乾燥を防ぐためのラップをはぎ取り、吉田は楽しみで楽しみで仕方ないという表情を湛えたまま、手にした焼きそばパンにはぐりっ!と噛みついた。
「ん〜、美味いv」
 もぐもぐ、と咀嚼しながら、吉田は目を細めて喜ぶ。眺めている佐藤は、ミルクを美味しそうに舐めている子猫を彷彿させていた。
 吉田の手にした焼きそばパンは、この学校の購買で買ったものだ。人気商品なので、昼休みが始まって5分くらいで完売してしまう。自分達のクラスは決して購買店から近いとは言えない場所なので、移動教室等にタイミングが合えば、こうして手に入れる事が出来るという具合だ。
 吉田は幸せだとでもいうように、にこにこして食べているが、佐藤として見れば麺類とパンの組み合わせが納得出来ないでいる。炭水化物に炭水化物を合わせて、一体どんな意味があるというのか。とはいえ、折角希少価値あるパンを美味しそうに食べる吉田に水を差したくないので、そんな野暮な事は言わないが。
 佐藤は家庭環境もあり、そういったジャンクな食べ物は、特に日本固有のB級グルメ的なものは食べた事がほぼ無い佐藤だが、慣れ親しんでいる吉田にしてみれば、やはり即座に完売してしまうこの焼きそばパンは他と比べて美味しいのだと言う。
 同じ焼きそばパンでも、やはり色々あって、例えば麺の太さだとか、ソースの濃さだとか。焼きそばとパンの比率とか、色々と比べる所は多い。そんな中、この焼きそばパンは全体的に秀でているという評価が多くの人の元、認識されているようだ。それでこの人気だという訳か。
 ここの焼きそばパンには紅ショウガは入ってなくて、そこが良いって言う人も多いけど俺としては入って居た方が好き、と吉田は焼きそばパンを堪能しながら、そんな雑談も交わす。
「でもさー、」
 と、最後の一口を頬張り、親指についたパンくずをぺろりと舐め取って吉田は言う。
「今はここの生徒だから買えるけど、卒業したらもう食えなくなるんだよなー」
 まさに食べ終えてしまったからだろうか。今からその事を憂いて、吉田は眉を垂らす。
「今からそんな事言って、どうするんだよ」
 からかい交じりに佐藤は言ってやる。自分達は、まだ1年生なのだ。
 そうだけどさ、と揶揄する佐藤に、吉田は唇を尖らす。まあ、つまりはそれだけ楽しみで、入手困難なのだという現れなのだろうけど。
「来年は、もう少し近いクラスになれたら良いなー」
 やはりどうしても地の利で決まってしまうこの争奪戦に、吉田は当ても無く祈った。
 そうだな、と吉田の他愛も無い呟きに、頬杖をついて、佐藤は返事する。
 けれど。
 卒業。
 来年。
 吉田から発せられたその単語が、引っ掛かって滑り落ちない。


 いつからだろうか。
 明日を心待ちにすると同時に、来なければ良いとすら思う様になったのは。
 いや、いつからも何も、吉田と「お付き合い」を始めてからだ。想いを自覚した時には、そんな感傷全く抱く事は無かった。
 片想いは、実りが無いがその分気楽である。ただ、好きだと思ってさえすれば良い。
 しかし、そこで付き合いが始まるとなると、話はちょっと別だ。両想いとなってしまっては、自分の凶悪かもしれない感情で相手を傷つける惧れが生まれるという事だ。傷つけたくないのであれば、最初から関係なんて持たなければ良い。
 それでも佐藤は、やっぱり近くに居たくて、もっと吉田の心の中に入り込みたくて、つい事後承諾の騙し打ちで付き合いを始めたのだが。
 始まりがあれば、当然終わりがある。漠然と抱くその摂理を、佐藤は逆らわず受け入れようと思った。もっと言えば、自分との別れを経て、自分の事を経験に吉田が本当に好きな人に巡り合えたのなら、むしろそれを誇りにしようと。
 おそらく、正規の意味にはかすりもしないのだろうが、吉田が「何で佐藤と付き合ってるんだろう」みたいな事を言われ、いつか来る終わりの時を、その時まざまざと実感できた。
 あれほど何度も受け入れるのだと覚悟を決めていたのに、実際は意味合いを含まなくても、ただの愚痴だと解って居ても世界は色を無くし、自分の心は重く、沈んだ。
 だから、ついぽろりと、普段は厳重に仕舞いこんでいる弱い自分を曝け出してしまった。失態、だった。
