだった猫の毛が、乾いてほわほわになるくらいには。なんとも哀れな姿しか吉田の中には無かったので、綺麗になって何よりだと思う。
 撫でてみようかな、と吉田が手を伸ばした時、佐藤がドアを開いて入って来た。
「あ、吉田。やっと起きたか」
「う。……なんか、ゴメン」
 やっと、の部分に引っかかりを感じるが、今は言い返せる立場では無いので、吉田も大人しくする。
 すっかり後任せを丸投げしてしまった割には、佐藤の反応は「まあいいけど」と淡白だった。むしろ、何だか機嫌も良さそうに見えなくもない。かもしれない(どっちなんだ)
「綺麗になって良かったな」
 足元で寛ぐ猫を見て、吉田が言う。これだけ人のいる空間に慣れているとなると、この猫は案外飼い猫かもしれない。だとしたら、近所を漫遊している時にあんな災難に見舞われたという事だろうか。そもそも、雨なんだから大人しくしていればいいのに。飼い猫と思った途端、不憫な子からおっちょこちょいな子、と認識を改めた吉田だった。
「まあな。……でも、結構大変だったんだぞ、あれから」
 しかし責める訳でも無く、佐藤は口元を緩めて言う。ちゃっかり、ベッドに腰けた吉田の隣に座りつつ。
「洗うのはそうでもなかったんだけどさ。綺麗になったら腹が減ったのか、足元に纏わりつくんだよ。もう、何度踏みかけたか。
 で、とりあえず牛乳を皿で出してやったら、もっと食いでのあるのがいい、ってニャーニャーと」
「……大変だったんだね」
 呑気な調子で毛づくろいを始めた猫を見て、吉田が呟く。
「ホントにな。一瞬、吉田が乗り移ったかと思った」
「んな!! お、俺はそこまで図々しくは……っ!」
 しかし佐藤に作業を任せて寝ていたのはついさっきだ。吉田は文字通り言葉に詰まった。
 その代り、何やらカリカリという音が聴こえる。見れば、猫がドアを引っ掻いていたのだ。
「わぁ―――!こら、何してるんだよ!傷がつくだろー!?」
 猫相手なのに、まるで小さい子に言い聞かすような吉田の物言いが可笑しい。佐藤が笑みを零す。
「もう、外に出たいんじゃないか? 綺麗になったし、腹も膨れたし」
 うーん、自由なヤツだな、と吉田は抱き上げた猫を見る。その手足は、進みたいようにばたばたと忙しない。
 佐藤の意見に従い、猫を抱き上げたまま外に出る。このマンションがペット可なのか、吉田は知らないから少し気になったが、住人である佐藤が平然としているから、多分大丈夫なのだろう。もっとも、人と会う事が無かった為、その心配は無かった。
 マンションの敷地内ながらも外に出ると、すでに雨は止んでいた。本当に通り雨だったようだ。葉から雫がぽたりぽたりと落ちている。
「ほら、ちゃんと帰れよー」
 そう言って、吉田は猫を介抱してやった。
 ぴょん、とその腕から飛び出た猫は、しかしすぐに歩き出さずに何故かその場に立ち止まる。
 何だろう?と思わず成り行きを見ていると、猫がにゃーん、と鳴く。それから周囲を見渡して、もう一度。
 まるで、誰かに呼びかけているようだった。
 その相手は、すぐに解った。顔の中心が灰色の猫が、にょきっと顔を出したからだ。吉田達が保護した白黒の猫は、その猫を見るなりたたたっと駆け出し始める。そして、そのまま2匹で消えて行った。行っちゃった、と何となく吉田は思う。
「あれ、兄弟かな。それとも親子?」
「恋人じゃないか?」
 吉田が言って、佐藤が答えた。
 そして、また部屋に戻る。このまま出掛けようかと思ったりもしたが、よく考えれば猫だけ運んで財布などは持っていない。どっちにしろ部屋に戻る必要があるし、部屋に戻ったらあまり出掛けようという気はしなくなるだろう、と予想する。何だかんだで、あの部屋は居心地が良かった。
 そう言えば、あの猫、何で自分の顔を舐めたんだろう、と吉田はふと気になった。
 理由なんて勿論無いかもしれないが、例えばだ。先に誰かが吉田の顔を舐めている――あるいはそう見える行為をしていて、倣ってみたとか。そして、それが事実だとすると、容疑者は1人しか居なかった。
「………………」
「ん? 吉田、どうした?」
 確かめるのは容易い。訊けばいいのだから。……しれっと誤魔化される可能性が高いけど。
 まあ、佐藤が寝ている自分に知られずにキスしたかったのなら、その事実に付き合ってやろうと思う。
 何でも無いよ、と言ってとりあえず佐藤の懸念を打ち消し、2人でドアを潜った。
 猫は可愛かったけど、やっぱり2人きりがいいな――と、佐藤にバレないように、こっそり思いながら。



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