「~~~~~ッ、出来た!」
 最後の「=」を書き、吉田は快哉のように声を上げる。
 そうして解いた数式は、すぐさま佐藤がチェックに入る。間違えていたら、正解になるまで何度も何度もやらせるのが佐藤のスタイルだ。
 結構自信あるんだけどな、とドキドキしながら自分の解を目で追う佐藤を見つめる。
「……うん、合ってるよ」
 吉田を視線を合わせた佐藤は、まぎれも無く笑みだった。やった!と吉田は改めて両手を上げて喜ぶ。
「じゃ、ちょっと休憩入ろうか」
 そう言って、立ち上がる佐藤。飲み物とお菓子でも持って来てくれるのだろう。
 佐藤が部屋に出たのと同時に、吉田はその場で倒れ込むように横になった。佐藤の部屋に来てから、ずーっと勉強尽くめだった。まあ、その為の訪問なのだから、仕方ないというか当然と言うか。
 友達でやる勉強会なんて、途中から座談会になってしまうのが常だが、佐藤と2人きりだとそうなる事も無く、本当に勉強をしに来ている。佐藤から勉強を教わってるなんて、バレたらまた女子の怨念の的だな、と思いつつ、止めようとは思わない吉田だった。今さらという気もするし、そもそも自分が……
(ん?)
 ごろりと横になったからこそ気付けた。そんな隙間に、吉田は何かが挟まっているのを見つけた。気になって、何となく手を伸ばしてみる。それがどうみても厚紙か何かで、ノートや本の類では無かった事が吉田に行動の意識をさせたのだろう。
 そんなに奥の方では無かった為、あっさりそれは取れた。ちらしのような、ゴミか何かと思っていた吉田は、取り出したのが思わぬ物だった事に軽く目を見張った。
 そのすぐ後、紅茶とチョコレートを持って来た佐藤が戻る。
「お待たせ。……あれ、吉田、それって……」
「あー、本棚の隙間に落ちてた」
 そう言って、気付いた佐藤に改めて見せたのは、星座早見表。円型の紙をを二つ合わせたようなもので、上の紙に書かれてある目当ての季節にずらせば、下の紙にはその時の星座が表示されている。
「多分、前に買った雑誌の付録だな」
 紅茶を香り立たせながら、佐藤が言う。無くなっているのには気づいていたが、その雑誌と一緒に捨ててしまったのだろう、と思い込んでいたとの事だ。
「見つけてくれて、ありがとな」
「いや、そんな、そんなの」
 普段は意地悪ばかりの癖に、こんな時は素直に礼を言うなんてズルイ。結局、吉田にとって佐藤はずるい男のようだった。
 返事に困った吉田は紅茶を口着ける。基本沸騰した熱湯で淹れる紅茶は、淹れたては熱くて吉田は「熱っっ!」と思わず声を上げた。そんな一人で騒がしい吉田を見て、佐藤は小さく笑う。
「懐かしいなー、確か、小学校の時貰ったよな」
 いつかの夏休みの時に、と吉田は続ける。そうして早見表をくるくると回して遊ぶ。
「あんまり、仕組みは変わってないな」
「そりゃまあ、星の位置はすぐには変わらないし」
 吉田の呟きに佐藤が答える。会話になっていないようなやり取りが、2人は心地よい。
 早見表は概ね吉田の思い出の中の品と同じだ。せいぜい、使う紙の質が上がったくらいだろうか。昔を懐かしんでいるのか、早見表を始終弄っている。
「今はこの星が見えるのかー」
 今の季節、秋よりは冬に合わせて吉田が感慨深く呟く。肉眼で、全く星が見えない訳じゃないが、星座が確認できるとは言い難い。
「……見ようか?」
 佐藤が提案する。しかし、音量が些か小さくて、まるで独り言のようだったので、吉田は思わずえ?と聞き返していた。
「見ようか、星。今はちょっと無理だけど、テストが終わったら」
 天体観測しよう、と佐藤が改めて提案すると、吉田も「うん!するする!」と快い返事だ。きゅっとした釣り目が猫のように綴じられる。
 ホントに可愛いなぁ、とその表情を間近で眺めた佐藤はニコニコしていた。
 が。
「なあ、他は誰呼ぶ?何処にしよう?」
「…………………」
 実に無邪気に言い放ってくれた吉田に、佐藤は2人きりが良いという返事の代わりに頬をぎゅ~っと抓った。


 決行日はテストが終わったその日。この日になったのは佐藤の姉が外泊するからという理由で相成った。また居ないんだ~と吉田は定型美化してきた台詞を呟く。
 場所は佐藤の住むマンション。確かにここなら、場所も高いし、すぐに家に戻れる。
「佐藤、望遠鏡持ってたんだー」
「まあね」
 大した感慨も無いように、望遠鏡を担いだ佐藤が返事する。あまり普段は使わないし、実家の物置にあったのだが、この為に先週実家に戻っていた。いつもは嫌で嫌で、行く前から億劫な佐藤なのだが、吉田の為と思ったならまあ、耐えれた。