 けれども吉田は、そんな事無いと猛然として反論して、果ても無く沈んだ心が、また陽に当たる場所まで浮上した。
 思わず、机の上に乗り上がり、変な格好と吉田に突っ込みを入れられても、それを取り繕うよりも先に吉田を抱き締めたかった。そして抱きしめた吉田が、安堵したようにほっと息を突いた時、泣きそうなほど、嬉しかった。
 もし、この先。いつか来る関係の終わりが来ても、多分今度こそ自分は大丈夫だ。別れる事を選んだとして、吉田はそれを自分を傷つける目的でしたりはしない。
 そんな吉田だからこそ、自分はこんなにも好きになったのだから。


 週末の休日。一緒に食べるお菓子を途中で買って、吉田は佐藤の部屋に向かう。聞き耳を立てるでもなく、勝手に聴こえる女子達の会話を思い出すと、どうやら彼女たちはまだ佐藤の住所は知らないようだ。知りたい気持ちはもちろんあるだろうが、きっと佐藤がそうはさせないのだ。彼女達ははぐらかされていると、自覚する事すら無いのだろう。例えフィルターが掛って居る状態だとしても、恐ろしい程の手腕である。自分にもちょっと分けて欲しいと思うが、多分教えて貰った所で、所詮は無理な事なのだろう。
 午前中から部屋に上がり込み、だらだらと時間を過ごす。こんなにだらだらしていて良いのかな、と思う事もあったけど、他にお付き合いを知らない吉田は判断は出来ない。
 昼食の時間に差し掛かり、今日は焼きそば作るよ、と言って佐藤が立ちあがる。メニューを自分から言い出すとは、ちょっと珍しい。大抵、何食べたい?とそれまでのだらだらとした雰囲気を引きずる様に訊いてくるのだけど。
 辛い物を入れさせない為、という名目の下、佐藤の調理の手伝いをする。とは言え、料理の手際の良い佐藤に手伝う事なんてあまり無かったりするのだが。
 でも、料理をしている佐藤は格好良いから。
 焼きそばを炒めているその横顔を、吉田は不自然にならないよう、見つめた。


 母親からの躾で、きちんといただきます!と食前には声を上げる。それに乗じる様に、佐藤も。いただきますを言う時、ちょっと恥ずかしくて、でも何だか嬉しい。
 焼きそばには紅ショウガが欠かせないという吉田の為に、テーブルの上には紅ショウガの入った器がある。普段の食事では絶対使う事は無いので、吉田専用と言ってしまって良いだろう。
 パスタと違い、焼きそばなので、ずるずるっと吉田は勢いよく麺を啜る。麺を啜る、しかも音を立てて、という行為は、おそらく日本人しかしないだろうし、出来ないのだ。口の構造がどうこう、というより、幼い頃から言いつけられた事と反するのに心理的ブレーキがかかるようだ。施設に居た時「日本人ってホントに音立てて啜れるの?」と良く解らない好奇心の仲間の質問の下、実践してやったら何故かドン引かれたという、微妙な気持ちにさせる記憶があった。
「うん、美味いよ」
「それはどうも」
 口の端に少しソースを付けて、吉田が言う。佐藤は微笑でその讃辞を受け、その口の端に着いたソースに吉田がいつ気付くか、気付かないままだったらいつ舐め取ってやろうか、食事中だと言うのに、その頭の中は吉田の事ばかりだった。
 いや、そもそも、この焼きそばだって。
 二口目、三口目、と食べて行く吉田が、不意に「あれ?」と怪訝な面持になった。気付くかどうかは、半々だったが、どうやら気付いたらしい。
「なー、この焼きそば。味が学校のに似ている様な……?」
 そうだと思う反面、そんな馬鹿な、という気持ちも抱いている様な、複雑な吉田の表情。けれど、きょとんとしているようにも取れるその顔は、佐藤には可愛く思えた。
 嫌疑を抱えたもやもやとした気持ちのまま、食事なんてしたくないだろう。佐藤は、素直に正解を口に出してやる。
「へえー、やっぱり解った? あの焼きそばパン、美味しいって言われているだけあって、ソースに秘密があったみたい」
 そうなんだ、と、何せあの学校に通うようになって1年目、校内の事情には精通しているとは程遠い。最も、その条件は佐藤も同じはずなのに、どこからそんな情報を仕入れたのか。
