「ねえねえ、とらちん! 次の日曜デートしようよ」
 そう山中に言われたのは、週の真ん中の水曜日。隙あらば自分の生活の中に食いこんでくるこの男を、甘受し始めたのはいつだったか。
 入学した当初は、お互いその存在すら認知していなかっただろう。むしろ、山中が謎の理由で(虎之介にとっては謎である)いきなり女子から嫌われなければ、きっと今だってクラスが同じだけの関係だ。
「あんまり金無ぇから、遠くには行けねーぞ」
 ぶっきらぼうにそう言うと、しかし山中はにこにこして言う。
「うん。とらちんとなら、どこだって良いよ」
「…………」
 一見、いかにも殊勝な台詞だが、山中には自分が金を出すという発想は無いらしい。
 それでも、山中の良い所は、どこでも良いという言葉が真実である事だ。その辺の公園でも、一緒に出掛けるととても嬉しそうにしている。
 そしてその様子を見ると、自分も嬉しくなると言う事は、そういう事なのだろう。
 にわかには信じられないが、それでも虎之介は自分の変化をきちんと受け入れていた。


 どこでも良くて、金のかからない場所を念頭に入れ、虎之介の決めた場所は市立の美術館だった。
「好きな画家の展覧会とか?」
 嫌な顔をされるとはあまり思って無かったが、行き先を言うと山中は興味深そうに目を輝かせた。案外、こういう所は嫌いでは無いのかもしれない。
 場所をここにしたのは、勿論上記の理由もあっての事だが、現在この美術館では市民からの写真を募り、それの入賞を果たした物が飾られている。そういった事情もあるので、今の期間は入場料は無料なのである。
 それに、母親の知り合いの父親の写真が飾られているそうで、暇があれば見に行ってやって欲しい、みたいな事を言われていたのだ。それを思い出し、虎之介はデートデートと喚く山中の問題と繋ぎ合わせた訳だ。
 展示されている写真は、全てこの街の景色を切り取ったものだ。元々、地元百景みたいな企画の中の事なので、当然なのだが。
 虎之介には見覚えのある立地があるが、山中にとってはどれもが初めての景色だろう。そこを無関心で居るか、興味深く取るかは本人次第である。山中は後者のようだった。壁にかけられた写真を見て、山中の「ふぅん」という小さな相槌の声は、退屈したそれとは思えなかった。
「同じ場所でも、撮り方次第で全然違うもんだね」
 展示室内は勿論大きな私語厳禁であるが、部屋を結ぶ通路となるとその認識も薄まる。並んで歩く虎之介に、山中が言う。
 美術館内に他にも来場者は居るが、どれもが自分の親かそれ以上の世代だ。その中で、高校生2人の虎之介達はとても目立つ。が、他の年代が落ち着いた年齢でる為、無闇に恐れられたり怪訝な目つきで見られないのは何よりだ。彼らにしてみれば、仲の良い男の子が2人、という構図なのだろう。
「俺も、写真とかやってみようかな〜」
 本気なのか、ただの冗談なのか、のんびりした声で山中が言う。
 どっにしろ感化し易いヤツだ、と虎之介は笑みを交えてその台詞を揶揄する。
「何を撮るんだよ」
「え、とらちんだよ。決まってんじゃん」
「…………」
 思いの外真面目、というか真っ直ぐに言われてしまい、虎之介は返事が出来なくなってしまった。
 あと、何やら暑い気が。さっきまでは何とも思わなかったのに。
 何やら途端に落ちつかなくなった虎之介に、山中が「あっれ〜?」と楽しそうに顔を覗き込む。
「とらちん、顔凄く赤いよ? 照れてる?」
「バッ……なに、っっ!!」
 自分は満足に言葉も言えないというのに、その目の間であははっ、と明るく笑う山中がいっそ憎らしい。
 場所が場所でなければ、いつもみたいに殴ってやる所だ。いや、バカだバカだと思いながらも、案外強かなこの男だ。虎之介が暴れられないと解って、ちょっかいを出して来たのかも。
「か〜わいいなぁ、とらちんってばホントに可愛い。怖いっていうヤツの気が知れないね」
 ここぞとばかりに可愛いを連発する山中。うるせぇよ、とせめて声だけでも凄んでみるが、何故だか山中は、吉田や井上たちとはまた違う意味でこういうのが効かない。
「なんで皆、とらちんを怖がるのかな。訳わかんない。
 ま、俺としてはその方が良い……ごぶっっっ!!!」
 こいつ、いい加減ぶん殴りたい、と思った時、山中がへしゃげた声を上げて前につんのめる。
 やったのは、勿論虎之介では無い。
「おっと、すまない。あまりに耳障りだったものだから」
