少し俯いただけで、瞼にかかる前髪を、佐藤は鬱陶しそうに耳に掛る様、かき上げる。
「そろそろ、髪を切らないとな」
 それは全くの独り事だったが、すぐ隣には吉田が居たので、必然的に本人以外の知る内容となる。
 学校の帰り、課題が出たからと吉田を自分の部屋に誘いこんだ。今日出た課題は世界史の授業からで、教科書の内容をノートにまとめておくという、吉田の最も足りないであろう英語力は必要ない。むしろ、話し合いながらノートに書き写していけれるから、その点は吉田も気楽であった。
 佐藤の言葉を受けて、まじまじと頭部を見てみると、確かに出会った当初よりは長い様な印象を受ける。毎日一緒に居るから、意識しないと解らない事だ。
「面倒くさいな……」
 と、佐藤は本当に面倒事のように呟いた。
「近くに床屋無いの?」
 思わず自分を基準にして床屋と言ってしまったが、佐藤なら美容院だろうか。言った後にふと思った。
 吉田が聞くと、そうじゃなくて、と佐藤は軽く否定する。
「散髪に行くと、あれこれ勧めて来るんだよ。俺は切ってくれればそれで良いのに」
 過去の経験の為か、佐藤は心底うんざりして言った。その顔は、山中を毛嫌いする時の顔とよく似ている。
 なるほど、と吉田は納得するも、佐藤と店側の両方に同情してしまう。余計な事を勧められる佐藤は言わずもがなだが、店側にとっても、最高の素材が訪れた様なものだ。そこでカラーも何もさせず、ただカットしてくれというのはある意味欲求不満なのかもしれない。
 軽く茶色に色付けてみたり、ワックスで盛ってみたりと、でもそんな今風の髪型は佐藤には似合わない気もする吉田だ。
 まあ、でも佐藤ならばきっとどんな髪型でも似合うのだろうし、女子がキャーキャー言うに違いない。アフロヘアになったとしても、女子は黄色い声をあげるだろう。
 自分の想像ながら、アフロヘアの佐藤を想像し、口に手を当てて笑みを押し殺す吉田であった。
 それをすぐ横で見ていた佐藤は、何やら吉田が自分にとって面白くない事で笑っているのが何となく解ったが、突っ込まずに置いた。それよりも、良い手を思いついたからである。
「ねえ、吉田」
「ん? 何?」
 笑いのツボに嵌った状態から無事に抜け出せた吉田が、佐藤と向き直る。
 佐藤は、わざとらしいくらい、綺麗な微笑みを浮かべて、吉田に強請る。
「俺の髪、切ってくれない?」
「へ?……へ、えぇぇえええええ!!?」
「ハサミならあるから」
 用意しようと、立ちあがろうとする佐藤を、吉田は思わず掴んで引き止めた。
「ま、待った待った!! 俺、散髪なんてした事無いよ!!」
「平気だよ。ちょっと短くするだけだし」
 焦る吉田を安心させるように、佐藤はにっこり言う。けれど、勿論吉田がそれでOKする筈もない。すぐさま、ブンブン!と首を横に振った。
「無理!無理無理無理無理無理!!!」
 これまでの人生で、これほど無理、を連発した事があるだろうか、と言う程、吉田は連呼した。必死に焦る様子が、佐藤には何とも愛らしく見える。
 最近佐藤が散髪をしたのは、帰国して高校に入る前のその時だ。店に入った途端、店員、客問わずの女性の目が自分に集中し、そこからもう居心地が悪かったのに、ただ短くしてくれという佐藤の注文は何故か耳に入っていないようで、水面下の戦いの後、佐藤の担当に決まった美容師(女性)は雑誌を持って来てあれこれとこれが似合うだの何だのと勧めて来る。
 帰国してからは、ジャックからのアドバイスを聞きいれて笑みを絶やさないでいた佐藤だったが、30分も経った頃には堪忍袋の緒も切れて来て、猛獣もそのひと睨みで腹を見せる視線を投げつけながら「短く」と再度注文し、ようやく佐藤の望みは果たされた。あの店には出来ればもう、行きたくない所だ。施設で培った能力がバレたという以上に、余計な押し問答はしたくない。
