何気ない事が眩しく思えて、日常が輝いて見える。
 それがどこから齎されるのか、佐藤は再会する前からもう知っていた。
 自分の世界を色づかせる存在は、紛う事無く、たった1人なのだから。


 な、吉田、と佐藤が声をかけたのは、その日の放課後。すでに帰路に着いて久しい頃だ。
「明日、一緒に登校しないか?」
 これまでの話の流れとは、全くかけ離れた提案に、吉田はただただきょとんとした。
「え……え。明日って、何かあったっけ?」
 いつぞやのように、バナナの皮が校内にまき散らされて清掃にと駆り出されるような事態にはなっていない。
 それとも、自分が忘れているだけかな、ときょとんとした顔で首を捻っていると、佐藤が続ける。
「別に、特に何も無いけどさ。……ただ、最近女子を撒くのに一苦労だから」
  疲労というよりある種の悔しさを滲ませながら言う佐藤。こう言っては何だが、施設で大虎を一撃で伸せる自分が、まさか日本の女子高校生如きに遅れを取ると は夢にも思っていなかったのだ。これはあれか、麻の種を撒いて出てくる芽を毎日飛び越えるといずれは何メートルの高さを飛んでいるという。
 佐藤が押しよる女子の波を懸命に避けて自分の所に来ている、というのは吉田も解っている。何だか申し訳ないと思う反面、そうしてまで会いに来てくれるのも、一緒に帰るのも嬉しくて、無理に来なくて良い、とは言い出せないのだ。
 一緒に帰れなくても、休みの日とかにも過ごす事は出来るというのに。
 なんだか自分が、前に比べて余程貪欲になっているように吉田は思う。比べる「前」とはつまり……夏休み前の事で……
 思い出にするにはまだ強烈過ぎる記憶に、ちょっと頭の中で過ぎるだけで何だか体内が沸騰したような感じになる。
「……て、事で良いか?」
「へっ? あ、ああ、う、うん!」
 南の島での事を思い出してしまい、ぐるぐるしている最中に何事か佐藤が言っていたようだ。別に疾しくないけど、思い出している事自体に羞恥を覚えた吉田は、確認する事無くそのまま頷いてしまった。
 すると、佐藤がにこっとした笑顔。それは女子に向ける人工的なものではなく、佐藤の本心からの素直な笑顔なのだが、逆にどんな話だったのか、今さら気になってきた。
「じゃ、明日、8時にここでな」
 そう行って、それじゃあな、と佐藤は軽やかに手を振り、分岐点から自分の家へと続く道を行く。
 残された形になった吉田は、5分かけてようやく、明日の登校の約束をしたのだ、という自分の現状を把握できたという。

 べ、別に、突然言い出してちょっと驚いただけで、最初から一緒に登校するのが嫌だった訳じゃねーし、と入浴中、むしろそれより前からも、吉田はその事だけを始終頭の中で思っていた。それはもう、ぐるぐると。
 それでも、勢いだけで承諾してしまった事に、う~~、と唸りながら湯船に鼻の下まで潜っていたら、途中でふらっとした感覚を覚えた。ゆあたりの危険を感じた吉田は、その時点でさっさと切り上げた。
 あの場所で8時、というのは普段の時間で十分間に合う。早起きの必要は無いのだけど、絶対に遅れたくない吉田は、普段より1時間早い就寝に入る。元々、その1時間だって、だらだらと漫画を読んだり夜更かししているだけなのだから、何も差支えない。
(一緒に、登校かぁ……)
 まるっきり思わなかったという事でもないが、何となく実行に移すまでには及ばなかった。
 そんな事を思いつつベッドに潜った吉田の顔が、それでも嬉しそうにふにゃっと崩れた。
 明日は朝から佐藤と一緒なのだと。