 二酸化炭素をドライアイスに変えそうな凍えた声を発し、前に倒れた山中の背中を更にむぎゅっと踏んだのは虎之介も知る人物。
「よ、ヨシヨシ?」
 しかし虎之介は、その名前を呼ばず、その人物の後ろで口をパクパクしている自分の親友の名前を呼んだ。


「て事は、ヨシヨシも似た理由で来てたのか」
「うん。似たっていうか、全く同じだなー」
 俺の場合も母ちゃんのパート先に入賞者が居たから、と吉田が言う。
 市立で、しかもそんなに大きくもない美術館だから、喫茶店とかそんな気の利いたスペースは併設されていない。が、休憩場所として自販機と共にテーブルや椅子が置いてある空間は設けられている。その一角で4人が座っていた。
 あの後。
 虎之介達を見て驚いた吉田は、その後すたすたと近寄って山中の背中を有無を言わさず唐突に蹴り飛ばした佐藤にさらに驚き、驚き過ぎて声を出すのを忘れてしまった程であるが、どうにかこの場で相応しい音量で「コラ佐藤!!」と叱る事が出来た。
 佐藤は山中への仕打ちをちっとも悪びれてはいなかったが、吉田の叱責にとりあえず足だけは退けた。山中はすぐさま起き上がり、虎之介の後ろへと避難したのであった。
 友達に会ったというのに、それじゃ、とあっさり別れるのは両方とも、というか虎之介と吉田が由としなかったので、座れる場所があるのを思い出し、こうして移動して来た訳だ。
 会話しても差し支えないように、この休憩場所は奥まった場所にある。トイレに近く、職員が机に向かう職務室も近い。近くの壁にはこれからの展示予定のポスターや、ここではない美術館の宣伝ポスターも貼られていた。そこには、虎之介も知る有名画家の名前が大きく踊っている。
 虎之介にとって、山中がどうして佐藤をここまで恐れるのか、激しく謎である。謎ではあるが、怖がっているのは疑いようもない確かな事なので、さり気なく佐藤とは最も遠い位置になるよう座ってやった。それでも、自分に隠れるようにしている山中が少しうざい。手が置かれた肩がそこだけ重いし、緊張した山中のひと肌で熱い。
 いつも通りの吉田と違い、学校での姿とは全く違った様子を見せているのは、吉田の隣を陣取っている佐藤だ。何やら、酷く不機嫌なオーラを醸し出している。
 虎之介にとっての佐藤は、吉田の話題の中で聞く人物か、校内で時折女子の頭越しに見かける程度の関わりしかない。
 女子に囲まれている佐藤は、いかにも女性受けしそうなやかな笑みを浮かべているので、こういう表情は珍しい。けれども、吉田の話佐藤はそれとはまたちょっと違って、変な悪戯したり意地悪をすると虎之介に愚痴っている。
 実際自分が見た佐藤の印象と、吉田の話の中の佐藤がどうにも結びつかなかったが、目の前でこういう態度を取っているのを見てようやく頷けた。人には色んな顔があるものだ。常に優等生では居られないという事か。
 佐藤と山中がそれぞれに都合で口を開かないので、会話は専ら虎之介と吉田だ。時折、吉田が会話の中に入れようと佐藤に話題を振るが、その度卒ない返事だけでそこからの発展は無かった。
 吉田も終いには、佐藤を交えての会話を諦めたか、虎之介との会話に集中する。それまで、佐藤も入れるように取り上げる話を選んでいた吉田だが、もはや完全に虎之介との会話になっている。
 と、佐藤が立ちあがる。
 一瞬だけ、まさか帰るのか?という考えが過ぎったが、身体の向きは出入り口では無くて自販機の方に向いて居る。飲み物を買ってくるのだな、と虎之介は思った。実際、それは正しかった。
 が、それだけでもなかった。
「はい、吉田」
 戻って来た佐藤は、当然のように吉田にも買って来た飲み物――オレンジジュースを差し出す。
「え、あ、う、うん」
 ありがと、と戸惑いつつも、吉田はそれを受け取る。佐藤はペットボトルでは無く、コップで出される自販機のを買って来た。
 人のを見たから、という訳でもないが、自分も喉の渇きを感じたので飲み物を買いに行こうと立ちあがる。
「お前、何にする?」
「んー、アイスティー……あ、いやいや、自分で買う。買います」
 当然のように奢られようとする山中を、吉田が持ち前の目つきのキツさで睨む。山中はそれに怯えた素振りを見せて、そそくさと虎之介と連れ立って自販機の元へと向かった。
「あ〜……もう、超怖い……」
 残した2人は聞えない様に、山中が呟く。その声を聞き取った虎之介はきょとんとした。
「ヨシヨシってそんな怖いか?」
