声を掛けられたのが運のつきというヤツだろう。たまたまそこを通り縋ったという縁で、吉田は次の授業で使う世界地図を教室まで運ばなければならなかった。
 黒板を覆い尽くすか、というサイズもある世界地図は、重さはともかく丸めた時に高さがある。吉田にとって高さは天敵だ。丸まられ、筒状になった地図を地面に着けないように運んでいる姿は、まるで江戸時代で練り歩いていた物売りのようだ。何せ休み時間なので、人の多い廊下をそれでも誰かにぶつけないよう、神経を使う。
(全く、せめて人を見て選んでくれてもいいのに)
 教科担任に愚痴を零しながら、吉田はえっちらおっちらと運んで行く……と、その重さが急に軽くなった。いや、無くなった。
 あれ? と思わず背後を振り向くと、最近やたら顔を合わせる機会が増えてしまった人物が居た。
 西田だ。
「持ち辛いだろ? 持って行くよ。どうせ同じ方向に行くしな」
 下心のない、全くの親切心で言ったセリフだと解る。例え吉田以外だったとしても、同じように西田は申し出ただろう。
 しかし――
「あ、あのー……西田」
 いかにも言いにくそうに吉田は言う。
「その……あんま俺に近寄らない方がいいんじゃないかなー……というか……」
 これから行き着き場所に、佐藤は居る。必ず居る。
 西田が自分に懸想している事を考えると、それは非常にヤバい事だ。フラグが立つ所ではない。
 山中の惨劇を目の当たりにした吉田としては、第二の犠牲者は防ぎたい所だ。なのに、西田は率先して自分に駆け寄って来る。西田は自分と佐藤との関係に気付いているし(多分)、佐藤の本性も知っている(だと思う)というのに。
「あ……ごめん、やっぱり迷惑だったか?」
 西田は済まなそうに眉を下げる。
 中学の時にゲイだとカミングアウトしたらしい西田は、それからマイノリティに厳しい世間の洗礼を受けてきたようだった。そのせいか、佐藤とはまた違った意味で身を引く素振りを見せる。……まあ、それ以上に体当たりも多いけど、西田は。
「いや、迷惑って言うんじゃなくて――」
「ああ迷惑だよ、凄い邪魔だ。俺との時間が減るから、お前はさっさと帰れ」
 吉田のセリフを遮り、西田の手から地図を奪い取った佐藤が流れるような勢いでセリフを紡ぐ。
 吉田の声が途切れたのは、佐藤の言葉が遮ったからだけではなく、物理的に手が口を塞いでいるからだ。そのついでに、自分の身体へと抱き寄せる。口を覆うついでに鼻も隠してしまったのか、吉田が顔を赤くし、くぐもった声で叫ぶ。
「佐藤……! どうしていつも割り込んで来るんだ! 俺は吉田と話してるのに……!」
「割り込んでるのはお前の方だ。大体、俺の許しも無しに勝手に吉田と話すんじゃない」
 まあ許しなんて絶対出さないけど、と胸中で呟き、佐藤は吉田をより一層に抱きしめた。もががー!とやっぱり口を塞がれたままの吉田が暴れる。
「! 待て、佐藤! 何処に行くつもりだ!」
 西田を置いて足を進める佐藤に、西田が文字通り待ったをかけた。
「教室に決まってるだろ。俺達、同じクラスだからな」
 お前と違って、とだけ言い残すと、酸欠でぐったりした吉田を片手に担ぎ、歩いて行く。この2人、吉田を意識するあまり吉田に対する注意がおろそかになっている、というところだけはやたら同じだ。勿論それが吉田にとって悪い結果しか生まないのは、現在目を回している事が証明している。
(吉田……あんなに大人しく佐藤の腕に抱かれて……そんなに佐藤がいいのか?)
 だから意識が無いんだっつーに。
 ギリリ、と悔しげに歯ぎしりする西田から少し離れた周囲、「佐藤が行ったからもう終わりかな?」「今日も面白かったなー、コントw」なんていう会話が成されていたが、西田の耳には届かないのだった。


