花冷え、という言葉を覚えたのは何処だったか。吉田の生活内には無いような言葉なので、知るには原文か古文の授業でしかありえないのだが。
 冷え、という言葉が入った時点で寒々しいものだとは解る。春先の、まるですとんと気温が落ちる時期。その名を付けた人は余程花に懇意しているのだろうな、と吉田はぼんやり考える。その視線の先には三分咲きで時間を止めたような桜の花。完全覚醒の一歩手前、それは寝ぼけたような雰囲気を与えた。
「花が開いた所で気温が落ちると、その花は長く持つんだぞ」
 吉田がしげしげと見つめている先を知った佐藤が、そんな豆知識を投げるように与える。吉田とは意味の無い会話が多い。佐藤は想像の域でしかないが、気心知れた家族はきっとこんな、目的も趣旨も無い当たりだけの事を話すのだろうと、佐藤は読んでいるフィクションの中で知る。佐藤の実際の家族と言えば、実のある事しか言わないし、訊こうともしない。発言には評価が下り、その適正が試される。家でも学校みたいな空間だった。安らぎはどこにあっただろう。
 そんな佐藤の胸中を余所に、吉田は与えられた知識の上で、花を見上げた。へー、とそんな声を乗せながら。
「じゃ、花見が長く出来るんだな」
 吉田らしい発想の展開に、ぶっと佐藤が息を漏らす。なんだよー、と自分が馬鹿にされた事が解った吉田は佐藤を横目で睨む。その顔が赤いものだから、可愛さしか湧かない。
「花見か……この辺でもやるのかな」
「うん、井ノ尻公園に屋台が出てる筈。まだかな。出てたら行きたいよな~」
 吉田のイメージはやはり花見=屋台の図式らしい。にこやかに言う頭の中には、桜の花より屋台の品々の方が咲き誇っているに相違なかった。別に屋台が無くても花見が出来るんだろうが、その方が色々面白いのでほっとこう。
 それにしてもあの公園で花見祭りをやるのか、と村上がかつて吉田を誑かそうと(?)した場所に思う
 。何せ佐藤の履歴は3年分程この地から遠ざかっている上、それ以前は勉強しかしてない。クラスメイトが何やらその話題を会話していたような気もするが、全くと言って良い程聞き逃した。丁度花見の時期は春休みと重なり、宿題の出ない長期の休みに、皆見事に浮き立っている。
 が、明日からまさにその休みに入るという吉田の顔は、若干浮かない。
「あ~、でも、高校生って春休みでも宿題あるんだ……」
 何であるんだよ、聞いてない、とでも言いたげに肩を落とす。カバンがそこからずれ落ちそうだが、案外そうでもなかった。これじゃ休めないじゃん、と吉田はぶつくさ。けれど、そんな吉田には悪いが、佐藤には全くの僥倖である。宿題を出しに部屋に誘い込む事が出来る。まあ最近は、こんな事をしなくても来てくれるし、なんと吉田からも行ってよい?みたいなおねだりも貰うのだ。最後に尋ねている口調になっているのが可愛らしい。もっとこう、強引に、行くけど良いよな、とも言って貰いたいものだが。
「ま、でも花見くらい行く余裕はあるだろ。何処に行く?」
 佐藤が問いかけると、きょと、として吉田が見上げる。え、なんで?と今度は佐藤が訝しげに首を傾げると吉田がもたついたように言う。
「いや、あの、決まったんだ?」
 花見に行く、と。
 自分が吉田が好きで、だから彼の発する言葉を余すことなく受け取ってしまうのだが、人のいう事が万事が万事ではないというのも知っている。それでも、吉田のしたい事は叶えてたりたい佐藤としては、吉田がしたいやりたい、という言葉に特に敏感だった。それでも、前後の発言やイメージにより本当に望んでいるかどうかくらいは分別出来る筈なのだが、ここ最近どうもそういう見極めのラインが甘くなっているように思える。全てにおいて、だ。吉田の外には考えられない佐藤としては、この関係が拗れるのは、特に自分が原因なのは控えたい所なのに、気持ちは急いたように吉田を求める。変だな。この桜が前に咲いて散った頃に比べて、大分近づけたと思うのに。
