佐藤の安定さはヤジロベエではなく、紙飛行機に例えたい。
 上手く風に乗る事が出来れば、どこまでも高みに行けるだろうが、その反面軸を失ってしまえばあっという間に墜落し、地面に転がる。
 誰かが持ち上げ、再び飛ばしてくれるまで。


 ぱく。
 いきなり左耳に襲った感触に、吉田は咄嗟の理解が出来なかった。
「………んでぎゃぅわぁぁぁああああ―――――ッ!!!?」
 何秒か遅れて襲った感覚は、形容しがたい感触に今までに無い叫びをあげた。それを、いかにも楽しそうにころころと笑って見るのは、それの仕掛け人だ。
「何すんだもぉ――――!!!」
 涙目になって吉田は耳を押さえる。
 事もあろうに、佐藤は吉田の左耳を、丸ごとぱくりと口に含んだのだった。
「俺の耳は餃子じゃねーぞ!!!」
「どっちかというとワンタンに近かったよ」
「やめれ――――――!!!!」
 鳥肌を立てて吉田は再び叫んだ。そんな事を聞かされては、これからワンタンを食べる時に思い出してしまうではないか。
(うう……佐藤って訳わからん………)
 吉田は胸中で唸る。今だって、だらだらとした雰囲気の中での事だった。その直前も、行ってみれば佐藤の部屋を訪れてからそんな雰囲気なんて醸し出してなかったくせに、佐藤はいきなり、唐突にこんな行動に出る。もしかして佐藤なりの理由でも存在するのかもしれないが、それならそれで説明は欲しいと思う吉田だった。
 いきなりが困る訳であって、行為自体を嫌がっている訳ではないのだから。しかし、あるいはこんな事ばかりが続くと、佐藤と触れあう事が苦手になってしまうかもしれないというのに。
「だって、吉田があんまり隙だらけだからさ」
 吉田が不満を抱いてるのを見透かしたように、佐藤がそんな事を言う。んなっ!!と声を詰まらせ、顔を紅潮させる。
 しかし吉田が抗議を言うよりも先に、ぎゅぅ、とその腕で抱きしめてしまう。抱きしめるというよりは、胸板に押し付ける、というような抱擁で、吉田は何よりも先に息苦しさを訴えなければならなかった。
 視界が潰されている吉田は、佐藤の声だけでは自分がからかわれてるのか諌められてるのか、解らなかった。
「もっと警戒しなきゃ。俺にもだけど、西田とか山中とか。ついでに高橋とか牧村とかも」
 ついでで警戒しろと言われた虎之介と牧村が何か哀れだ。
「なっ……何でそんなにいっつもピリピリしてないとなんないの」
「別にピリピリしろとは言ってないよ。簡単に心許すなって事」
「えー?」
 いまいち、佐藤の言おうとしている事が掴めなくて、吉田は首を捻ってしまう。相手の様子を見ていると、何だか凄く大事な事を言われてるような気にはなるけど、やっぱりそれが何かが解らない。
 言ってるのは、隙だらけだからもっと気をつけろ、という事。しかし吉田だって、そこまでぼーっとしている訳じゃない。……と、思う。
「佐藤、お前何言っ…… ……………」
 あまりに窮屈な抱擁から少し解放された吉田は、佐藤を見上げて言う。いや、言おうとしたが、自分を見つめる佐藤の顔を見て、声が止まってしまった。吉田が最も困る、どうしていいか解らなくなる、あの顔を浮かべていたから。
「……………」
 吉田が言葉に困る。その間に、佐藤は吉田の身体を軽く持ち上げ、すぐ近くのベッドへと抱き上げてしまった。勿論、自分の身体も一緒に。
「わ、ぁ、っ………!」
 現在の空気でベッドに居る事に危険を感じた吉田が、僅かに抵抗する。
 上手な抵抗の仕方が解らない。
 間違えると、佐藤が二度と立ち上がれなくなるくらい、打ちのめしてしまいそうで怖くて。
「――――っ!」
 いかにも何かしようとしている佐藤の手に気を取られ、吉田はあっけなく口を塞がれてしまった。苦しさに、少し呻く。
「……ほらね、吉田は無防備過ぎなんだよ」
 やや荒々しい口付けの後、佐藤がまるで諭すように言う。
「…………」
 酸欠や口内の痺れでぼうっとなった意識の中、吉田は思う。佐藤は、本気で警戒しろと言ってるのだろうか。自分の事を。
 吉田はそれが解らない。この状態で、少しは佐藤の発言の意図は組めるけど、でもやっぱり解らない。
 いや、解りたくないのかもしれない。
「! ぅ……あ………っ」
 ひくり、と吉田の全身が戦慄いた。最近知った、他人からの刺激だ。
 確実に身体は昂っていくが、まだ初期の段階だから、声は堪えられるし、佐藤からのセリフもちゃんと頭に入って来る。
「吉田。嫌ならもっと必死で抵抗するんだよ」
 自分じゃ止められないから、傷つく前に早く逃げて欲しい。
 そんな風に佐藤は言うから、熱くなる身体なのに心の中は何だか寂しかった。
 耳を塞いでしまいたい程の、恥ずかしい声や音に悩まされながら、吉田は思う。一体どうすれば、この男に思い知らせる事が出来るだろうか。
 きっと吉田の方が佐藤よりも恐れている。
 佐藤を本気で拒む、そんな時が来るのを。


 心の難解さに比べ、身体なんて呆気ないものだ。刺激を与えれば、果てる。でも吉田はそんな単純な所を嫌いではない。
「…………」
 結局自分だけ乱されて事は終わったらしい。ぼんやりと天井を眺める。
 何だか今日の解放は、いつもより疲労感が強かった。きっとあまり乗り気ではない状態で、半ば強引に促されたからだろう。
 視界に入らない傍らに、佐藤の気配を感じる。動こうとする様子は感じられなかった。
 緩慢な動きで吉田が起き上がる。
 同じベッドの上で、佐藤はその中で吉田から出来るだけ遠くに居ようとしていた。壁に背中を付け、片方だけ立たせた膝を抱えるようにして坐っている。
 その様子は、自らしでかしてしまった粗相の罰を待つような子供みたいでもあった。
「佐藤、」
 声を上げたからではなく、堪えた為に少し掠れている。
「喉乾いた」
 吉田は力なくへにゃ、と笑った。うん、と答えた佐藤も、同じように土台が備わって無い、くたくたとしたような笑みだった。
 自分が器用で気の効くタイプではないのは、吉田は自覚している。
 出来る事だって限られている。佐藤の望む全てを、自分が引き受けられるとは露にも思っていない。
 それでも佐藤が、自分の傍に居る赦しが欲しいというなら、そんなものはいくらでもくれてやろうと思うのだった。



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