初めの頃は、佐藤に半ば脅されるまで部屋に行こうとしなかった吉田だが、最近は吉田の方から「寄って良い?」という言葉も訊く様になった。最も、その後「宿題の為」みたいな言い訳がつくのだが。
 それに、はいはい、と受け流すように返事をし、今日吉田に振舞う飲料やお菓子を早速脳内で組み立てる。吉田の好きなショートブレットがあるし、今日は紅茶にしよう。出すものが決まれば、手順を脳内トレーニングだ。手際良く、最短の時間で用意して、吉田との時間を1秒でも多くしたい。
 お邪魔します、と誰も居ない家に対して挨拶をする吉田が可愛い。自分の靴は収納し、吉田の小さい靴だけが玄関にちょこんと置かれる。それに小さく笑みを浮かべながら、佐藤はすっかり慣れた足取りで部屋に向かう吉田の後についた。


 佐藤の部屋には、いつも何も掛っていないハンガーが1つ、それでも壁に掛っている。それは何故かと言えば、勿論こうして吉田が訪れる時、上着のある時にはそれをかけて貰う為だ。床に置いたのでは、皺になるし。
 ここは自分の部屋なので、佐藤は私服に着替える。制服が嫌な訳ではないが、部屋で寛ぐにはあまり相応しい生地をしてない。
 着替える時、吉田が意図してあらぬ方向にそっぽ向いているのを、佐藤は早い段階で気付いている。着替えくらいでそんな反応されては、先が思いやられる半面、楽しみでもある。
 お茶を淹れて来る、とだけ一言残し、佐藤はキッチンへと向かった。残された吉田は、適度に寛いでいる事だろう。本棚の本の並びくらいは、もはや把握していそうだ。それくらい、頻繁に吉田はあの部屋に訪れている。
 吉田は知らないだろう。あの部屋に入っているのは、主である佐藤以外では吉田だけなのだ。姉だって入れない。強いて言えば、家具を運んだ引っ越し業者くらいだ。足を踏み入れたのは。
 けれど、特にそれを教えようとは思わない。吉田は多分、自分と姉の間が、その辺にいる姉弟と遜色変わりないものだと思っている。
 家族の愛に恵まれなかった自分。せめて吉田の誤った認識の中でだけでも、普通の家庭の一員で居たいのだ。


 佐藤がキッチンへ行くのを見届けて、吉田はふぅ、と息を吐いた。佐藤の着替えシーンは、何故か見慣れない。体育の時はまだ他の生徒も居るからか、気が紛れるのだが、ここではどうやっても、佐藤しか意識の先が居ない。
 じろじろ見るのも変だし、かと言って後ろを向いてしまっても可笑しいし、と吉田は吉田で、それなりに悩んでいた。例え、佐藤に呆気なく看破されていたといても。
 佐藤が来るまでの時間つぶしに、吉田は本棚から1冊の本を手にした。これは短編集の集まりで、こうして佐藤の部屋に遊びに来る度、1つ1つ読み潰している。
 佐藤の本棚で、読破済みの本が結構溜まった。ここに訪れたという見えない記しだ。さすがの佐藤も、自分が何を読んで、読んでいないかまでは知らないだろう。
 丁度、その短編の1つが読み終わるとほぼ同時に、紅茶を入れた佐藤が戻って来た。タイミングの良さに、吉田はちょっとした幸運みたいなものを感じる。
 一応、宿題の消化という形で訪れているものの、それはすっぽかされてそのまま佐藤とだらだら話していた。まあ、宿題は出ているが、英語では無いし、吉田1人でも何とかなる極簡単なものだ。ここで済ましていかなくても、何とかなるだろう。
 佐藤がこの部屋での逢引を大切に思うように、吉田もこの場所が最も佐藤と居て落ち着ける場所だ。学校と違って誰かが訪れる危険は無いし、何よりも佐藤の部屋だ。ここにいると、自分の知らない間の佐藤に、会えているような気がする。
 そこで吉田はふと思った。自分の部屋に佐藤を誘った時、ある意味では不純な動機で、しかも佐藤は見抜いていたけれどそれに乗って来たのだ。それはやっぱり、自分の部屋に来たかったからだろうか。今、自分の思う充実としたような気持ちを、佐藤も欲しているのだろうか。
 そうなると吉田は考えてしまう。社会人の姉と二人暮らし、という佐藤とは違い、吉田はパートには行っているものの、実質専業主婦である母親が居る。佐藤の姉は残業だの付き合いだのがあって、高校生の放課後の時間帯に帰る事はまず無いのだそうが、自分の方は帰ってきている方が大半だ。パート終わりに遊びに行く事もあるけれど、それが前日に解る事はあまり無い。当日になって、帰宅しているだろうに今からこっちに来い、と誘うのも気が引けるし。
 それに、母親が出掛けるにしても、出来れば何時頃帰って来るかという予測が無いと。
 でなければ、この前の二の舞だ。自分もだが、佐藤には特に申し訳ない展開だった。
 まあ、この先、佐藤を誘えるチャンスもあるかもしれないけど。
 胸中で呟くも、全く見通しの立たないそのチャンスは、まるで雲を掴む様で。