 だから、かな、とも思う。近すぎる物がピントがぼやける様に、死角が増えるように。
 何やら途端に、肥満児だった昔みたいに自分が恥ずかしくなって、佐藤は行ってみただけ、とあっさり言葉を下げようとしたのだが。
 横の吉田は携帯を取り出して、カレンダーを見て確認している。あ、とその様子を佐藤が見る。何やら胸がどきどきする。こんな、何でも無い事なのに。
「――ん、今度の週末行こうぜ!土日のどっちでも良いよ」
 どっちが良い?なんて上目使いて聞いてくるのだから、しかも、嬉しそうに。佐藤はもう降参だ。何にって、自分の恋心に。
 ちょいちょい、と軽く手招きをする。うん、何?と無防備に近づく吉田は、学習能力が無いのか疑いたくなる。それとも自分に信頼があるのかな。
 まんまと至近距離に入った吉田に、ちゅっとキスを1つ。電信柱の陰だし、人は通りかかる気配もないし、と佐藤は少しだけ箍を外した。
 キスと吉田の組み合わせは佐藤の中で最強だ。ぎゅ、と耐えるような顔も良いし、余韻に痺れるような表情も良い。そして、目の前の呆気に取られた赤面もまた良い、のだ。
「おおお、お前!馬鹿!こんな所!」
「誰も居ないし、一瞬だし」
「馬鹿―――――!」
 何せ純粋な吉田は罵る言葉をそれしかぶつけない。本当はもっと酷い言葉も知っているのかもしれないが、言わないのが吉田なのだろう。
「キス以上はしないから」
「と、ととと、当然だろ! 何を考えてんだ!?」
 それはきっと、吉田と同じ事だよ、と真っ赤な顔に言ってやりたい。こういう顔をされると、好かれていると実感できる。恥ずかしいだけで嫌という訳では無い、のような。
 蒸気でも出すかという程、顔の赤い吉田。胸の内と比例して、それが収まるのを待ってから佐藤が話を切り出す。
「で、花見はどこにしよう?」
「え、井ノ尻公園じゃないの?」
 吉田の中で場所はそこで決まっていたようだが、佐藤は言う。
「屋台があると人も多そうだし。それも良いけど、俺は吉田と2人だけで花を見たいな」
 花見なんだから花があればよい、とさっき抱いた意見をここでぶつけてみる。花以上に屋台に関心のある吉田だから、難しい顔でもするかと思えば「それもそうだな」とあっけらかんとした顔。固執する程でも無いと言う事か。
「じゃあ、昼はどーする?」
「まあ、どこでも適当に……弁当作って行っても良いけど?」
 このご時世、どんな田舎でもコンビニのような商店がある有り様だ。その是非はさておき、食料の入手には余程の山奥でなければそうそう難儀するでもない。
 屋台無しの花見はあっさり快諾した吉田は、弁当の言葉には唸るような顔をした。何を懸念しているかと言えば、次いで飛び出て来た「早き出来るかな」という呟きが答えだ。花見には屋台。弁当は早起き。吉田の単純な図式は佐藤を和ませる。
「別に、朝早く起きなくても。のんびり作って、のんびり行けば」
 そういえば吉田は、早起きの点を気に掛けているものの、弁当作り自体は受け入れているらしい。そしてきっと、吉田の事だから。
「じゃ、おにぎり作って行こうな」
 やっぱり、と当たった想像を嬉しく思った。ちょっとでも、吉田を理解出来たようで。
「じゃあ、俺はサンドイッチにする」
「おー、良いな!」
 当日は交換な!と楽しそうに提案。佐藤は俄然に楽しみになった。
「天気良いといいな」
 最近は特に気候の変動が激しくて、まるで夕立のような雨も降るくらいだ。確かに、当日は良い天気が好まれるけど。
 でも出来れば、佐藤としては今日みたいな花冷えの日が良い。そうしたら、温める為にと思いっきり腕に抱きとめる事も出来るだろう。
 それとも、春の穏やかな気候になっても、そうやって捕まっていてくれるのかな。
 目の下でぴょこぴょこ撥ねる吉田の癖っ毛に、桜の花びらが絡まるのに、佐藤は今から思いを馳せた。




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