言わずもがなだが、佐藤は背が高い。そこで落ち着いた仕草なぞ取られると、本当に大人っぽく見えるのだが、しかし所詮は16年生きただけの高校1年生である。秋本や牧村や、そして吉田と同じ。
 まだまだ子供っぽい所も十分持ち合わせていて、それを一番思い知っているのは吉田なのかもしれない。
 このように。
「吉田v」
 という声が早いか、その前にすでに抱き寄せていたか、とにかく吉田は佐藤の腕に呆気なく捉えられてしまった。西田相手には逃げ出せられるくせに、佐藤には捕まってしまうその事実は、吉田はあまり深く考えないでいる。
「ちょっ、わ!なんだよッ!」
 今は昼休み、オチケンの部室で2人きりだった所に、突然佐藤が抱きついて来た。
 なんだよ、と思わず口にした吉田だけども、意味あっての行動とは思ってはいない。ただ、何か言ってないと佐藤の体温に溶かされそうで。
 そして吉田の想像通り、佐藤にこの抱擁に特に意味なんて無い。ただ、吉田が好きで、目の前に居るから抱きしめたくなっただけなのだ。それだけで、でも大切な事。こんな風に佐藤が思えるのは、吉田だけなのだから。
「はは、吉田、ちっちゃいな〜v」
 まるで付き合う前のように、吉田をからかう佐藤。自分があの時の佐藤だと言う事も、吉田の事が本命だとも打ち明けなかった頃でさえ、佐藤の中ではキラキラに輝く思い出の1つだ。
 自分の背の事をからかわれた吉田は、カーッと頭に血が上ったようだ。じたばたじたばた!といつになく激しい抵抗を試みる。それに佐藤は、引く事はせずにむしろそれすら抱きこんでみせると立ち向かった。
 こうなると意地の張り合いというか、詰まらない小競り合いの始まりである。
「うるさい! ちっちゃいとか言うな――! それに、学校でこんな事すんなっていつも言ってるだろ!」
「んー? こんな事って?」
 そういう類の事を口にするのが阻まれる性格の吉田に、佐藤は意地悪く訊いた。案の定、言葉に詰まって顔を赤らめる吉田。
「だっだから……こういうの!だってば!!」
「はっきり言ってくれないと解らないな〜」
「嘘付け! 解ってるだろ! 解ってやってるだろ!!」
 口ではどうやっても勝てない吉田は、今度は力で反撃に試みる。ぐいぐいと佐藤の腕を引っ張ったり胸を押したり引いたり叩いたり。
 そんな吉田の精一杯な抵抗は、しかし施設で強暴な動物達を伸して来た佐藤には子猫がじゃれつくようなものだ。むしろこんな事も吉田と出来る喜びに浸りながら、吉田の好きにさせていた。
 しかし。
 佐藤の能力は吉田の力一杯の抵抗を物ともしていなかったが、佐藤の着ている物までそれに準じてくれる訳も無く。
 ぶつっ、と何かが千切れる様な感触。身体のすぐ近くで、でも直接の事では無い。
 吉田の方も、その小さな違和感に気付いたか、佐藤も吉田も、お互い「ん?」という顔をして止まる。先に気付いたのは吉田だった。「あ―――ッ!」と大きな声を上げ、そして顔面蒼白になる。
「あっ、ご、ごめっ……ボタンが!」
 まるで悲鳴のように吉田が言う。吉田の視線を追うように近くの床に目をやれば、ぽつんと小さい白い玉。佐藤の着ているボタンがそこに落ちている。
 あー、取れたか、と佐藤は無感動に自分の物であるボタンを眺める。
 そしてその代わりのように、吉田は大いに焦り、ボタンを拾いに行く。その際、佐藤も吉田を腕から解放してしまったが、あれだけの抵抗の割にはその解放に吉田は何の感慨も抱いていないようだ。とにかく、今は佐藤のシャツのボタンの事で頭が一杯らしい。
「ごっ、ごめん! 取れちゃった!!」
「あー、うん。そうだな」
 半ば揉み合う様な形だった。むしろ服が破れないだけマシだっただろうか。
 などと佐藤が思っていると、吉田が叫ぶ。
「ちょ、ちょっと待ってて! 秋本から裁縫道具借りて来るー!」
「え、あ、おい」
 確かにボタンは取れてしまったが、上着を着ていれば誤魔化せる範囲の事だ。それより、佐藤としては吉田と一緒に居たい。
 けれども、佐藤が呼び止める暇も無く、吉田はぴゅーっと行ってしまった。さすがというか、吉田も運動能力や身体能力は高いようである。
 行ってしまっては仕方ない。戻るのを待つまでである。
