冬の日曜日。その日は午前中から佐藤の部屋へと向かうべく、玄関先で靴へと履き替えている時、吉田は母親に声を掛けられた。
「またいつものお友達の所に行くんでしょ。だったら、これ持って行って」
 そう言って渡された袋は、結構な重量を感じた。貰い物のお菓子かと思ったのだが、それではこの重さは不自然である。
「母ちゃん、これ何?」
 袋を覗き込みながら吉田は言った。
「昨日のおでんよ」
 母親からその台詞が発せられたのと、吉田がそれの入ったタッパーを目に入れたのはほぼ同時だった。当然の流れと言うか、吉田はいかにも嫌そうに「えー!?」と声を上げる。
「ヤだよ、何で友達の家に行くのにおでんなんて持って行かなきゃなんないの」
 しかも実は、友達というより恋人の部屋なのだし。そして母親が、今日自分が行く「友達」が以前訪れた佐藤だとは、知らない。
 だって、と母親は自分の言い分を述べ始めた。
「週末、家に居るから気合入れておでん作ったけど、お父さんの急な出張入っちゃったじゃない?」
 唇を尖らせながらの様子に、吉田は母親以外の顔を見る。それは多分、恋をする者の顔だろう。
 自分も、あるいは佐藤に急な用事が入って約束を反故されたら、こんな顔でも浮かべるんだろうか。
「だから、とても食べきらないから、友達と食べなさい。お昼に良いでしょ?」
「ていうか、俺、前の晩から連続なんだけど」
 続くのはある程度覚悟していたが、まさに昨日の今日の晩飯と昼飯になるとは思ってなかった。
「いいから、つべこべ言わずに持って行きなさい!」
「……………」
 そう押し切られては、もはや吉田に拒否権は無いようなものだった。冬の寒空の下、吉田は地味にずっしりと手に来る袋を片手に、佐藤の家へと向かった。

「て事で、これがおでんな」
 袋を佐藤に差し出しながら、吉田は言う。ようやく片手が解放され、ちょっと清々しい気分だ。
 へえ、と袋を受け取った佐藤は、興味津々と言った具合に覗き込んでいる。
「まあ、不味くないけど、普通のおでんだよ。具も、普通だし」
 あまりに佐藤が熱心に見ているから、吉田から思わずそんな台詞が出る。
「じゃあ、これを昼にしような。お母さんにお礼を言っといて」
「うん。……でも、おでん以外にも食いたいな~」
 何せ昨夜に続いて連続である。舌が違う味を欲している。
「何が食べたい?」
 袋を丁寧にテーブルに置きながら、佐藤。吉田はちょこっと考え、「肉が良い」と漠然とした返事をした。
 肉か、と吉田からのリクエストに、佐藤は顎を摘まんで考える。
「あ~……牛丼とか出来そうだけど?」
 なるべくおでんに合う物と思った佐藤が上げた候補がそれだった。チャーハンやパスタはどうやっても合いそうもないし。
「牛丼! 佐藤、作れんの!?」
「そんなに驚かなくても…要するに具がネギだけのすき焼き作って丼に乗っければ良いんだろ」
 凄いな~と感心した目で言われ、佐藤の返事は照れ隠しで形成されてていた。
 じゃあ早速取り掛かろうか、と佐藤は冷蔵庫を開けた。


 佐藤が牛丼の具を作っている間、吉田は自分の持って来たおでんを温め直していた。この匂いを佐藤の部屋で嗅ぐことになるなんてな~と妙な感慨に耽る。
 隣で佐藤は手際よく調理を行っている。市販のそのまま使うつゆではなく、ちゃんと各調味料を合わせて作ったつゆで味付けをしている。味見をする為か、佐藤は煮込んでいる牛丼の具から大さじでつゆを掬い上げた。そして。
「吉田、味見して」
 つい、とその大さじが吉田の前に出された。それならば、と受け取ろうとしたのだが、何故だか佐藤はその手を離そうとはしない。
「……………」
 吉田の中で逡巡と葛藤を繰り返した事しばし、観念したように佐藤が持ったままの大さじに口を寄せて行く。
 まさに目の前で煮込まれていたその汁は、匙で掬った分だとしてももうもうと湯気を発していた。これはこのまま口に入れては火傷の恐れしかないと、吉田は慎重にふうふうと息を吹きかけて覚ました。それを佐藤が幸せそうに和んだ顔で見ていたのにも気づかず。
 こんなもんかな、と自分で加減を決めた吉田は、改めて大さじに顔を寄せ、ずずっと汁を啜る。
「ん、美味い」
「そっか」
 なら良かった、と極自然な笑みを浮かべ、佐藤は再び作業に移る。
 素を出すなんてあり得ない、と言っている割には普通に佐藤は笑えている。本人に自覚が無いのがまた、いかにも普通に、といった感じに吉田は思えた。