「俺も欲しいって言った記憶はあるんだけどなー。無いって事は買って貰ってないんだよな」
 なんだかその言い回しが吉田らしくて、佐藤は堪らず噴出してしまった。笑うなよ、と屋外に出る前から吉田の顔は赤い。
 普段、ここの屋上は解放されないのだが、大家に申告すればそれも可となる。佐藤は預かった鍵でドアを開け、屋上へと足を踏み入れる。
 学校より余程高い。家屋の屋根が地面のように敷き詰められている。遮られずに届く風は、真っ直ぐに過ぎて行っているようだった。
 おお~、と軽く感嘆の声を上げ、吉田は初めて訪れた場所を興味津々といった面持ちできょろきょろと首を回している。目を回さないと良いけど、と佐藤は胸中で呟いた。
「この辺で良いかな。組み立てよう」
「おうっ!」
 小気味よい吉田の返事。解体された天体望遠鏡が入っている鞄と、佐藤は他にも色々持って来ていた。その中で、まずは下に敷くシートを広げる。地面からの冷えを遮断するヤツだ。これで、疲れても地面の上だが坐っていられる。他にも何か入っていそうな鞄を置き、まずは肝心の天体望遠鏡を組み立てて行った。主に佐藤の主導で吉田はサポートのように支えの役を務める。
 望遠鏡が組み立てられた時、おお!と吉田が大きな声で完成を上げる。佐藤も、解体されて収まっていたのを見た時は然程では無かったが、こうして完成形を見ると心躍るものがる。宇宙へのロマンは男にあらかじめ組み込まれた遺伝子なのだろうか。
 だがしかし、組み立てて終わりではない。むしろ、これからだ。まず、ピントを合わせなければ何も見えない。
「………、………………」
 物は確だが、小学の時に買って貰ったというそれは、今の佐藤にはサイズ、というか大きさが小さいみたいだ。支える台は、吉田に合わせて設定されているから、佐藤は大分腰を屈めてなければならない。改めて身長の格差を思い知り、悔しいよりむしろ申し訳なく感じてしまう。
「うん、これで良いよ。ほら、吉田」
 見てごらんと促され、吉田は小さな除き穴から広大な夜空を眺めた。
「わっ!!!凄い!!!!」
 そこには、テレビで見るような星空が広がっていた。今日は新月で、月の光にかき消される事は無い。だからこそ、佐藤もこの日を推したわけだが。しかも、うまい具合に姉は外泊だと言うし。
「すっげーなぁ!佐藤!すごい!!」
 佐藤の顔と交互に見ながら、吉田は興奮した素振りで天体観測に興じる。今日は最近一番の冷え込みなのだが、そんな寒さなんて全く感じていないようだ。事前に佐藤がきっちり用意させたのもあるだろうが。
「吉田、ちょっと位置ずらして良い?」
「ん?何を見るんだ」
「冬の大三角形」
 佐藤が言えば、わあ!と吉田はまた声を上げる。その期待には応えないとな、と佐藤は望遠鏡の向きを変える。この位置、と再び固定した。佐藤が位置を変えている間、吉田は持って来た早見表を持ち、肉眼で夜空を見ていた。
「真ん中辺りに合わせたから。そこに見える3つの点が大三角形。一番上がペテルギウス。左がプロキシオンで右がシリウス」
 覗き込んだままの吉田に、佐藤がプラネタリウムのナレーションのように流暢な説明を施す。
「それで、プロキシオンのさらに左に蟹座があって、そこから右上に向かって円を書くように双子座、牡牛座、牡羊座」
「へー、結構星座が集まってるんだな!!」
 星を眺めたままの、吉田の声。
「……集まってるっていうか、まあ」
 そもそも黄道上に並んでいるからこその12星座なのだから、連なっていて当然なのだが。
 まあ、そんな知識より大事なのは、星が瞬いて綺麗という事だ。それ以外はむしろ蛇足と言って良いだろう。
「でもさ、こんなただの点を繋げて蟹に見えたり、牛に見えたり、昔の人は凄いな」
「余程、他に何も見るものが無かったんだろ」
「……そういう事言うなよなー」
 呆れたような表情を引き連れ、吉田は顔を上げた。普段は王子様みたいな佐藤の癖に、たまにとんだ子供じみた事を言うし、やったりする。専ら吉田の前でのみだったのが、最近は秋本や牧村にも飛び火している。秋本には申し訳ないと思うが、牧村は若干自業自得のような面もあるので、ほっとく吉田だった。
 ある程度満足できたのか、交代、と佐藤に譲る。が、佐藤は覗き込まず、吉田と一緒にシートの上に座り込んだ。佐藤が言い出した天体観測の癖に、何だかその本人はあまり夜空に熱心ではないみたいだ。
「飲み物持って来たんだ」