 けれど、おそらくあの店以外に行ったとしても、結局は似た様な目に遭うのだろう。せめて、男性の多い美容室か床屋でも探すべきだろうか、と佐藤は考える。前髪くらいなら自分で切れるが、さすがに後ろはそうもいかない。
 今からうんざりするが、こうして吉田をからかって貯めた癒しでどうにか乗り切れるだろうか。美容院に行った時は、今のこの慌てっぷりが楽しい吉田を思い出せばやり過ごせる。
 自分にとって、散髪の煩わしさは子供の敗者と似ているかな、と佐藤は思う。しかし、虫歯は予防出来ても、散髪はそうはいかない。自分で頃合いを決めて行かなければならないが、それまで伸ばしっぱなしだった佐藤は切りに行くタイミングも中々掴めないでいた。おかげで、前髪を鬱陶しく感じているのだが。
 別に、ちょっとヘンな髪型になっても怒らないのに、と最後に言って、佐藤は無理ばかりを言い続ける吉田を落ち着かせた。激しくうろたえた為か、そのせいで吉田の顔は赤い。
 散々、自分には出来ないと言い続けてきたおかげで、喉がからからである。吉田は、アイスティーをずずーっと全部飲みあげた。
 佐藤は見た目も頭脳も、明らかに優等生なのに、吉田にはこうして無理難題を投げつけて、困らすのだ。最も、最近は牧村や秋本もその餌食となっているが。
 佐藤の髪を切るなんて、とんでもない。下手に切ったら女子全員を敵に回すし、上手く切れても妬まれるだろう。将来美容師希望の女子達が、佐藤のヘアアレンジを虎視眈々とその機会を窺っているのを、吉田は知っている。まあ、吉田も知っているくらいなのだから、勿論佐藤も知っているのだが、そこは吉田は知らないでいる。
「んー、だったらさ、佐藤。もういっそ伸ばしてみたら?」
 佐藤としては、もはや半分以上がただのポーズだったが、吉田は佐藤が本当に散髪を嫌だと感じていると思ったのか、そんな提案をして来た。
「……髪伸ばしたら、変じゃない?」
 かつては首を隠し、肩に伸びるまで伸ばしていた自分を、遠回しに吉田に採点させてみる。吉田に変と言われてその過去を無かった事には出来ないが、いざ言われた時の為の心構えは出来る。
 佐藤に言われたからか、自分の考えを検討する為か、吉田がまじまじと佐藤を見つめる。そんなに見つめられると、キスしたくなるんだけどな、と胸中で佐藤はぽつり、と呟いた。今、吉田は割と真剣に想像を膨らませているようなので、邪魔をすればほぼ100%怒るだろう。
 と、佐藤の目の前の吉田が、微かに眉を潜める。吉田にとって、長髪の自分はナシか、と佐藤が少々傷心になるが、それは早とちりだ。
「……ダメだ。何か想像できねー」
 むぅ、と英語の和訳に取り組む時に似た表情で吉田は悩む。そんなに難解だっただろうか、と佐藤は思ったが、確かに自分も長髪の吉田のイメージがあまり湧かない。きっと可愛いだろう、という印象しかいだけなくて、明確な映像としては脳裏に浮かんでは来なかった。
 何より、そう。目の前に居るこの吉田が、でんと頭の大部分を占めて仕舞っているから。
 吉田もだが、佐藤も”今”で手いっぱいなので、もしもの時まで考える余裕というか、余地は無い。
「でも、佐藤の髪って伸ばしても真っすぐな感じだな。
 俺の、長くしたら跳ねちゃってんもん」
 ちょい、と目前の前髪をひと房掴み、吉田が言う。
 小学の頃は空手をしていたので、基本スポーツ刈り以外はNGである。吉田の通っていた道場には厳しい規律は無かったのだが、競技中に前髪が顔に掛るのは勿論避けたい事である。必然的に、短く刈り込んだ髪型ばかりしていた。
 ここまで伸ばしたのは、中学に入ってからだ。伸ばした理由としては、佐藤と違って単純に切るのが面倒なのと、今まで挑戦出来なかった髪型の冒険をする為である。そうして伸ばして、そこで初めて自分の髪が跳ね上がる性質だと気付けたのだった。
 強いて言うなら、内側にはねなくて良かった。もしそうだったら、いよいよ母親と生き写しである。
「もっと伸ばしたら、落ち着くかもよ?」