 そんな吉田を気の毒に思ったのか、タイミングの神様がちょっと情けを掛けたようである。
 とある日、晩御飯の時に母親が言う。
「明日の金曜、お母さん女子会だから、夕飯は自分で何とかしてね」
「えっ?へっ?……じょ、女子会??」
「何、言いたい事でもあるの?」
 女子と呼ばれるカテゴリの年代について悩んでいた吉田は、射抜くような母親の目でその思考を止めた。
「たまにはね、女同士で飲みたい時もあるの」
 そう言いながら、まさに日本酒の入ったグラスを傾ける母親である。
 もう少し詳細を聞けば、パート仲間で退職者が出るので、そのお別れ会というのが本当の名目の様だ。
「まあ、でも、9時には帰るけどね」
 付け加えて言う。何だかんだで皆主婦なのだ。2次会などしていないで、あくる日の用意もしなければならない。パートは休みでも、家事は休みにはならないのだし。
 その土曜日も、父親は出張で居ない。だからこそ、母親も参加するかもしれないが。
 9時帰宅なら、夜更かしは出来ないか〜と少し詰まらなく思ったが、すぐに違う事に閃いた。
 外出の予定と、帰宅時間が解った。
 これぞ佐藤を誘う絶好のチャンスである。


 残る問題と言えば、佐藤側の予定であったが、これもすんなり話が通った。佐藤が頷いた時、吉田がどれだけ嬉しそうな顔をしたかは、佐藤だけが知る所である。
 したい事が決まった訳じゃないけど、と真っ赤になって付け加える吉田に、佐藤はどれだけここで押し倒してしまいたいと思った事か。
「飲み会は6時からだけど、5時には家を出るから」
 怪しまれない程度に聞き出した、より詳しい母親の動向である。出来る事なら、もう少し早く出掛けて貰いたいのだが。
 解った、と佐藤が頷くと優しさの色濃く出た微笑みを浮かべる。自然には笑えないとか言いながら、佐藤はこんなに綺麗に微笑むのだ。何かズルイ、とその笑みに翻弄されてしまう吉田が呟いた。


 そして金曜日。まずは母親が出る5時までの時間潰しだ。本屋に行ったり、ゲームセンターに寄ったりして、ある意味普段通りに過ごす。
 家の前まで行った時、佐藤をちょっと待たせて、吉田が先に家の様子を覗きこみに行った。自分の家だというのに難儀な事だなぁ〜と、何だか必死そうに隠れている吉田を見て、佐藤はぼんやり思う。
 どうやら、母親は予定通りに出掛けたみたいだ。こっち来いよ!と吉田がジェスチャーで招く。
 そして佐藤もようやっと、初めてではない家の門を潜った。