「吉田、辛子は?」
「いーらーなーい!」
 最後の「い」に歯を見せて反骨精神をむき出しにする。要らないと解って訊いてくる佐藤なのだ。食卓についた際、結局その場に辛子は無かった。いよいよ無意味な質問であった。
「いただきまーす!」
 食事の場での挨拶を吉田は欠かさない。マナーだとかエチケットだとかいう前に、当然のようにやっているのだ。佐藤もそれに引きずられるように「いただきます」と手を合わせる。
 そして早速手を付ける。佐藤は吉田の持って来たおでん、吉田は佐藤の作った牛丼だ。ばぐっ、と吉田は大きい一口を含む。
「ん~、美味いよ、佐藤」
 口の端にご飯粒を付けると言うお約束をやって、吉田が言う。「そう、ありがと」と佐藤はにっこり笑ってからす、と手を伸ばしその飯粒を取る。吉田がそれに照れながらも礼を言う前にぱくん、と口に入れてしまう。途端、肩を飛び上がらせる吉田。そして顔は赤くなった。
 そんな吉田を意に介さず、というかからかうつもりでスルーして、佐藤は綺麗に箸で大根を切り、また口に運ぶ。
「吉田の家のおでんも美味しいな」
「そっか?」
 何せ冬の時期には結構頻繁に顔を出すメニューなので、吉田の感慨は薄い。何故だろうと思うけども、ようするに酒を飲みながらで都合の良いものなのだろう、おでんというやつは。普段はビールや洋酒の多い母親だが、おでんの時は当然のように日本酒である。
「うん、…………」
 吉田の相槌に頷いた後、佐藤は何やら視線を彷徨わせて考える。どうしたんだろ?と調子を落とさない勢いで牛丼をかっ込みながら吉田が眺める。
「今思ったけど、手作りのおでんて初めて食べたかも」
「そうなんだ?」
 ごくん、と口の中を飲み下してから言う。佐藤はむしろ、自分自身に確かめるようにうん、と頷いてから改めて言う。
「家は専ら洋食が多かったしな。ポトフは出た記憶があるけど、おでんはな……」
 洋食が多い、と訊いて吉田の想像内の佐藤家は途端に洋風建築になった。だがしかし、佐藤の風貌は普段が和服という古風な日本家屋でも似合うような気がする。
「ポトフって、何だっけ?」
 吉田が尋ねる。それも気になったのは確かだけど、本当は家の事の方が気になるとは気になる。けれど、家族の事や中学の3年間に対して佐藤が特にナイーブな反応を示すのは解っている。だから、吉田もあまり触れないでおく事にしている。それが一番良い対処かと思うと断言は出来ないが、すでに傷ついている佐藤の心を無理やり抉じ開けるような真似はしたくない。
「まあ、言ってみれば西洋おでんだな。コンソメで煮込むんだ」
「へえ~……美味しそうかも」
 今まさに、現在食事中であるというのに、別の料理に思いを馳せる吉田。けれど目の前の牛丼を忘れた訳でも無く、むしゃむしゃと食べて行く。おかわりあるよ、と佐藤が口を挟むとじゃあ頼む!と空にした丼を突き出す。
「吉田はおでん食べないの?」
「うーん、昨日食ったしなぁ……」
 それより佐藤の作った牛丼の方が美味しい、とそこはまだ胸中でしか素直に言えない吉田である。
「好きな具ってどれ?」
「いいよ、佐藤が食えよ」
 妙な所で自分を後ろにやる佐藤だ。遠慮なんてしなくて良いとそう言えば、ちょっと違ったようで。
「吉田の好きな具食べようかなって」
 好きな味を知っておきたい、とそんな事を言うのである。一瞬、牛丼が喉に詰まりそうになった。
「……まあ、玉子、かなぁ」
 それでも、吉田は律儀に答えてやる。顔が熱いのはこの際気にしない事にした。
 答えてみたものの、特にこれが好き!という感じでも無い。ただ、印象に強いだけだ。
 覚えばおでんの具材なんてものは、子供の好きなものはあまりないように思う。今はコンビニとかでウインナ巻だのロールキャベツだのも入っているが、酒に合うように作られている自分の家のおでんにはそんなものはあまりない。そんな中で、吉田が進んで食べたいと思ったのが玉子だ。いつも2つは食べていたような気がする。
 けれどそれは昔の話で、今はがんもどきもつくねも食べる。さっき佐藤が食べていた大根だって、いつの間にか食べるようになっていた。目の前で両親が美味しそうに食べていたからかもしれない。
 吉田の台詞を受けて、佐藤は早速玉子を取り上げる。昨日からだし汁に浸って、また良い色になっていた。
 もういらないとは言ってみたものの、いざ実物を前にするとやはりその味を思い出して唾が溜まる。玉子以外にも食べれる具は増えたが、それで決して吉田の中で玉子の地位が落ちた訳でも無い。
 と、そんな時、佐藤と目が合った。佐藤はふっと顔を弛緩させると、それまで使っていたものではなく、新しい取り皿にその玉子を入れる。そして。
「はい」
 その取り皿を手渡される。
「…………」
 そんなに物欲しそうに見ていたのかな、と吉田はさっきとは別の意味で赤面したくなってきた。そして、既視感。
 幼い頃、食卓におでんが出た時、いつも自分に玉子を譲ってくれたのは父親では無かったか。自分の取り皿に玉子が落とされた時、いつも父親の穏やかな顔が付随していたと思う。
 父親は決して玉子が嫌いではなかった筈だ。その後、何やら母親の咎めるような声――それはお父さんの分でしょ、というような台詞を聴いた覚えもある。けれど、結局その玉子は自分の口に入るのだ。まだ表面がつるつるな玉子を箸で掴める技術も無かった頃、この時ばかりは箸で刺して食べても怒られなかった。寒い冬に思い出される、温かい記憶。
「玉子って、まだあったっけ?」
 取り皿を受け取ってから、吉田。佐藤は少し鍋をかき回してから「無いな」と首を軽く振りながら答える。
「そっか」
 吉田は慎重に、箸で玉子を二等分する。そして半分を佐藤の皿に入れた。
 佐藤はその半分の玉子を見てから、吉田を見た。吉田はそれに、にかっと笑って応えてやる。
 それで吉田の意思が佐藤にも通じたのか、佐藤はその半分をまた返そうとはしなかった。
 2人、ほぼ同じタイミングでそれを口にする。
「うん、美味いな」
「なっ」
 佐藤の呟きに、吉田も嬉しそうに言う。
 佐藤にも、お気に入りのおでんの具が出来ると良いなぁ、と吉田は今度はつみれを口に放り込みながら思った。




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