 口の端にそっと笑みを乗せながら、佐藤が優しく吉田の髪を梳き始める。佐藤に髪を撫でられると、妙にこそばゆい。他の人ならそうでもないのに、佐藤だけは触れられている感触がやけに目立つ。
 もっとって?と吉田が聞くと、佐藤は結べるくらい、と答えた。
「それは逆に面倒くさそうだな〜」
 髪を結ぶ時間があったら寝たい、とでも言いたげな吉田だった。
 と、その時、髪を弄っていた佐藤の手が、するりと首の後ろに回る。普段は触られない箇所を撫でられ「うひゃぁっ!?」と裏返った声が吉田から飛び出る。その声を仕舞い込むかのように、吉田は慌てて口を押さえた。
 相変わらず良い反応をする、と気を良くした佐藤は、そのまま床に雪崩れ込んだ。あわわわ、と押し倒された吉田が、口をパクパクさせながら顔をこれ以上ない程真っ赤に染める。
 ちゅっと開始の合図のように、まずは軽く唇に。とたんにぎゅう、と閉じられてしまった双眸は惜しいけど、そんな顔も可愛いので良しとする。
 顔中にキスの雨を降らしながら、手はそっとボタンをはずしていく。キスの方に意識の大半を奪われている吉田は、衣服がはだけているのにまだ気付いていないようだ。解った時の反応が見物だな、と佐藤はそっと目を細める。
 佐藤は顔の位置をずらし、脈が感じられる首へと唇を移した。そっと唇を当てると、トクトクと早い血流の鼓動を感じる。吸血鬼にでもなった気分、と可笑しく佐藤が思っていると、吉田が何やら、もう辛抱堪らん、といった具合にばたばたと暴れ始めた。
 こういう触れ合い方は初めてでは無いので、佐藤は吉田が抵抗するボーダーライン的なものをちゃんと解っている。吉田以上に。
 まだ、そこまで暴れられるほどの事はしてないんだけどな、と訝しんで顔を上げると、そこには何とも困った顔をした吉田が居た。
「……佐藤、早く髪切れよ」
 真っ赤な顔をして、何故そんな会話がここで蒸し返されるのか。え?ときょとんとする佐藤に、吉田は怒るように叫んだ。
「前髪! くすぐったくて、もう堪んない!!」
 言われて、ようやく佐藤もああ、と納得出来た。佐藤が頭を移動させた時、吉田の肌の上を前髪が掠めて行っていたのだ。
 テスト週間とテスト期間を経て、今日は久しぶりの佐藤家訪問だった。その間伸びた長さは、以前はぎりぎり触れなかった所に届く程になっていたのだろう。
 佐藤は、自分の髪を摘む。実際筆の材料になるだけあり、その手触りはまさに筆の様。そんなものが肌の上を滑ったりしたら、確かに堪らないだろうな、と佐藤も思った。
「うん、解った。なるべく早い所切るよ」
 素直に応じた佐藤に、吉田もほっと胸を撫で下ろす。さわさわと佐藤の細く柔らかい髪の感触は、変な声が出そうでとても困ったのだ。背筋がぞぞぞっと泡立つし。
 とんだ弊害があったもんだ、と嘆息する吉田に、再びその感触が襲う。全くの不意打ちで、吉田から今まで聞いた事のないようなけったいな声が発せられた。
「なっ、なっ、なん、なんっ……!!」
「あはは、面白いな」
 喉が引き攣って上手く喋れない吉田に、佐藤は顔を上げて呑気に笑う。面白くな――――い!と反射の様に吉田は否定し、そして言う。
「止めないの!?」
「どうして?」
「だって、髪……!」
「ああ。それはそれ、これはこれ、ってやつで」
 俺は髪に切りに行くとは言ったけど、それまではしないとか、ここで手を止めるとは一言も言って無い、と佐藤。
「いや、だって、でも、ホント、俺、ダメ……!!」
 吉田の焦りは、短く区切られる台詞が物語っている。
 すでに目には水の膜が張られつつある吉田を眺め、佐藤は今日は楽しくなりそうだ、と今からも満足そうであった。


 で。
 一通りの事を済ませた後、佐藤が「やっぱり切るの止めようかな〜」なて言うものだから、吉田もそこは怒りに怒って、落ち着いた顔色をまた真っ赤にして。
 以来佐藤は、吉田が切れ、と文句を言ってから切るようにしている。
 相変わらず店員の問題は無くならないが、切りに行く明確な時期だけは定まった佐藤だった。



<END>