 時間があれがその赴くまま、惰眠や夜更かしを貪る吉田とは違い、佐藤は休日でも就寝と起床の時間を変えたりしない。
 それでもやはり、気が逸るこんな日は、普段よりも早く目が覚めてしまった。一応セットしている目覚ましは、今日もまるで意味を成さなかった。目覚まし設定をオフにし、佐藤はカーテンをさっと開ける。
 天気は、晴れ。空は雲1つ無い青空だ。
 空が青くてこんなに嬉しいなんて、きっと吉田と出会わなければ体感なんて出来なかっただろう。あるいは、吉田と出会わなかった自分は、それでも良いのかもしれない。
 けれど、今の自分となっては、そんな生活はとても考えられなかった。

 吉田と出会ってから、さらに再会してから、佐藤の生活はがらりと変わった。あくまで佐藤の認識内での事だが、それはもう、目の冴えるような変化だった。
 人生の1つの節目である高校の進学も、この制服も、何の感慨も沸かなかったが、吉田と同じ学校に通っているのだと解ると、それは佐藤にとって、とても大きな意味になった。この高校を選ばなければ、この制服で無ければ、吉田と再会することは無かったのだから。
 朝が来るのが待ち遠しくて、日が暮れるのが惜しくて、1日の移り変わりに一々心がざわついた。何一つ動く事なく、小学期を終えたこの心だったが、機能だけは無くす事は無かったようだ。
 いや、自分で否定していただけで、きっとずっと動いていた。目の前で起こる事の情報を受け入れ、感情を吐き出していた。吉田が怪我を負った時、その時自分は間違いなく罪悪感を抱いていた。
  その時の気持ちを伝えても、生憎吉田は覚えていないらしい。怪我をした事自体は勿論記憶にあるのだが、その原因となった状況を忘れている。吉田にとって、 あれも普段の小競り合いの1つに過ぎなかったのだろう。でも、それで良いと思う。覚えていなくて寂しいと思うけど、そう思っている自分を吉田は知ってい る。
 それだけで、良いのだと思う。

 嘘みたいな再会を果たし、佐藤は選択を委ねられた。このままクラスメイトとして過ごすか、胸の内を打ち明けるか。
 小学生の頃には無かった処世術なら、友達としての関係を気付くのは多分容易い。けれども、そんな事は露も思わず、気づけば吉田を抱きしめていた。友人間では授かれないその距離と温もりに、佐藤の心は決まったようなものだった。
 勿論、告白して断られる可能性をまるで考えなかった訳でもない。けれど、断られる事より、ただの友達でいる事の方に佐藤は畏れた。だって、それは本当の自分ではないのだから。
 本来ではなく、作り上げた自分と吉田が居るのかと思うと、妙な話、佐藤はその作った自分に妬けた。
 今すぐにでは無くて良い。まずはありのままの自分を、ずっと吉田の前で晒して、そしてその上で好きだと言おう。
 嘘の自分で吉田と過ごすより、本当を見せてフラれた方が余程いい。
 逃げないと決めて、またこの国に、あの家に戻ったのだから。

 そんな事を思い返しながら、佐藤は身支度を整えた。ネクタイをし、最後の上着はまだ着ない。これから朝食だ。
  一応、姉という同居人は居るものの、1人で朝食を済まし、後片付けまで終える。歯磨きをし、洗面台で軽く髪型のチェック。寝癖がついていないかどうかを確 認する程度だ。いつぞや、佐藤の髪はさらさらで良いな、と自分の髪質に思うところのあるらしい吉田が、羨ましそうに言っていた。思い出し、少し笑う。佐藤 としては、撫でて心地よい吉田の髪はむしろ好きなのだが。今度、同じ事を言って来たら、そう返してやろうか。きっと、真っ赤な顔で怒ってくるだろう。
 いやしかし、最近の吉田は思わぬところで素直で、むしろこっちが赤面してしまう事もしばしばだった。実際の所、その一挙一動に振り回されているのは自分の方なので、これが本来の姿なのだろうが。
 別に翻弄されるのは嫌ではないけど、リード出来ないのが情けないと思うのは、男の性というやつだろうか。
 まあ、そんな自分も、吉田は可愛いとか言ってくるんだろうけど。