 しかし、通されたのはリビングだった。早速、佐藤は不満そうになる。
「吉田の部屋じゃないの?」
「え? ……いや、俺の部屋、狭いし」
 あの時は別の目的があったから、思わず通してしまったのだが、吉田の部屋は週刊誌なので程良く散らかっている。何より口に出した通り、佐藤の部屋の様に広くもないのだ。寛ぐには少し窮屈かもしれない。
 けれども、佐藤は吉田の部屋で、と食い下がった。そこまで言うなら、と吉田も最終的に承諾した。やはり、部屋の方が良いらしい。その気持ちは、吉田にも何となく解る。
 狭いよー、とか面白いもんないぞー、とせめてもの抵抗として言い続け、吉田は佐藤を自分の部屋に入れる。
 吉田の部屋は散らかってはいるが、ゴミはちゃんと捨てているので不潔さは無い。
 鞄を置いた佐藤を見て、吉田は「あっ」と声を上げ、そのまま佐藤に待っているように告げて一旦部屋を出た。すぐさま戻って来ると、その手にはハンガー。
 自分の上着は椅子の背もたれに引っかけ、佐藤にはハンガーを渡した。そして、ジャンパー等を掛けてある所に赴き、何個かを詰めて佐藤のが掛けられるスペースを作った。前日にしておけば良かったなぁ、と佐藤の手際良さとは程遠い自分を省みた。
 佐藤が腰を降ろしたのを見て、お茶を入れて来る、と部屋を出る吉田。読みたい本があったら適当に読んでいて、と最後にひと声残し。
 吉田を見送った佐藤は、改めて吉田の部屋をじっくり見渡した。吉田の体格に見合った狭い部屋だ。物が雑多に置かれているから、余計にその印象が強まるのだろう。
 けれど、居心地悪いとは思わない。このごちゃごちゃっぷりが吉田の普段の暮らしぶりを佐藤に教えてくれる。吉田の性格が、この部屋全体に沁みついているのだ。包まれているようで、佐藤はほっこり和む。
 吉田に言われたからでもないが、佐藤の視線は本棚に移った。本読みの業みたいなものだ。
 本棚に並ぶ本は、漫画が大半だが、佐藤も読めるものがちらほらと見つかる。最初から完全一致が解るよりも、こうして探して見つける楽しみがあった方が毎日発見の連続で、却っていつも新鮮な気持ちで吉田を好きになる。
 本を取ろうかとした佐藤だが、傍らのベッドの存在の方が気になった。前に訪れた時は、ここに吉田を背後から伸し掛かり、自分は吉田のものだと告げたのである。普段みたいに照れかくして否定しないで、ただただ真っ赤になってその言葉を受け入れた吉田は、本当に可愛くて、本当に愛しかった。自分を全て上げても、足りないくらいに。
 吉田が上半身を押さえられたベッドに、佐藤も上半身を預けてみた。今日の朝、吉田はここで横になっていたのだ。
 自分の部屋のベッドとは、明らかに違う香りがする。トクトク、と心音が落ち着くのが実感できた。きっと今感じているのが、吉田の香り。体臭だとか物理的なものより、存在自体から漂う様な、そんな香りだ。
 遠巻きに吉田を見つけた時、気配を探したというより、この香りに引き寄せられているような気がする。
 安心する。凄く。
 ごそり、とベッドの上で腕を組み、そこに頭を預けた。目を閉じ、視界を塞いで嗅覚をより鋭くさせる。
 おかげで時間の感覚も薄れてしまい、吉田が戻る時間が予測できなかった。
「おまたせ〜……うわっ、佐藤何やってんの!?」
 ベッドに身を預けた佐藤を見て、吉田が驚きの声を上げる。その声で、佐藤もぱちっと目を開いた。
「え、もしかして、体調悪かった?」
 誘った側だからか、吉田はいつになく恐縮していた。まさか匂いを嗅いでいた、とはちょっと恥ずかしくて言えなくて、別に何でも無い、と誤魔化しておいた。いくらお人好しの吉田でも、これで騙されるとは思えないのが、他に上手い言い方もなくて。
 佐藤が本当の事を言っていない、と吉田も思ったのだろう。淹れて来たお茶とお菓子をテーブルに置いて。じっと佐藤を見やる。
 肌の色から体調に問題無しと判断したのか、佐藤の隠し事を自分が暴ける筈がないと諦めたのか、この件についてはこれ以上発展する事は無かった。
 坐った吉田に、佐藤は早速と近づく。吉田の部屋でイチャイチャする。佐藤の壮大な夢の1つが今、まさに叶おうとしているのだ。
 逸る気持ちを抑えながら、佐藤は吉田に触れ合える程接近した。吉田は、急須からお茶を注いでいて、それには気付いていないらしい。
「吉田、」
 囁かる音量で呼ばれ、そこで吉田は身近の佐藤に気付いた。はっとしてこちらを振り向く吉田の頭を、その後頭部を佐藤は掌で支えるように固定する。
 そしてようやっと触れ合おうとしたのだが、吉田から猛烈に「ダメ――――!」という拒絶を貰ってしまった。何故、と佐藤の眉間に皺が寄る。
「お母さん、帰って来ないんだろ?」
 佐藤がそう言うと、吉田はそうじゃないとばかりに首を振って見せた。
「お茶!」
「……は?」
「お茶っぱ、良いヤツだから!」
 だから、淹れたての熱いうちに飲んでくれ、との事らしい。まあ、冷茶ならともかく、単に冷めただけの冷たいお茶は。良い物とはいえないが。
 想像もしていなかった吉田の言い分に、思わず佐藤は目をぱちくりさせる。真っ赤で、睨むような顔だが、照れ隠しでは無くて真実を述べているように感じた。
 部屋に招くに当たり、吉田は吉田で、懸命にもてなそうとしているのだろう。その現れとして、上質の茶葉、という事か。
 傍らのテーブルの上から漂う煎茶の香りは、確かに品が良くて質の高そうなものである。それが解り、ふっと笑みを浮かべた佐藤に、吉田も肩を落とす。
 佐藤がキスをしたがっているのは解っている事だし、そういう事も含めて部屋に誘ったのだ。
 でも、一生懸命真面目に淹れたお茶もちゃんと飲んで貰いたくて。ポットでは無く、ヤカンで沸かしたお湯なのだ。その方が美味しいと、本に載っていたから。
 お茶受けには、甘い物がそんなに好きではない佐藤の為に、おかきを持って来た。その選択も、佐藤はちゃんと汲み取った。
 佐藤の部屋に居る時と同じように。最初はお茶を飲みつつ、お菓子も食べながらだらだらと半ばどうでも良い会話をする。2人の間の空気がいつも通りだから、佐藤も一瞬、ここが吉田の部屋という認識を忘れそうになる。
 ただ、佐藤の部屋とは違い、この部屋には沢山の人が訪れただろう。佐藤の知らない人ばかり、大勢。
 でも、その中で、吉田とキスをしたのは自分だけだろう。会話が途切れた時、寄せた顔に応えるようにぎゅうと目を瞑った吉田を見て、佐藤はほんのちょっとの優越感と、溢れるほどの幸福に見舞われた。