 そこですぐに思い浮かぶのが、女性受けの良い佐藤の顔と佇まいである。購買を開いているのは、吉田の母親より少し上の世代らしきオバちゃんだった。言っては失礼だが、それでも女性である。佐藤が愛想よく接すれば、ころりと参ってしまうに違いない。
「吉田がそんなに美味しい美味しいっていうから、気になってさ。何か秘密でもあるんですかーって聞いてみたんだよ」
 やはり、直接尋ねたようだ。何時の間に、と思うと同時に、計算し尽くされた笑顔を浮かべたであろう佐藤に、吉田はさっきとは違った意味でもやもやしてきてしまった。しかも、この場合自分が原因のようで、そこもぐるぐると思ってしまう。
「で、やっぱり秘密があってさ。ソースがやっぱり違うんだって」
 そうだったんだ、と複雑になった胸中は一旦置いておいて、知らされる事実に感嘆する。市販のものとは違う様な気がしたのだ。
「どんな作り方してるんですか、って聞いたら、ソースをペットボトルで貰ってさ」
 この焼きそばは、そのソースで作った焼きそばなのだと言う。なるほど、それなら同じ味がしても不思議ではない。
「へ〜、凄い気にられちゃったんだな、佐藤」
 購買のオバちゃんに、と吉田。
 少し含む様な言い方をして見ると、にこっと良い笑みを浮かべた佐藤。
「何、ヤキモチ?」
「…………。ちがーうっ!!!」
 間が空いた〜と佐藤が指差して笑う。全く人の気も知らないで!と吉田は訳も解らず、怒りを覚えた。
「一応、レシピも貰ったんだ」
 佐藤が話の続きの様にそう言うと、、えっ、と吉田が驚いた様な声を発した。
「ソースって、作れるの?」
「……作れないと存在しないと思うけど」
 若干辛辣に突っ込んでみると、またも吉田は顔を赤くしてちがーうっと叫んだ。
「家で作れるのか、って言ってんだよ、俺は!!!」
 吉田がそういう意味を込めて言っていたと、解ってさっきの突っ込みを入れる佐藤であった。だって、慌てる吉田を見たかったから!
「ヘンな言い方だけど、スープ作るようなもんだよ」
 まあ、確かに「味のついた液体」で括ってしまうと、スープもソースも同じ部類に入るだろう。
 なるほどな〜、とまたも感嘆した様な声を出し、食事は再開された。あっという間に吉田は平らげ、これならもう少し余分に作っておけば良かったな、と佐藤は情報の上書きをした。学校での昼休み、一緒には食べているが、その量を推し量るには見極めが甘かった。
「なー、佐藤」
 腹に余裕のありそうな吉田に、佐藤は林檎を向いてやった。剥いて行く傍から、ちょいちょい吉田が摘んでいく。
「そのソースって、まだある? また作れそう?」
 わくわく、と期待と羨望を交えた視線を送る。学校で入手困難な物がここで味わえるのだと、吉田がそう思いを馳せているのを推測するのは容易い。
「まあね、結構あるよ」
 元は醤油の入っていたペットボトルで、大きさはこれくらい、と林檎を剥く手を休めて、佐藤が大きさを表現する。ちなみに醤油を表すパッケージは取ってあるので、取り間違えるという悲劇は起こらないだろう。
 佐藤の告げた量は、吉田の想像を上回ったらしく、やった!と喜色を浮かべていた。
「じゃあさ、また食べに来て良い?」
 そんな輝く顔で言われて断れる筈が……まあ、一度断って落胆した顔も見たいけど、さっきちょっと苛めた後だし、と佐藤は自重した。いいよ、と頷くと、吉田はまた嬉しそうに笑う。可愛い、と佐藤は胸中で呟いた。
「それでさ、」
 と、佐藤。
「ソースのレシピ、貰ったんだよな」
「ん? うん」
 さっきも聞いた、というニュアンスも込めて、吉田が頷く。
 だから、と佐藤は続けた。
「高校卒業しても、食べられるよ」
 俺の所に来たら、と佐藤は笑って言った。
 こんな事で、未来を繋ぎ止められるとは思っていない。関係性を持続させる効力があるなんて、露にも思って無い。
 けれど、吉田の為に頑張ったとそう言うと、自分の大事な大事な恋人は、途端に可愛らしく顔を真っ赤にしてくれるから。
 いつか別れが本当に来る時、その時まで、少しでも吉田のこんな顔を見たいのだと、佐藤はそう思うのだった。



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