 10分早いが、佐藤は家を出る事にした。行っても吉田はまだ居ないかもしれないが、このまま部屋に居ても良い事が起きる気もしないから。
  マンションから一歩踏み出すと、窓から見た通り、どこまでも広く青い空が続いていた。窓から覗いたのとは違って、またその青さも一入だ。見事なまでのこの 快晴は、笑顔の吉田を思い出す。最初は、それまでからかっていただけもあって、自分の気持ちを受け入れながらも吉田は警戒も強かった。前に、鞄が教室に あってまだ校内に居るだろう吉田を女子たちを撒いた後、自分の席で待っていたら、一緒に帰りたいと思ってた、と待っていた事を凄く喜ばれた。あの笑顔は反 則だと思う。その笑顔に中てられてしまい、校内であそこまでするなんて、佐藤だって思ってなかった。それでもあの時は、今すぐにでも吉田に触れていない と、感情が暴走し過ぎて何をするか解らなくて。その感情の中には、吉田を大事にしたいと確かに思うのに、なのに他人にの手に渡らないくらい、痛めつけてや りたいとすら思ってしまう。
 けれど、吉田と触れ合う度に、その凶暴性は姿を顰める。消えた訳ではない。守りたいという感情の裏側なのだから、それが消える時は、表のその気持ちも消えうせなくてはならない。
 大切だと思うのも、傷つけたいと思ってしまうのも、どっちも自分だ。
 佐藤が自覚するより、先に吉田は両方を受け入れていた。

 待ち合わせ場所に来た時、佐藤はおや?と目を見張った。自校の制服の色をした記事が、曲がり角の向こうに見え隠れしたのだ。一瞬より、少しだけ長い僅かな時間。
 真っ先に思い浮かんだのは吉田だが、けれど約束の時間より10分も早い。まさか、と思いながらもその角を曲がると。
「…………」
「あっっ! さ、佐藤! おはよう!!」
 多分吉田は、ここに着いて、まるで動物園のクマのように行ったり来たりをしていたのだろう。佐藤が角を曲がった時、吉田も振り向いたように体の向きを変えていた。そして、真向いで対峙する。
「……あー……いつから来てた?」
 津波よりもさらに早く体内を駆け巡る歓喜で顔がだらしなくにやける前、とりあずはそれを確認する。
「ん、ちょっと前……なんだよ、その目は!本当だって!!」
 別に完全に疑った訳ではないが、「本当に?」という気持ちはあったので、それが顔に出てしまったようだ。不思議と吉田は、表情の向こうの本心を見抜く。
 時間前に来てしまった照れ隠しにか、過剰に吉田が怒り出す前、佐藤は言った。
「学校、行こうか」
「う、うん」
 少しぎこちなくだが、ちゃんと頷いた吉田がとても愛おしく思う。