 そういえば、とこの時になってようやっとそれに思い付けた自分は、どれだけ舞いあがっていたのかと分析する佐藤だ。
「夕飯の時、吉田は1人って事だよな?」
「ん? うん」
 3人家族ながらも、今は2人暮らしみたいな現状だ。母親が不在となれば、必然的にそうなってしまう。最も、そうだからこそ今日佐藤を呼べたのだが。
「じゃあ、俺もここで夕食食べていって良い?」
 佐藤が強請ると、吉田もえっと目を丸くした。佐藤と同じく、吉田も誘う事ばかりが頭に一杯で、その辺の事にまで及ばなかったらしい。
「でも、お姉さんは?」
「メールででも伝えておけば良いよ。どうせ別々に摂ってるんだし」
 さも事もなげに佐藤が言って見せると、そこは吉田も「そうか」と納得したようだ。
 けれど、素直に受け入れたかと言えばそうでもないらしい。
「え……っと、でも、その、晩御飯……」
 困ったように言う吉田だが、迷惑だとは思っていないらしい。今日は何食べるつもりだったの、と訊けばカップ麺、との返事が来た。
「じゃあ、俺もそれで」
「! だ、ダメだろ! それは!!」
 ダメだって!と、佐藤が軽く言うと、吉田は大慌てでそれを取り消さす。そして、何やら真面目な顔で佐藤を覗きこむ。
 その表情で、佐藤は吉田の心境内が見れた様な気がした。吉田がダメだというのは、単に買い置きがないというのではなく、招いた恋人にインスタントなんて出せない、という事のようだ。吉田は吉田で、自分が理想とする彼氏像、みたいなものがあるらしい。そして、これはそれに大きく反する事なのだろう。
 要は自分と一緒の食事が嫌だという訳ではない、という事だ。にやつく口元を理性で抑えながら、佐藤は次なる提案を求めた。
「じゃあ、外に食べに行く?」
「……う〜ん、今月の小遣い、殆どないんだよな……」
 吉田が言う。すっからかんではないが、腹を満たす程のオーダーは難しい、といった所だろうか。ならばと奢ってやりたい所だが、けじめある吉田はあまりそれを由とはしてくれない。缶ジュースやお茶代くらいなら出させてくれるが、ちゃんとした食事代となるとボーダーラインを超えてしまうようだ。
「それなら、」
 と、佐藤は最後に、ある意味本命の案を告げる。
「一緒に作ろうか」
 吉田も、まるでその言葉を待っていたみたいに、こっくりと頷いた。


