吉田の目覚ましは、一応、余裕を持って登校できる時刻に設定してある。が、その為にアラームを止めた後、まだ大丈夫とそのまま微睡んでしまう事もしばしば。
 そして今朝も、吉田は束の間の二度寝を味わっていると、ドアの向こうから乱入者に等しい大仰な物音が近づいてきた。そして、吉田の部屋の前、言う。
「義男、とっとと起きなさい!雪降ってるわよ、いっぱい!」
「え、雪!??」
 がばっと吉田は起き上がり、ベッド際の窓のカーテンをジャッと音を立てて一気に開ける。するとそこは、普段の光景に粉砂糖でも被せたような景色が広がっていた。辺りを見渡し、うわー、と胸中で声を上げる吉田だった。

 これだけの積雪は何年振りだろうか。足首が埋まる程積もっているのを見て、長靴で登校する事に決めた。今だけは雪国の住人の気分だ。母親のパートは休みとなり、テレビのニュースを見て「お父さん大丈夫かしら」とここではなく出張先の天候と交通状況をしきりに心配していた。確かに、事によっては帰りが長引く恐れもある。
 それを横目に見ながら、いつもより10分早く吉田は家を出た。鉛色の空からは雪がまた降っている。ゆっくりと降っているその様はしんしんと、という比喩を思わせた。
 ぎゅ、ぎゅ、と足跡を着けながら道を歩くと、すでに傍らに寄せ集めた雪かきで雪だるまが作られていた。登校前の小学生の作品だろう。きっと今日は、校庭で雪合戦だな、とかつての自分を振り返りながら思う。その時居た筈の佐藤は何処に居たか、と思い出そうとしてみるが、雪合戦のメンバーの中には見られなかったと思う。あの頃の佐藤は1人で、また本人も1人にさせてくれという空気があった。何がきっかけで始まったイジメなのか解らない。けれど、人が人を助けるのに理由が要らないのと同じで、人が人を虐げるのに何ら具体的な証明もされないのだろう。
 アーケードのある商店街に出ると、さすがというか道路に雪は積もっていなかった。ここに辿りつくまで、慎重に足を運んでいたからいつもよりかなり時間がかかってしまった。それに、普段はしない歩き方で体が変に凝るようだった。ここを抜ければまた雪道だが、途中の中休みと吉田は長靴を鳴らしながら歩いた。

「吉田、おはよ」
 そう言った佐藤の微笑みを見ると、今日が大雪だと忘れそうになる。佐藤だったら、例え台風の真っ只中だったとしても、水滴1つ制服に着かせず登校してくるんじゃないだろうか。
「おはよー。……やっぱ、結構な人数、来てないな」
 室内をざっと見渡して、吉田が呟く。正確に言ってやるならば、来てないというよりも、来れないという状況だろう。徒歩範囲ならまだしも、電車やバスを利用する地区に住んでいる生徒は大幅な遅刻を余儀なくされる。あるいは、そもそも登校出来ない事だって。
 こういう時の欠席ってどうなってるんだっけ、と実際に遅刻している秋本と牧村を思って吉田は考えを巡らす。
「1時限目は自習だって」
「え、マジで」
 その1時限目は英語だったので、吉田はちょっとラッキー、と思った。勿論、やらなければならないプリントや課題は出るだろうけど、指される心配が無いというのは何よりだ。
「何か、雪で得したかも」
 現金に笑う吉田に、佐藤もふっ、と口元を緩めた。その顔を、吉田は見つける。これは佐藤の、素の部分の笑みだ。吉田としてはちょくちょく見かける顔だが、こんな人のいる教室の真ん中でとは珍しい。
 思わず、吉田は辺りをささっと見渡した。今の佐藤を、誰も見ていないようでほっとする。
 上辺だけの笑顔でこれだけの人気なのだ。本当の、素の微笑みを見せたら一体どうなってしまうのか。
 けれどそんな気持ち、結局独占欲だ、と自分の感情を恥ずかしく思いながら、その場は大人しく自分の席に着いた。