「あんま、人居ないな」
  率直な吉田の感想が、そのままだった。たかが10分だが、されど10分だ。それくらい早いと、普段の人の流れの半分も無いように思う。朝練のある生徒はも う登校しているだろうし、そうではない生徒はまだ家から出るか出ないかくらいで、ちょうど自分たちはその合間を行っているようだ。
 さりげない心理誘導と巧みな話術により、佐藤の住所を知る女子はほぼ居ない。ほぼ、というのは野沢姉が居るからだ。とにかく、その為帰り道は待ち伏せされても、その逆の心配はない。……今の所、だが。それを思って、佐藤もこんな申し出をしてきたのだと思うが。
 何か、佐藤と朝歩くのって変な感じ、と他愛ない会話の隙間に、吉田は自分よりうんと背丈の高い横の男を見て思う。
  この道を佐藤と歩くのは、いつも帰り道で。それが逆を行っているのも不思議だが、普段は一日の終わりなのに今日は始まりを佐藤と並んで歩いている。変な の、とまたも思うが、どちらかといえばそれはくすぐったいものだ。口元がむずむずしてきてしまう。嬉しい、という事なんだろう。
「今日、晴れで良かった」
 と、佐藤。
「雨の中、待たせたら悪いし」
 そう言って吉田を見やる。その顔は揶揄してではなく、本当に身を案じての優しい言葉なのだが。
「……だから、そんなに待ってねーって」
 大抵の事は思ったままを言えるのに、こういう時はからきしだった。本当に、そんなに待っていないのだが、そう言ってくれたのは、ちょっと、嬉しかったのだけど。
 吉田だって、朝起きて、今日がとても晴れであったのが嬉しかった。こんな日に、佐藤と一緒に学校に行けて。吉田が胸の内で燻らせていた事を、あっさり言われて悔しい思いもあった。
 むー、と口をへの字にしていると、ふと手に微かに何かが当たる。けれどそれは故意で、吉田が気づいた時にはその手がしっかりと佐藤の手で握られていた。さすがにこれには、本気で慌てる。
「ちょ、誰か来たらどうすんだよ!!」
 抱き合っているのなら、まだふざけ合っているとも受け取れるかもしれないが、しかし。
 けれど、そんな風に慌てる吉田に、佐藤は至って涼しい顔だ。
「大丈夫。誰か来たら離すから」
「……本当か?」
「本当だって。なんで疑うかな」
「だって、これまでがこれまでだろ」
 ふん、と思い出したようにそっぽ向く。こんな態度は前からだけども、最近はどこか甘やかさで彩られていると思う。繋いだ手だって、口で言うだけでこの手を振り払おうとはしない。
 小学の時から変わらないと思っていた吉田だが、着実に以前とは違っている。その変化を齎したのが自分だと思うと、佐藤は感動したように痺れる。宇宙の塵みたいに、ちっぽけで取るに足りない自分が誰かに影響を与えているなんて。それも、好きな人に。
 反対に佐藤だって、前とは違うところは出ている。特に夏休み、少しだけ深く触れ合えたからか、何かがすごく満たされている。充実している、とも置き換えられる。
 前は吉田が別の誰かを見つけたのなら、それで良いと思ってた。でも今は、それでも尚選んでくれと望む事が出来る。吉田が誰かの特別になるのなら、その場所を自分に変えてほしい。いや、変えてやる。
 掴んだ手は、離さない。
「……なあ、佐藤」
 ややじっとりとした吉田の声。その理由を、佐藤は解っていた。
「そろそろ、人が一杯出て来たんだけど! 手! 手!!」
 そんなに言われなくても解ってる、という体を取って、佐藤が言う。
「うーん、ま、いいんじゃないか。一々騒ぐヤツも居ないだろ」
「バッ、バカ――――! 女子が確実に騒ぐだろ――――!?」
「まあ、いつもの事だし」
「いつもの事だからって、良いって訳でもないだろ!!」
 離せよ、離せー!とさっきとは打って変わって、吉田が本気で抵抗する。けれど佐藤は、離さなくて。
 そんな風に吉田が騒ぐから、むしろ注目を集めてしまうのだろうけど、佐藤はあえてそのままにしておいた。こんな自分達、一人でも多くに見て貰いたい。
 変わったとは思えても、成長したのとは少し違うようだ。最初に持っていた頃の、ちょっといじめてやりたい、という気持ちはまだ健在のようで。
 まあ、酷く傷つけてしまうよりはよっぽど良いよな、と佐藤は自分勝手に納得し、手を繋いだまま校門を潜る。
 すでに朝練か、何かの用事で登校して来た生徒が、こっちに目を向ける。けれど、普段の自分たちの様子が結構知れ渡っているようで、それ程奇異な目つきには見られなかった。吉田が止めろ止めろ騒いでいるのが、罰ゲームか何かだと思われているのかもしれない。
「いやー、朝早い校舎は清々しいな、吉田!!」
「も――――!! 手、離せって――――!!」
 結局教室までそのままで(靴を履きかえた後にまた捕まった)昼休み、またも吉田は女子たちとの熾烈な追い駆けっこに見舞われる事となった。
 もう二度とこんなの御免だ!とは思うけど、一緒に帰るだけじゃなくて、一緒に登校するのも良いものだ、と思った吉田は、きっと次にまた、朝一緒にと佐藤が誘ったら頷いてしまうのだろう。
 それどころか、自分から言うのかも。
 女子から隠れていても、吉田はそんな事を思っていた。




<END>