 必要があれば、買い足しに行くべきである。
 しかし、その為には中の確認が必要。
 ちょっと見るよ、と一声かけて、佐藤は冷蔵庫を開けた。それなりに食材は詰まっていて、今日の自分達の分くらいは作っても良さそうだ。
「何か、使ったらダメってのはある?」
「ん〜、特にないけど」
 強いて言えば酒かなぁ、と吉田は言う。それは未成年の飲酒について厳格なのか、はたまた好物を死守したいだけなのか、ちょっと微妙だ。
 それなら、と佐藤は冷蔵庫から食材を取り出していく。この時点ではまだ、吉田には何を作るかは不明である。
 と、もやしの袋を手渡された。
「もやしの頭としっぽ、取って」
「へー、佐藤、ちゃんと取るんだ」
 ウチなんてそのままだよ、と言いながら袋を開ける。その方がやっぱり美味しくなるから、と佐藤。案外、食べ物には妥協しない性格なのかな、と吉田は思った。その考えは、ちょっと甘い。佐藤がこれだけ拘るのは、吉田との食事の時だけだ。
 吉田がもやしの処理をしている間、佐藤は湯を沸かしたり、調味料を揃えたりと作業に無駄が無い。初めて立つ台所のくせに、何だが吉田よりも慣れてそうな雰囲気だ。
 それでも、ここは自分の家で、自分の所の台所で。
 そこで、佐藤が食事を作っている。
 妙に気恥しくなった吉田は、もやしの頭としっぽを取る作業に没頭してみせた。


 そうして出来上がったのは、まず肉野菜炒め。そして、ジャガイモとほうれん草の入ったオムレツ、キュウリと大根の酢のものと豆腐の味噌汁だった。吉田が手にかけたもやしは、野菜炒めの最後の仕上げとばかりにざっと入れ、そしてあっという間に完成した。
「美味そー!」
 吉田は見たままの感想を言う。どうやら見た目は合格らしい、と佐藤も笑みを浮かべた。
 佐藤の作る食事は度々摂る事もあるけれど、あれは専ら昼である。夕食とは、やはり違う様な気がした。
 いただきます!と吉田は普段より鷹揚と手を合わせる。佐藤も、それに倣った。
 そして、手に取った所でふと思う。
「なあ、吉田。この茶碗とかって……」
「ん? ああ、父ちゃんの」
 おかずは大皿に盛ってある。自分の分を取り分けながら、吉田はあっさりと言う。
 まさかと思ったが、やはりそうだったか、と佐藤は胸中で呟きながら、今一度手の中の茶碗を見る。吉田の、父親の者。
 不在の所を狙って押し掛け、あまつさえ持ち物を勝手に借りるとなると、恋人と言う身分の上で何だか、とてもやましい気持ちになってしまう佐藤だ。
 せめて、心の中では謝罪しようと、佐藤はまだ見ぬ吉田の父親に向かい、申し訳ありません、と頭を下げた。


