*小学時代のさとよしです*



 7月の下旬。大抵は海の日の付近である。
 たった半日の、それも全校集会だけの今日を終えたら後は40日強の休みが待っている。
 その日を目前に控え、クラス全体はもはや一足早い夏休みモードになっていた。どこに行くとか遊ぶとか。
 目先の休みに浮かれてばかりの連中に、出された宿題の事は頭にあるのだろうか。授業が無いだけで勉学から解放された訳ではないのだ。単に茹だる様な夏の暑さの中で冷房施設もろくにない教室では捗らないだろうという考慮の為だ。それを忘れてはしゃげる気が知れない。
 だが、この馬鹿騒ぎは佐藤にとって悪い事ばかりでは無かった。むしろ皆の意識は夏休みに向いていて、クラスの肥満児をイジメ用という気にはならないようだ。逆にそれくらいの気まぐれで苛められているのかとも思うが、そこも含めて佐藤にはどう良い事だった。
 夏休み中の佐藤の予定は決まっている。学習塾で勉強だ。塾は学校と違って冷房施設も完備されている。学校が無いのをむしろ幸いにと、朝から晩までみっちりカリキュラムが詰まっている。
 それが、ずっと続くだけ。
 家族は旅行に行くらしいが、佐藤は今の時期の勉強が大事だから、と塾の合宿に放り込まれている。
 残念だとか落胆なんてしない。明らかに自分を毛嫌いしている姉や、弟につきっきりの両親と旅行だなんて、その方がぞっとするから。
 だから佐藤にとって夏休みとは、勉強の場が学校から塾に移るだけだ。そこには何の楽しみも喜びも無い。
 むしろ無くて良い。あった所で、何の意味も価値も無いのだから。
「佐藤!!」
 と、呼ばれ、その仏頂面に似た無表情の眉間に皺が刻まれた。どんな悪口を言われても動じない佐藤が、唯一その表情を変える相手だった。
 一体何の用だ吉田、という台詞は胸中だけで呟いた。相手をして、それが周りに知れたら堪らない。今は誰も周りに居ないから良いのだが。最も、他に誰も居ないから、吉田も自分に声を掛けたのだろう。
「なあ、佐藤! 夏休み、どっか行くのか?」
「……………」
 今まさに、くだらないと始終思っていた事を聞かれ、佐藤の眉間がますます深くなる。
 帰りの会も終わって、あとは帰るだけだと油断したのが不味かったか。
 が、吉田はそれを不快に思うでも無く、至って気楽に、他のクラスメイトと同じような口調で話しかけてきた。何か、それが無性に腹が立つ。周りと同じにするなと言ってやりたい。
 佐藤が黙って居る胸の内でそんな事を思っているとは知らずか、吉田の台詞は止まらなかった。
「俺はなー、父ちゃんの方の実家に帰るんだ。んでもって、母ちゃんの方にもな。父ちゃん、プールに連れて行ってくれるって言ってるけど、どうなんだろうなー」
 ウチの父ちゃん、出張多いんだ、と吉田。
「あ、なあ、祭りに佐藤も来るか?」
 祭り、とは、とりあえずこの一帯で一番広い公園で開催されるものである。すでに櫓の骨組みらしき物が立っていた。
「……行かないよ」
 行く筈があるか、と佐藤が言う。
「ああ、旅行とか?」
「違う。塾」
 別に吉田と話をするつもりは全くなかったのだが、家族旅行に行っていると誤解されるのは嫌だと思った。なので答えた。
 塾、という返答は吉田にとってかなりの想像外だったようだ。その吊り眼を真ん丸にするくらい見開き、えっっ!と驚く。
「えーっ、夏休みも勉強かよ! 大変だなー」
「…………」
 どうやら吉田も例にもれず、夏休みは勉強しなくて良いと思っている輩の様だ。彼の8月31日はさぞかし悲惨な事になっているだろう。
「なあ、それってどうしても行かなくちゃダメなのか?」
「……………」
「来れるなら、来いよな。ビンゴ大会もあるし」
 いよいよくだらないな、と佐藤は思った。
 けれど、口にはしなかった。
 面倒なだけ、だと思う。別に吉田の笑顔を壊さない様にとか、そんな事じゃなくて。
「俺、リンゴ飴は絶対に食うんだ。綿菓子も良いよな。チョコバナナ、美味いよな〜」
「…………」
「金魚すくいとかしたいんだけどさ。母ちゃんが生き物はダメ!って」
「…………」
 帰り道、解れ道に差し掛かるまで、佐藤は吉田と、そんな取りとめのない話を止めさせるでもなくずっと聞いていた。


 そして、その祭りの日。
 早めの夕食を取り、佐藤は車で塾に向かっていた。すでに、囃子の音が聴こえる。
「……………」
 一瞬だけ、そっちに意識を向け、けれどすぐに膝上の参考書に目を戻す。
 今日は、吉田の言っていた祭りの日だ。思い出したのでは無くて、ずっと頭にあった事だ。
 意図的に忘れる事でも無いと、そのままにしておいたら、ずっと記憶の先頭に位置していた。
 車が、一番会場近くに差し掛かる。
 その時、佐藤は一瞬だけ参考書から顔を上げ、窓から吉田の姿を探した。
 けれど、思いの外多い人ごみの中、あの顔を見つける事は叶わなかった。
 何をやって居るのか。佐藤は自分の行動に嘆息する。
 きっと、今日、吉田は。
 リンゴ飴を齧り、綿菓子を買い、チョコバナナを食べて金魚すくいをやろうと思いつつも断念するのだろう。
 話した内容をそのまま再現するとは思わないが、何となくそういう事をしている吉田は容易く想像出来る。
 少しの時間、佐藤は吉田の姿を探し。
 その時間だけ、そんな吉田の姿を見たいと思った。