 そりゃ確かに、吉田はあれでいて拳が重いし、無礼な態度には厳しいが、そんな畏怖の対象でも無いと思う。山中はいっそ青いとも呼べる顔色のまま、首では無くて手をぱたぱたと横に振る。
「いやー吉田じゃなくて、……、…………」
 そこまで言って、山中は声を止めた。虎之介からして見れば、見えない手で口を塞がれたかのようだ。
 山中は、見えないどこかを凝視している。むしろ、何かを見ない様にとしている感じだ。
「おい、山中?」
「いっ……っっ、と、とらちん! 何飲みたい? 俺奢るし!!」
「……はぁぁ??」
 山中が奢る事自体珍しいが、それ以上に唐突なタイミングの方が気になる。
「コーヒーで良い?いいよね!」
 自分を窺おうとする虎之介の質問を避けるように、山中が勝手に2人分のコーヒーを買い、席に戻る。
 何なんだ、と疑問しきりな虎之介だが、言いたくない事を無理に言わせる事もないだろう。そうして、さも大人の意見で自分を納得さえたような虎之介だが、実際は山中がコーヒーを奢ってくれたのが嬉しくて、少し舞いあがっていたのだ。


 何故こんな事に!と思い悩むのは山中である。美術館を後にしても、どうしてか吉田達とまだ一緒に行動している。
 さっき行ったのが静かな場所で、ゲームセンターを選んだのはその反動のように思えるが、実はここには軽食を取りに来たのだ。チーズやバジル味やら、一風変わった唐揚げを出す店があるのだ。吉田はトマト味のを頼んでいた。
「……なー、とらちん」
 今は先ほどとは違い、佐藤と吉田が話しこんでいる風だ。この隙にとばかりに、山中は虎之介へと話しかける。
「そろそろ2人きりになろうよー。折角のデートなんだし」
 山中がそう言うと、虎之介はデート言うな、と赤くなる。
 可愛い。独り占めしたい。
 あのでこの状況は全く歓迎できない。
「それにほら、向こうの邪魔したら悪いし……」
「? 邪魔?」
「い、いやその、」
 思わず出てしまった真実に肉迫する単語を、山中は慌てて誤魔化した。
 佐藤と吉田が自分たちの関係をどう扱おうとしているのか、山中は知らない。むしろどうでも良いとすら言える。
 しかし、佐藤に無断で勝手に事実を言おうものなら殺される。多分、確実に殺される。
 あぶねー!と人知れず命がけの山中であった。
 ていうか、と山中はそっと佐藤達を窺う。自分以上に、2人きりになれない現状に腹を立てているのは他ならない佐藤であると、山中は思って止まない。ここはすぐに別れた方がお互いの為(特に自分の為)なのだろうが、生憎お互いとも好きな相手がそうしようとしないので手を拱いているのである。
 あんなに恐ろしい佐藤も、吉田の言う事には逆らえないとは、可愛いものがある……と思った途端、山中の後ろの首筋が剃刀の刃でも当てられたかのように、ひやっとなった。なので山中はすぐに前言を撤回する。可愛いなんて、とんでもない!!
 とりあえず、佐藤達は意識から出すとして、山中は拗ねた色を滲ませて虎之介に言う。
「……俺は、とらちんと2人が良いのに。とらちんはそうじゃないのー?」
 虎之介の事はずっとずっと独り占めしたいのだ。
 こんな子供じみたヤキモチ、今まで感じた事は無かった。どうして良いか解らないから、そのまま出している。
「………」
 むぐむぐ、と虎之介はカレー味の唐揚げを食べながら、愚痴とも独り言ともつかない山中の台詞を聞く。
 ごくん、と口の中を飲み干した後、虎之介は少し言いにくそうに言う。
「……だって、ヨシヨシと遊ぶの久しぶりだしよ」
「えー?」
「……最近、ずっとお前とばっかだったし……」
 次なる唐揚げをつまようじに刺し、しかしそう言った虎之介は中々それを口の中に入れようとしない。黙り込み、時間の経過と共に顔はどんどん赤くなっている。
 虎之介の台詞の意味を考えると、つまり。
 今となっては、吉田と会う方が珍しくなる程、自分と一緒に居るのだと言う事で。
 山中は、プライベートでは虎之介しか付き合ってくれる相手が居ないので、そういう感覚はほぼ皆無だった訳だが。
「……………。とらちんッ!!!」
 思わず感極まった山中は、場所も構わず虎之介に抱きついた。
 けれども、今度の場所は閑静な美術館では無く、数々の音が飛び交うゲームセンター内。
 不埒な男を殴り飛ばして問題無し、と判断した虎之介の拳が、山中の頂点に直撃したのはそれからすぐの事だった。



<END>