 昼前くらいに、普段はバス通学の距離と歩いた秋本が到着した。雪も積もる気温の中、秋本だけが暑そうだ。牧村に至っては欠席するらしい。
 休みに降ってくれたならなー、と登校早々に昼食となった秋本と談笑しつつ、今日は吉田も教室内で昼を取った。外を出歩く気にもなれなかったし、物理的に今は女子の勢力も大人しめだ。
「いつまで降るのかなぁ」
 もぐもぐと3つ目の総菜パンに取り掛かりながら、秋本をが窓を見て言う。そうだなぁ、と中身の無い返事を吉田はしながら、同じことを思っていた。目の前の光景を見る分には、雲の切れ目も無いし、どこまでもひたすらに続いていそうだ。
「予報だと、明日の昼には止むみたいだけどな」
 携帯で天気情報をチェックしたらしき佐藤が言う。へー、と相槌を打ったら、頬に感触。佐藤が親指で食べかすでも拭ったのだろう。
 それをそのままに受け入れていた吉田だが、ふとここが教室内だと気付き、はっとなって慌てて身を引いた。離れた事で拝めれた佐藤の顔は、ちょっと意地悪そうににやり、としていた。理由が理由なだけに、怒るに怒れない吉田は精々目つきを悪くしてやるだけだった。


「もー!教室内であんな事すんなよ!!」
 発散しなかった怒りはそのまま帰りまで持越しされた。大雪でもその日のカリキュラムはしっかり行われ、早く帰れるかもという吉田の淡い期待は淡く消えた。
 放課後になり、ようやっと2人になれた吉田は、この時を待って口にした。単に良い悪いというより、自分たちの関係性がばれるという危険性と特に訴えたい。偏見よりも女子たちが怖い。ひたすら怖い。仮にどっとかが異性であったとしても、今のように秘密裏に付き合っているに違いない。
「ちゃんと誰もこっちを向いてないのを確認したから」
 やや顔を赤らめて怒る吉田に、佐藤が穏やかな口調で言う。本当に何も考えていなかったら、朝から帰りまで、吉田にべったりとくっ付いているのだし。
 あの女子たちの猛攻を、吉田に負わせてしまうのは酷だろうと佐藤も思う。さすがに完全に解消とは言えなくて、度々吉田も女子に吊るし上げを食らっているが。けれど、今日なら女子の人数も少ないし、ちょっとくらい手を出しても良いだろうという佐藤の判断だった。実際、今日の所吉田に被害は無い。
「それよりも、どっか寄って行こう。自習の分、お前まだ出来てないだろ?」
 まだ言いたいことは山ほどあったような吉田だが、その現実の前に口を噤んだ。吉田にとって幸いなのは、授業後提出ではなかった事だ。まあ、課題にしてしまった方が、後日、教師がチェックする分には楽だろう。今日の不在者の分もまとめて見れる。
 朝から些細な幸運が続き、最も苦手とする英語の授業に猶予を貰えた吉田は、この放課後の時間を無駄には出来ない。
「でも、佐藤の家でも良いけど?」
 店に入れば当然ながら料金を支払わなければならない。まだ今月はそれほど苦しい訳でも無いけど、こういう時は佐藤の部屋に寄るのが定例になりつつある中では、店に立ち寄るのが不自然な事も思う。
 そうやって首を傾けている吉田に、佐藤は自分の本心を少しだけ晒した。
「こんな日はさ、」
「ん?」
「部屋に上げたら、きっと帰したくなくなる」
 そしてそれを自分は堪えることが出来ない。
 そう伝えると、吉田は呆けた顔をして、え?とかへ?とかを繰り返す。理解の追いつかない吉田を連れて行くため、佐藤は手を掴んで歩き出した。