***


「はい、吉田。リンゴ飴」
「えっ、いいのか!?」
 やったー!と目を細めて受け取る吉田が可愛い。にこにこして眺めていると、その先にまたお目当ての屋台を見つける。
「吉田、チョコバナナあるよ」
「んー、でも今飴食べてるし」
「そっか」
「でも、またその内屋台があるよ」
 食べ終えた頃にでもさ、と気楽な吉田。佐藤は初めては居るこの会場に来るまで、複数の同じ屋台がランダムに陳列しているとは思わなかった。統率し、全部別の物を出していると思ったが、やはりそうでもないのだろう。たこ焼き屋はすでに3軒以上見かけた。
「金魚すくいあるよ」
 一時期は廃れ、スーパーボールや人形が流れていた屋台に打って変わられていた金魚すくいの屋台だが、また近頃よく見かけるようになった……らしい。佐藤は事前に適当に漁った情報だけで知った。実際に体感した事は無い。
 金魚すくいの屋台を見て、吉田の目が軽くキラリと光る。男子として、狩猟系統のものは胸躍るのだろう。ゲームソフト然り。
 けれど、その吉田の表情はすぐに曇る。
「……あ〜でも、金魚は母ちゃんダメだって言ってるから」
 知ってる。
 口に出さず、佐藤が胸中で呟く。
「だったら、俺の家で飼うよ」
「えっ、いいの!? お姉さんとかは!?」
 すぐに飛びつく半面、同時に懸念もするのが吉田らしい。
「別に犬や猫みたいに吠えたりする訳じゃないしさ。俺の部屋に置けば文句も無いだろうし」
 それに基本無干渉だ。相手が何をしても、特に何も思わない。金魚が部屋に増えるくらい、それこそどうでも良いだろう。
「じゃ……やろっかな」
 良い? ホントに良い? と表情で何度も語りかける吉田。可愛くて可愛くて、ここが混雑した会場でなければ、思いっきりかき抱いていた事だろう。
 良いよ、と問われる度に何度も頷くと、ようやっと吉田もパッとした笑みを浮かべる。
「佐藤が飼ってくれるなら、安心だな!」
 そんな嬉しい事を言われると、顔がにやけて、困る。
 だから佐藤は「その前にちゃんと掬えたらな」と揶揄して吉田を怒らせて、何となくお茶を濁した。


 その日の帰り、吉田の手にした金魚は2匹。赤いのと、黒いのだ。吉田の浮かべる満面の笑みは、それが店主の情けで貰った物では無く、自分の力で手に入れた戦利品だと解るだろう。
 そして吉田の反対の手には綿菓子。両手に祭りのアイテムを掴む吉田は可愛いのだが、いかんせん手が繋げられなくて佐藤はちょっと微妙な感じになった。
「初めてやったけど、取れたなー」
 余程嬉しかったのだろう。さっきからその話題が出る。
 ほぼ生まれて初めてだという吉田の金魚すくいは、中々の功績だった。2匹も掬えたら上等だろう。ある意味、ビギナーズ・ラックかもな、なんて佐藤は思っている。
「今までやった事無かったんだ」
 佐藤は自分にとって解りきった事を聞く。
 きっと吉田は忘れている。あんな些細な事。その後の膨大な思い出の中に埋まり、記憶としての欠片も無いだろう。
 でも、それで良い。そんな時期を経て今の自分達が居るのなら、吉田の忘却だって今を模る大事な要因だ。目の傷にしても。
 うん、ない。と吉田にとっては初めての質問に、素直に応じる。
「いつもやりたいって思ってるんだけどさー、さっきも言ったけど、母ちゃんが生き物ダメだって……」
 佐藤の記憶の中と、ほぼ同じ事を言う吉田。今、佐藤が浮かべている笑みの理由を、吉田はきっと解らないだろう。
 台詞を言い終えたと見せて、吉田は何やら考える様な素振りだ。
 何か、食べ忘れたものでも考えているのかな、と佐藤がほのぼのと見守って居ると、不意に吉田は佐藤を見上げた。
 またちょっと、考えてから言う。
「なあ、」
「ん?」
 そして次の吉田の発言に、佐藤は軽く目を見張る。
「前にも、佐藤とこんな話して無かったっけ?」


 カラカラと鳴る下駄の音は2人分。浴衣に合わせて履物も拘った。
 吉田の左手には金魚。小さいビニール袋の中でそれでも優雅に泳いでいる。
 佐藤の右手には、綿菓子。さっきまで、吉田が握って居た物だ。
 そして吉田の右手と佐藤の左手は繋がっている。
 顔が真っ赤の吉田が、少しムッとしているようなその顔が、佐藤にはとても愛しく思えた。



<END>