イギリスに居た頃、日本の空が思い出せなかった。
 いつも俯いていたからか、記憶に在るのは土やアスファルトの地面だけ。

 蹲ってそれだけを見て耐えていると、まるで太陽みたいな強烈な熱を持つ声が自分を呼ぶのだ。


「おっ、飛行機雲!」
 しかもまだ伸びてるー!と吉田ははしゃいで空を見上げる。つられて見ると、吉田の言う通り、青い空に一本、白い線が現在も尚伸びている。誰かが白いペンで真っすぐに書いているのを、裏から見ている様な気分だ。
 空には雲1つない快晴である。とはいえ、つい10分ほど前までは土砂降りだったのだ。この手の集中豪雨、慣れたとは言いたくは無いが、ああまたか、くらいの認識にはなりつつある。
 暴力の様な雨を引き攣れた黒く重たい雲は移動し、それまで隠されていた青空が、吉田達の頭上に広がっている。
「ずーっとこういう天気なら良いのになー」
 さっきまでの大雨を思い出したか、吉田が呟く。吉田の手にして居る傘は、雨水を存分に含んでいて、今もなお道路に新たな水たまりを作っている。
「雨が降らなかったら、水不足になるぞ」
「〜〜〜、そういうのじゃなくて!」
 気分の問題!と水を差す佐藤にぷりぷりと怒ってみせる。
 と、突然、うおっ、と吉田が声を上げる。何かと思えば、目の前には大きな水たまりが広がっていた。道の大半を占めて仕舞っているそれ。小さい池と言いたいくらいだ。
 うむむ、と吉田は少し考える様な顔をして、ぐっと膝を曲げる。そして、えいやっと飛び跳ねるようにそれを乗り越えた。
 若干すれすれだったが、吉田は水たまりに足を突っ込む事無く乗り越える事が出来た。満足する吉田の横で、佐藤がその長い脚で楽々と水たまりを跨ぐ。それに気付き、吉田の眉間にぐっと皺が出来た。それを可笑しそうに眺める佐藤。
「もっと大きい水たまりあったら、俺が担いでやろうか?」
「いらねーよ!」
 ふんっ、と鼻を鳴らすと、わざと大股で歩き出す。
 かと言って、速くもならない歩みに、佐藤は悠然と追いついた。


 う〜ん、止まないなぁ、と吉田は窓の外の景色を見て、溜息を付く。吉田が来た時は、傘も要らない様な雨量ではあったが、今は傘が無ければ出歩けない量となってしまった。止む雨ではなく、降る雨であったようだ。
「デパート行くのどうする?」
 項垂れる様な吉田に、佐藤が尋ねる。この日の予定としては、駅に付随する大きなデパートの書店に、吉田の読んでいる漫画の原画展がやっているらしく、それを見に行く筈ではあった。
 んー、と吉田は少し視線を彷徨わせ、そして言う。
「まあ、いいや。雨の中歩きたくないし」
 行ったついでに見たいと思っただけで、それを目当てにわざわざ出掛けたくはないという吉田。
 そう言うだろうという予想は佐藤にあった。外出の予定が消えたので、佐藤は新しいコーヒーを淹れるべく立ちあがる。
 日本は春夏秋冬の四季ではあるが、そこに梅雨を独立させて五季であるとも言われている。その梅雨が本格的に始まったらしい。この前の晴天は、にわか雨の後とは言え、梅雨の中休みというやつだったのだろうか。
 夏を目前に控えたこの時期は、けれど雨が降るとやはり気温も下がって来る。分厚い雨雲は太陽の熱を遮断してしまい、冷たい雨がそれに拍車をかける。アイスコーヒーはまだ早い。ホットコーヒーをカップに淹れて持って行く。吉田のは牛乳を淹れて。
 テーブルに戻り、隣に坐った佐藤は「早く晴れないかな」という吉田の声を間近で聞く。
 雨が降ると存分に外出出来ない。傘をさせば良いとか、そういう問題ではなくて。
 佐藤は引きこもってもストレスを感じないので、吉田程晴天に対しての渇望は薄いと思う。むしろ、佐藤としては青空が拝めない事より、吉田に会えなくなる方が余程重大な問題である。これこそストレスで倒れそうだ。
 ふと横を見れば、吉田は机に凭れるようにして肘をついている。会話が無いのに、苦にならないこの空間が佐藤は好きだ。
 吉田のこのくせ毛は天然のようで、やはり湿気の多い雨の日等は撥ね具合が変わる様だ。と、いうか本人がそう言っていた。
 それを今思い出した佐藤は、赴くままに吉田の髪に手を伸ばす。吉田の髪はしっかり存在を主張しているようで、本人の質に良く合っている。
 佐藤の知るかつての吉田は、スポーツ刈りでとても短かった。髪を長くした吉田なんて、見た事無いし想像も出来なかった。だから高校の時、すぐには気付けなかったのだと思う。思いこみとは、恐ろしいものだ。こんなにも近くに居るのに。
 髪を撫でられた感触に、吉田が顔を上げる。何?とでも問いかけたい様な顔をして居た。
 真っすぐに自分を見る視線が嬉しくて、佐藤はそっと背を丸め、その唇に軽いキスを落とした。途端、吉田の身体が慄く。
 吉田はそこからの深い口付けを覚悟していたのか、首を竦めていた。けれど、佐藤がすっと離れるとゆるゆると身体を元の姿勢に戻す。
 こんな時の吉田の表情は、安堵と期待が綯い交ぜになって、とても複雑だ。普段の単純で解り易い性格からは全く無縁の吉田で、自分がそうさせていると思うと、佐藤の中に熱いものが込み上げる。
「外、行かなくなったから、時間あるよな?」
 吉田の顔を覗きこみ、言う。
 以前だったら、これだけでは通じなかっただろう。けれど、今は。
 息を飲むように口を引き締めた後、顔が徐々にだが確実に赤くなっていく。終いには、首まで。
 それから、何かを言いたげに、口をはくはくと動かした。全く声になっていないのに、不思議とその台詞は佐藤の耳に届く。
 狭いソファも、固い床も吉田は好まない。
 ベッドに行こうと手を引く。吉田はこれからの事に戸惑うよりも、自分の言いたい事が通じた方に少しだけ表情を綻ばせている。
 それがあまりに可愛くて、佐藤は堪らず抱き上げた。
 自分で歩ける、と吉田がじたばたするが、そんな抵抗では佐藤の妨げにもならない。
 吉田が可愛いのが悪い、と理不尽に言い包め、佐藤は寝室まで吉田を抱き上げたまま進んだ。
 結局降ろされた所はベッドの上で、まずは腰掛けるような体勢で、吉田は2度目のキスを受け入れた。


 触れ合う合間合間に、さとう、と吉田が声を上げる。
 かつて、自分をいじめる連中を追い払った時とは、全く似ても似つかない様な、微かで掠れた声だ。
 それでも、自分を熱くさせるのは変わらない。



<END>