 結びついている2人の間に割り込むなんて、西田の本質からは大きく逸れた行為だ。
 しかし、この場合相手が悪い。例え好きという気持ちが本当でも、佐藤は吉田を女子の誘いに断る口実としてダシにしているのだ。好きな人をそんな事に使うなんて、西田にはとても考えられない事だ。好きな人は、何よりも大事にすべきだ。吉田を早く、あの不遇から救ってあげたい。何やら2人は付き合っているようだが、もしかしたら女子を誘導しているように、吉田にも言葉巧みに上手く操っているだけかもしれないし(←強ち間違いだとも言いきれず)。
 とはいえ、佐藤を撃破するのに、西田に足りない物が多すぎる。西田は佐藤という人物についても、吉田という人物についても、情報としては同じ高校に通っている事くらいしか知らない。直接人柄に惚れるタイプにはよくある見逃しだった。
 希望としては、2人がどういう流れで付き合いを始めるようになったのか、その馴れ初めが知りたい。しかし、そもそもそれを知っている人が、当事者以外に居るだろうか。2人が付き合っている事実すら、周囲は知らないみたいだし。
 ふぅ、と疲れを吐き出すように、西田は嘆息した。
 目の前で辛い目に遭っている人が居て、しかもそれが好きな人だというのに、何も出来ない。その無力さに、西田は打ちひしがる。少し俯きながら歩いていた為か、曲がり角の所で人とぶつかる。
「――っと、悪ぃな」
 西田より、先にその人物が謝った。西田はこの人物を知っている。吉田とたまに一緒に帰っているからだ。そうだ、たしか彼は――
「確か――吉田と知り合いだよな?」
「? ああ」
 雑談を交わすような仲でも無い相手から話しかけられ、少し困惑したが虎之介は素直に返事した。
(やっぱり! って事は、佐藤との事も知ってるだろうな……)
 いえ、全く知りません。と言える人はこの場には居ない。だから西田の思い込みを正す人も居なく、西田はすっかり虎之介が2人の馴れ初めを知っている事として話を進めようとする。
「なあ、ちょっと話を―――」
とらちんから離れろ、このホモ!!!!!!
 急に大きな怒声が、西田と虎之介の間を分割するようにカットインしてきた。


「……山中……お前なぁ」
 大きな声に面食らった顔の西田とは違い、虎之介がげんなりとして相手の名前を呼んだ。
 自分だって男の俺が好きなくせに、その言い方は無いだろう、と言いたいのだが、西田の居る前では出来ない。苦虫を百匹噛みつぶしたような顔になった。
 普段は甘いマスクを今は怒りの形相に変え、山中は虎之介の腕を引っ張った。
「とらちん、こんなヤツと話ちゃダメ!! 惚れられるだろ!」
 なんでだよ、と突っ込む前から疲れてしまったので、突っ込めない虎之介だった。
 虎之介の確保と保護に成功した(と勝手に思ってる)山中は、次いで西田をぎろっと睨んだ。
「お前、西田! 吉田に手を出せないからって、とらちんに迫ってんじゃねーよ! とらちんは俺の
ぐべぼっ!
 西田の目の前で、山中が通過した。ただし、歩行したからではなく殴り飛ばされてだが。
 思わず虎之介を見やると、顔を真っ赤にして、息を荒くしている。その様子に、西田は赤鬼を髣髴した。それも、子供向けの絵本にあるようなものではなく、日本画家が描いた地獄絵図に載っていそうな。
「……悪ィ。迷惑かけたな」
「……あ、いや………」
 虎之介は手短に謝罪し、壁に激突して昏倒した山中の足を引き擦って立ち去った。西田は何とか置いてけぼりみたいな感じになってしまった。
「……何だったんだろう」
 ぽつり、と呟かれた西田の疑問に答えてくれる人は、この場には居なかった。


