台風のそれとは違う、突発的な大風を真正面浴びる事になってしまい、佐藤も、そして吉田も会話を中断せざるを得なかった。
「……ふぅ〜、すっげー風!」
 ようやく風が過ぎ去った頃、吉田は大きく瞬きを繰り返して言った。直前まで話していた内容は、風と一緒にどこかへ吹き飛んでしまったようだ。まあ、然程大した内容でもないし、それは由としよう。
「そうだな……凄い風だったな」
 佐藤も頷く。
「吉田が飛んでいくかと思った」
「んな訳あるかっ!」
 佐藤の軽口にすかさず噛みついた吉田に、佐藤は尚も「どうだかな〜」とからかってみる。
 大きな風の後、風向きが変わったのか、感じる風上の位置も変わった。漂う匂いも変わったように思う。風の香りか、と佐藤は誌的な言葉を胸中で呟いてみる。
 日本を離れて3年。しかもその3年は、気温も湿度も管理された室内で過ごしていた為、自然を肌で感じたのは随分久しぶりの様な気がした。あの施設にも植物はあったけど、大きなドームの中での事だったし。思い思いに脱走は出来たけど、佐藤の足は外に向かなかった。内側が居心地良かった訳でもないけど、外に出ても対して面白くないような気がして。
 ふと、視界の端に何かが移った。顔の向きをそっちへと移せば、吉田は何だか中途半端な位置で手を上げていた。あるいは、下げている所だったかもしれない。
 そして、視線がかち合った時、吉田は何だか気まずそうに目を逸らした。さらに、不貞腐れているか拗ねているような表情すら見て取れる。
 さっきまで、本当についさっきまで割と普通に仲良く会話をしていたのに、この微妙な顔はどうしたというんだろう。そう思いながらも、佐藤は先ほどの突風で乱れた吉田の髪を、手でちょちょいと直してやる。すると、ますます憮然となる吉田の顔。でも、手は叩かれない。
 その時、ああ、と佐藤は何となく解った気がした。
 吉田の髪が乱れた様に、佐藤の髪も普段通りという訳にはいかないのだろう。吉田はそれを直してやろうと思って、その前に佐藤に見つかった、というより目指した所に手が届かなかったのだろう。だからこその、この態度だ。吉田だって、同姓の佐藤が恋人だが、それ以外はごくごく普通の男子である。彼氏っぽい素振りだって、したいのだろう。佐藤が吉田に缶ジュースを奢ったりするみたいに。
 可愛いヤツ。格好いいと思う事も多いけど、でもそれだって最終的には可愛いに収まってしまいそうな気がする。だって、吉田は本当に可愛いんだもの。
 可愛らしい吉田の葛藤は、この場では佐藤も気付かないふりをしてやった。突いて反応を見るのも良いけど、そのままの吉田を眺めているのも良いものだ。
「あっ、」
 と、吉田が何かに気付いたようだ。そして、佐藤に身体の向きを返る様、言いながら吉田は佐藤の身体に手をやる。身体を回す為、腰に回った吉田の小さい手がこそばゆい。言われるまま、身体を少しだけ反転させた佐藤に、吉田が言う。
「こっち、すっごい草がついてる。さっきの風で飛んで来たんだな〜」
「え、そう?」
 草が当たる感触より、風を受けた衝撃の方が強く、とても気付けなかった。
 吉田の指摘するその位置は、佐藤から死角に入っていて直には見えない。
 制服を脱いで払い落そう。そう思った佐藤なのだが、その行動には移れない事態に入ってしまった。
「じっとしてろよー」
 と、言いつつ、吉田がパンパン、と佐藤の制服についた草をはらう。制服の上からでも、とても丁寧に払っているのが解る。
 ああ、俺は今大事にされているのか、と何となく思って佐藤は、そんな自分の考えに羞恥した。なんだ、大事って。しかも、嬉しい自分がまた恥ずかしい。
 ズボンも被害に見舞われていたらしく、吉田はズボンもしっかり払う。足に触れられた時、ちょっと思春期特有のもやもやっとした感じに襲われたが、持ち前の自制心の強さでやり過ごす事に成功した。
 綺麗になった!と自分の事のように喜ぶ吉田が可愛くて、思わずキスしそうになった。それも、頬や額にする軽い物ではなく、しっかり吉田を堪能できる深い深い口付けだ。さすがに、こんな路上でそんな真似は出来ないけども。
 吉田は、すぐに手を出して来る自分にブーブー文句を言うが、むしろ吉田が佐藤をそんな気にさせているのだ。自分ばかり責められるのは納得出来ないが、吉田も吉田なりに譲歩をしているのは佐藤もよく理解している。事前に聞けばキスしてよい、との吉田の返事は、佐藤にとってあまりに意表を突かれたものだ。少なくとも、吉田には応じる気持ちは十分ある。求められているかまでは、まだ良く解らないが、そこはむしろ吉田本人が解っていないのかもしれない。
 佐藤だって、完全には自分の感情を理解出来ていない。晒すつもりの無い素を晒してしまったり、顔の表情が意識下から離れる――ある意味では意思に沿っている――なんていう経験は、吉田と付き合ってから初めて迎える事だ。それらの現象の捉え方は、まだ出来ていないように思う。
 その場その場では強く感じるのに、あっという間に過ぎ去って検証するのが難しいのだ。まるで、さっきの突風みたいだ、と佐藤は思う。燻るものを煽って燃え上がらす所も、風みたいな。
 風のような吉田。捕まえたように思えて、本当は掴んですらいないのかもしれない。
 風をずっと留めておくなんて、不可能なのだから。
「吉田、」
 と、佐藤。
「俺の部屋来る?」
 いつか、吉田の方から「佐藤の部屋に行きたい」なんて台詞が聴こえると良いな。そう思いながら言っている。
 佐藤に誘われ、吉田は強風を受けた時より目を丸くした。初めて誘う訳でもないけど、吉田にとってはそれくらいの威力ある事なのだろう。かと思えば、ほいほいついてたり、逆にあっさり吉田の部屋に佐藤をあげる事もある。対応が一貫しないのは、吉田もいっぱいいっぱいなのだろう。初めての恋人で、初めてのお付き合いだろうし。最も、それは佐藤も同じだ。身体を重ねた相手はいても、想いを通わせた人は皆無である。吉田を除いて。
 相手の事が知りたいとか、相手が自分の事をどう思っているのかとか。そんな事が気になるのは、吉田だけだ。後はもう、誰に何を思われてもどうって事は無い。単に生活に支障が出るくらいだろう。吉田はその辺りをとても懸念しているが、佐藤は吉田さえいれば、後はもう。
 今度は、髪を整えるのが目的ではなく、吉田の髪に触れる。吉田も、その違いが解るらしく、今の佐藤の手には頬を染めて見せる。こんな時、気持ちが通じていると嬉しくなる。幸せだと思う。
「来る?」
 もう一度、聞く。うん、と吉田は頷いた。嬉しい。佐藤の顔が綻ぶ。
 その時、吉田の顔がはっとなる。自分が自然に笑えていると知らない佐藤は、その吉田の反応をいつも不思議に思う。
「何かお菓子買っていこ」
 佐藤の微笑みを脳裏にちらつかせながら、吉田が先陣切って歩き出す。その後を、佐藤がついていく。
 その時、またもこの時期特有の突風が吹いた。
 ただし、今度は2人の背を押すように。



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