 と、中身が謎だった鞄の中身が明かされた。
「えっ、何?」
「ココア。あと、ビスケット」
 言いながら、佐藤は水筒からココアを注ぐ、すぐさま、冬の夜空の下、濃厚なココアの香りが湯気とともにふわりと吉田に被さる。
 夜に映える真っ白な湯気が、否応にもなしにその温度を告げていて、吉田は慎重すぎるくらいにふーふーと息を吹きかけた。そして、慎重に啜る。佐藤がくれるココアは、お湯を淹れたら完成するものではなく、純ココアパウダーからちゃんと作られたものだ。なのに、自分の味の好みに合っている。それが凄く嬉しい。
 肉眼ではなかなかあの星たちは見れないけど、見れないだけで今も頭上に広がっているのを感じられる。
 星が綺麗で、ココアは温かくてビスケットは美味しくて。
 隣には、好きな人。
 なんだか、他に要るものが思いつかないような気持ちになれる。
 佐藤お手製のココアを飲んだ吉田は、身体の中からぽかぽかしてきた。その心地よさに流れるよう、シートの上でごろりと仰向けになった。
「寝るなよ」
「寝ないって」
 今日は徹夜の観測を決め、すでに仮眠を済ませて来たのだ。ニッと歯を見せて笑って見せる吉田に、まあ寝ても持って行けるけど、と佐藤はいつもの揶揄を忘れない。
 仰向けになった事で、頭上に広がっていた夜空を全て見渡す事が出来た。
 昼も夜も、同じ空なのだろうけど、夜はやはり宇宙、という感じがする。
 ちょっと前に騒ぎになったヒッグス粒子とやらは、何やらニュースでビッグバンが起きたという物証でもあるというような事を聞きかじったような気がする。むしろ吉田としては物証が無いまま常識になっていた事に驚いた。ビッグバンとは宇宙の始まりであるというのは、理科で習う事だ。
 鎌倉幕府も年代変わったしな~~と、今日テストが終わったばかりからか、思考回路がそっちに飛ぶ。
「……宇宙の果てってあるのかなぁ」
 こうして眺めてみると、どこまでもどこまでも広がっているような空。宇宙。
 けれど、始まりがあれば必ず終わりがある。どの事象、現象にとっても免れない真理だ。
「あるよ」
 と、吉田の視界には入らない佐藤からの声。
 そして、吉田は思い出す。ここではない屋上で、佐藤本人の口から語られた、以前夢描いていたという現実。
 ――宇宙の果てまで行って、1人になりたかった
 それは、確かに過去形だったのだけど。
 なんだか不安になって吉田は、起き上がる。けれど、自分の隣に居たのは、存外穏やかな顔をした佐藤だった。
「でも、毎日広がっている」
 佐藤が言う。それが宇宙の果てを指しているのだと、吉田は少し遅れて理解した。
「……毎日広がってるんだったら、行けないな」
 そして吉田が言った。それはまるで、自分の影を足で跨ごうとしているようなものだ。自分が伸びれば、影も伸びる。追いつけない。追いつかない。
 そうだなぁ、と吐息と一緒に吐き出すように、佐藤は呟く。その視線は夜空へ、宇宙へ向かっているけど羨望ではなかった。
 良かった、と吉田は胸を撫で下ろす。佐藤は宇宙の果てなんて行かない。行こうとしても、行けないのだし。
 でも、もし。
 また佐藤が酷く打ちのめされて、本当に宇宙の果てを目指してしまったら、その時は。
(ま、追いかけるけどさ)
 本当は1人に何かなりたくなくて、だから周りから1人にされないよう、逆に1人で居ようとする。そんな佐藤の複雑な心境を、吉田は段階付けて判断するのではなく、ただ直感だけでそう思っている。
 宇宙での鬼ごっこ、結構楽しいかも、と吉田は何となく、自分のくだらない考えに笑った。
 吉田が不意に笑顔になった事に、その意味の解らない佐藤が訝しんだ顔つきになったが、説明はしてやらないでおく。
「吉田、ココアまだ飲む?」
 佐藤はそう尋ねて来るが。
「佐藤は?飲まねーの?」
 はっきり言って、あまり大きいとは見えない魔法瓶だ。うっかりしていたら、自分で全部飲み干してしまう。
「俺は良いよ」
 そう言った後、佐藤はぐい、と強引に吉田を引き寄せる。うわっと慌てた声を発したが、それごと佐藤の体に包まれてしまう。
「こうすれば温かいしなv」
「ちょっ、む゛~~~~~ッ!!!苦しいっ苦しい―――!!」
 何とか佐藤から逃れようと、じたばたする吉田。けれど、その抵抗はあまりに虚しい。
 今日は星を見るんじゃなかったのか!
 そんな吉田の呟きも、星の瞬く空へと、ただただ吸い込まれていった。
 どこかに果てが必ず存在する、この宇宙に。




<END>