 すっかり余らせる事無く食べ尽くし、食器洗いや後片付けを済ますと、佐藤のタイムリミットになっていた。シンデレラなら、まだ余裕なのにな、と佐藤は時計を見てぽつり。
 上着を着て、玄関から見える外の風景を眺めた。さすがにこの時間になれば、外は真っ暗である。
「気を付けて帰れよ」
 佐藤の視線の先を慮ったのか、吉田からそんな台詞を掛けられた。はっきり言って、この辺り付近で佐藤に傷を付けられるものなんて、皆無だろう。出来るとしたら、吉田だけだ。しかも、身体にではなく、心の方に。
「吉田も、お母さんが帰るまで油断するんじゃないぞ」
 そう言えば、「子供じゃねえって!」と顔を赤くして怒られる。
 折角吉田の部屋にと招かれたのだが、食事を取ったせいか、部屋での滞在時間は最初の一時だけになってしまった。その辺り、やや消化不良であろうか。
 でも、吉田の家で一緒に料理を作ったり、食事をしたのは大満足である。結局良かったのか悪かったのか、判断は難しくなった。
 いやでも、やっぱり不満なのかも。
 一緒に夕飯を過ごして癒されたけど、別の所が足りないと騒いでいる。
「吉田」
「ん?…………」
 玄関から、ドアを隔てたたった一枚先はもう外の世界だ。その中に踏み止まり、佐藤は吉田に強請った。
 吉田から、キスをして貰いたい。
 口には出さないが、雰囲気で吉田もそれを悟れたのだろう。むぅ、として黙り込む。顔が赤い。
 ちら、と横目で眺めたのは、玄関に置かれてある置時計だ。あと15分で、母親が帰ると宣言した時間である。
 何かの要因で、背中を押されれば吉田は割と潔い。
 幸い、土間に降りた佐藤と廊下に立っている吉田で、普段のどうしようもない高低差が多少は薄れた。
 いつもより、少しだけし易いキスをして、その日佐藤は吉田と別れた。


 母親が帰って来たのは、結局予定よりも30分遅れての事だった。店を出たのは予定通り9時だったのだけど、その後ずーっと店先で井戸端会議をしていたらしい。全くもう、と吉田が憤慨する理由は、推して知るべし、である。
 言いたい不満派あるが、言う訳にはいかない。なので、言うべき事を言おう。
「今日、友達が来て、一緒に晩飯食べたから」
 それで、冷蔵庫の中の使ったから、と告げる。いざ使う時になり、食材が減っていたとなれば、さすがに怒られるだろう。
 事前にこうして言っておいたので、母親からは「あら、そう」という返事だけで留まる。そして出来れば、訪れた友達についての質問が来なければ良い、と思った。うっかりボロが出たら、というか、真実が知れたら大変な事である。
 水を取りに行ったついでか、母親は冷蔵庫の中を確認する。そして。
「あら、あんたにしては気の利いた事するじゃない」
「へっ?」
 冷蔵庫の中を覗き込んで、何故そんな台詞が出るのか解らない。きょとんとする息子を訝しむでもなく、母親は使われた食材が、賞味期限が迫っている物や、足の速いものばかりだと告げる。食材の選択や献立については、全部佐藤がした事なので、吉田はこの時、その事実に気づけた。ただ単に、適当に取っていた訳じゃないのだ。そういう所も、考えていたなんて。
(佐藤、良いお嫁さんになるな〜い、いや、お嫁さんってそういう意味じゃなくて、ってどういう意味だよ!!)
 しみじみと感心した後、何だか妙な気分になってしまった吉田だった。もう、風呂入って寝よう。
 そして風呂に入った吉田だが、母親が声を掛けて来た。
「ねえねえ、今日来た友達って、どんな子?
 出来れば、お嫁さんになってもらいたいわ〜v」
 そんな母親の台詞に「男だよ!」と突っ込みを入れる前に、派手にこけてしまった吉田だった。



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