 アーケードに入り、珈琲チェーン店に入って奥の方の席に居座る。こんな天候だからか、店内は空いていた。これならば、心気なく長居させて貰おう。流れるBGMは会話の遠慮も無くしてくれる。
「……ええ~と、ここってこれかな?」
「うん、そうそう」
 英和辞典を片手に四苦八苦と言う具合で吉田は必死に問題を解いていく。その一生懸命な光景が何とも佐藤の癒しだった。外は雪だが、心の中がほっこりとする。佐藤はもうとっくに、授業開始15分で与えられた課題を消化していたので、残り時間もそれとなく吉田を観察させて貰った。完全ノックアウト、とばかりに吉田は机に突っ伏してしまっていた。佐藤とは全く逆に、吉田も授業中に時間を持て余した。
 1人で勉強しようとなると、まだまだ全くお手上げの吉田だが、こうして佐藤が見てくれる分には多少なりとも自分で出来るようになっている。と、思う。解らないと教えてくれるというある種の安心感の為だろうか。そっと見上げてみると、佐藤は自分のノートを覗き込んでいた。
「…………」
 佐藤君と勉強会がしたいと女子たちは良く言っているが、それが実行された事はまだ無いようだ。だからこそ、頻繁に口にしている訳だが。
 完全に裏取引されていた美術の時間での佐藤独占権は、実はしっかり履行されているんだろうか、と顔を何となく赤くしながら吉田は再びノートの方に意識を向けた。


 どうにか課題を終えた吉田、とそれを見ていた佐藤はその後少々のブレイクタイムを楽しんだ。この時期の限定メニューらしいザッハトルテを買い、吉田に差し出す。え、いいの?いいの?と何度も尋ね直す吉田が可愛かった。佐藤は始めに頼んだ珈琲に追加してミルクティーを頼んだ。こんな寒い日は何となく温かいミルクティーを飲みたくなる。
「ん、美味い!」
「そ、それは良かった」
 吉田が嬉しいと、自分も嬉しい。それだけの気持ちなのだが、吉田は何を履き違えたのか「佐藤も食べるか?」なんて言ってケーキを勧めてくる。良かった、という言葉の矛先をまるで解っていない反応なのは丸わかりだった。
 だから佐藤も、ちょっとだけ意地悪して、アーンしてくれたら食べる、なんて言ってやるのだ。とびきりの笑顔と一緒に。


 冬至も越し、日中も少しずつだが長くなっている。が、こんな重厚な雪雲の前では虚しいほど無力だ。すっかり暗いのに、雪の白さだけははっきり解って、何だか不思議な光景だ。雪自体が発光している訳じゃないから、微かな光を反射して目立っているのだと思うが。
「じゃあな、吉田。また明日」
「おう、…………」
 黒、というよりは濃紺の傘を広げた佐藤が自分を見る。
 これから、自分も佐藤も、家に帰る訳だが。

 ――帰したくなくなる

 今日、家に上げない理由を佐藤はそう言った。それは佐藤の深い部分から零れた言葉で、吉田が全てを理解するには難しい。
(佐藤、寂しいのかな)
 一緒に居ても、居なくても。
 こうして一緒に居ても、居られなかった時を思って佐藤はふと遠い目をする時がある。そんな時は、左目の下に視線が注がれているのだけども。
「さ、佐藤!」
「ん?」
 帰ろうと踵を返しかけていた佐藤だが、割と大きく出た吉田の声に振り返る。話でもあるのかと、傘を後ろに傾け、吉田に向かって背を屈める。
 あ、チャンスだ、と近くなった佐藤の顔に、吉田は軽く触れるだけのキスをする。それでも、曲がり無しの口付に、佐藤の目が丸く広がった。
「じゃ、じゃーなー!!」
 その後、ぱっと身を離した吉田は、長靴の妙な足音を立てながら急ぎ足で帰路を行く。いつ転んでも可笑しくない不格好な歩き方に、佐藤は口に広がるむず痒さを堪えられず、その場でぶはっと噴出した。
 今はまだ降る雪も明日には止むだろうし、積もった雪もいずれは溶け消える。
 吉田と居る事で温かく感じる反面、その奥に底冷えするような部分を感じるが、それもやはり、気づかせた吉田が溶かしてくれるんだろうか。
 まだ口に残る感触に、佐藤はそう思った。



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