(ううう〜〜! おのれ西田め! ホモだからやっぱりとらちんに目を付けたか!!)
 保健室で(←とらちん超優しい)目覚めた山中は、さっきの怒りをそのまま維持していた。
 何よりも替えられない人が、奪われそうになっているのだ。当然と言えば当然だが、山中にとってこんな感情は初めてだった。例えばそれまで付き合っていた子が自分以外を選ぼうとしたら、今まで付き合っていた子を恨むだろう。しかし今は西田が憎い。自分から大切なものを取り上げようとする西田が憎い!!!!
 うっかり佐藤に喧嘩を売るような真似をし、その後報復による惨状の末、見つけた人なのだ。虎之介は。そう簡単に渡せるものじゃない。いや、絶対に渡してなるものか!
(西田め!どうしてくれよう!!)
「西田め……どうしてくれよう」
 一瞬胸中だけのつもりが声として出ていたかと思えば、違う誰かが偶然自分と思っているのを同じ言葉を言っただけだった。
 しかしそれより、山中には重要な事がある!
(この声……佐藤じゃないか―――――――ッッ!!!)
 全身の毛が逆立ったような、猛烈な悪寒。決して人が出すものとは思えないが、人が出している物なのだった。
(ヤバい! 見つかったら、殺される!)
 山中は息を止めて保健室の質素なベッドの上、身を固まらせた。
「目覚ましたならさっさと起きろ」
 しかし呆気なく見つかった。シャー、と囲っていたカーテンが開く音が聴こえている間に、山中は自分の走馬灯を見た。
「ひいいいいい! すんませんすんません許してつかぁさい!!!」
 極限の恐怖の為言葉が可笑しい山中だった。
(それにしても、なんでコイツ保健室なんかに?)
 まさか隣のベッドで吉田とハッスル(←)してたんじゃないだろうな、としたくもない想像をしてしまった。うげ、となる。
「早く行けよ。高橋が気にしていたしな」
 佐藤はさも面倒に言う。ええっ! とらちんでは、俺の心配してくれたんだ! という喜びに浸る傍ら、佐藤が何やら小さい鍵を手にしているのに気付いた。
 保健室で、鍵。ドアにも鍵はついているが、ここには鍵付きの戸棚もある。そして、その中には勿論素人が簡単に扱ってはいけない劇薬が置かれている。
「……………」
 いや、あれは多分ドアの鍵なんだよ。戸棚とか劇薬とか、きっと関係無いよね。
 山中は自分の精神安定の為、目の前の事実をやり過ごす事にした。もっとも指摘した時点で「始末」されているだろうから、山中の逃げ馬根性丸出しのこの選択は正しかったと言わざるを得ない。
 それじゃ、俺はこれにて退散……とスタコラしようとした山中の視界の中、彼にとって芳しくない光景が飛び込む。
 向かいの校舎に、虎之介と……吉田と西田は居る。珍しいというより初めて見る2ショットだが、そんな事ではなく、西田が虎之介に接近しているという事が山中にとって何より問題だ。
「な―――――ッ!! 西田あのヤロぐえぇえええ」
 突進した勢いと、襟を掴まれ後ろに力で、山中は若干首つりのような感じになった。苦しさに喉が唸る。
「すぐに突っ込むな。そのまま行って今みたいに怒鳴った所で、高橋に愛想をつかれるだけだぞ」
 さっき愛想をつかれかけられた山中の身としては、受け入れるしかない意見だった。それにしてももうちょっと優しく引き止める方法はあったと思うし、言い方だってもうちょっと諭すようにすればいいと思う……と、床に蹲ってさっきの衝撃で咽る山中は思った。色々涙目で(←苦しい&怖い)
「――って、西田、そもそも吉田が好きなんだろ? 何だかギャクにしか見られてないけどよ」
 佐藤と吉田と西田がコントやってる、という噂という名の誤解は、山中の耳にも届いてた。純朴な虎之介は「ヨシヨシ達、学園祭にでも発表するんかな」と至極平和的な事を思っていた。
 今日、帰り際、佐藤は吉田から「今日はとらちんと帰るから」と一緒には出来ない旨を伝えに来た。しかし今日は女子の包囲網を抜けるのはそう難しくも無く、2人きりじゃなくても一緒に帰りたいな、とそう吉田に言ってみた所――かなりひきつった口元で「そ、それはちょっと、」と回答になっていないはぐらかしを食らった。
 その顔でピンと来た。西田も居るのだ。
 西田と吉田と虎之介。
 この3ショットで考えられる構図となると、大方、西田が高橋から吉田の事について何か聞こうとして、吉田がそれを阻止すべく同行している、といった具合だろうか。それなら、佐藤は連れてはいけない。
 西田も、高橋の前では滅多な迫り方もしないだろうから、佐藤は苦渋の判断で一緒に帰宅するのを断念したのだった。
 西田と同空間に居て、競争するように吉田に迫るよりは、こうして1人で(まあ1人じゃないけど)対処についての計画を練っている方が長い目からして成功だと思う……と、佐藤は自分を納得させた事にまず成功した。
「向こうが正面から迫っている以上、こちらも派手には動けない。出来る事なら今すぐブッ潰してやりたいが、一方的にそんな真似はしにくいしな………」
 と、いう所で佐藤は山中をちらりと見た。「いっそお前くらいの行動に出てくれたらこっちも手が打ちやすいのに」とで言いたげに。この時山中の体感温度が一気に10度くらい下がったという。
(それに、吉田を抱きしめる手で物騒な事はあまりしたくない)
 その考えで十分に物騒だ佐藤。
 そしてふと気付いた。何も下す手に自分のを使う必要はないのだ。
 丁度目の前に、やってくれそうな手もある事だし。
 一方、山中の方も閃いていた。
(そうだ、もっと佐藤をけしかけてやればいいんだ! きっとまたえげつない事をしてくれるに違いない)
 なまじ被害者である為その確実性が図れる。

 ―――最終的に西田と共倒れになってくれるように、今はとりあえず協力するふりをして裏で計画を練って行こう――

 ほぼ同時に、ほぼ同じ事を思った2人だった。
 砂の城よりもろい同盟協定が結ばれるのは、双方企み笑いがひと段落落ちついた頃だった。まるで、黒いノートを片手に「計画通り」みたいな感じの笑みだった。



<END>