 佐藤には、取れてしまったボタンをどうにかするより、吉田とのひと時の方が余程大事だ。
 けれども、さっき駆け出した吉田は、他でも無い佐藤の為に走っているのである。
 そこはやっぱり嬉しく思う佐藤なのだった。


 やがて程なく、吉田は戻ってきた。手には可愛いソーイングセット。秋本が持っていると思うと不思議だが、あの可愛い幼馴染が持たせたと思えばなんら可笑しくも無かった。
「佐藤、脱いで!」
 部屋に入るなりの吉田の第一声がそれだった。思わず、佐藤も「えっ、」と目を丸くする。
「着たままじゃ、上手くつけられないから!」
 まあそんな所だろうけどな、と佐藤はすぐに元の表情に戻って素直に吉田の声に従った。
「ごめんな、寒い?」
「そこまでじゃないよ」
 すぐに相手を気遣えるのが吉田の良い所だ。佐藤も笑みを浮かべる。制服のシャツを脱いで佐藤は、Tシャツ一枚だ。まだこんな薄い格好をすべき時期ではないが、室内で風は無いし、そこまで辛い事も無い。
 佐藤からシャツを貰い、それを膝にかける吉田。まずは、針を糸に通す。そして、慎重にボタンをつけていく。
 けれども、裁縫が得意という訳でも無い吉田だ。傍目から見て、とても悪戦苦闘しているのが目に見える。中学にでも習ったか、必死にその記憶を手繰り寄せるように、懸命に針を通している。
 合理的な事を言えば、佐藤がソーイングセットを借りて着けた方が、余程早くて綺麗に仕上がるだろう。けれど、ここでそれをするのはあまりに野暮である。
 好きな人が自分の為に一生懸命になっているのだ。折角のこの姿、どうして拝まずにはいられようか。
 昼休みの終了のチャイムが鳴る。けれど、集中している吉田はそれに気付いていないようだ。針を動かす手は止まらない。
 言わなかったらきっと後から怒られるだろうけど、佐藤も今のチャイムを聴こえなかった事にした。欠席で減った分の内申は、自分が勉強を見て挽回させてやれば良い。
 しばし、あーでもない、こーでもない、と手と一緒に首も動かしていたような吉田だが、やがて思い出したか表情を輝かせ、針をどんどん動かして行く。
 佐藤にいつまでも薄手にさせられない、という思いがあったのだろう。急ぐ手つきは何だか危なっかしい。
「いっつ!!」
 下手に注意しても針を刺しそうだな、と思った傍に、吉田から小さい声が上がった。
「う〜……刺さった……」
 へにゃ、と情けなさそうに眉を垂らす吉田。みるみる内に、指の先に赤い玉が浮かび上がる。
 その血を舐め取ろうと、口元へ寄せる。――が。
 ばく、と指が入ったその口内は吉田の出は無く。
 佐藤の口だった。
「……………… …………………わ―――!! ばかばか!何してんだよ汚いッ!!」
 しばし凝固した後、スイッチでも入ったか電源でも戻ったか、吉田が急に慌てだす。顔は勿論、真っ赤だった。
「汚いって酷いな〜」
 ちゅう、と指を吸い上げた後に佐藤。勿論、あえて意味を違えたふりをする。そして佐藤の目論見通り、吉田はさらに慌てた。
「ち、違っ! そうじゃなくて、俺の血が汚いって!!」
「別に、そうとは思わないけど」
「〜〜〜〜〜〜ッ!」
 しれっと佐藤が言うと、吉田はもう沸騰しそうに赤くなった。ここまで楽しい反応を見せてくれるとは思って無かった。佐藤はご満悦である。今日は可愛い吉田が色々見れる。
「もー、邪魔すんなって!」
 顔の赤さを誤魔化すように、吉田はやや乱暴に手を振り払った。元から小さな傷であるし、佐藤が吸ったおかけで血はもう止まっている。けれど、用心してその指は使わない様にした。
 吉田があまりにもやり難そうなら、そこは代わってやろうと思った佐藤だが、吉田はどうにかボタン着けを終える事が出来た。ちょっと意外な事に、きちんと形になっている。他と比べて遜色劣らない。曰く、中学の実技の試験前、母親からしこたま仕込まれたそうである。「アンタは学力に期待出来ないんだから、せめて実地は合格しておきなさい!」との事で。けれども、それも随分昔の事。やり方を思い出せて本当に良かったと、吉田は胸を撫で下ろした。
「ありがとな、吉田」
 シャツを着込んだ佐藤が、言う。
 佐藤が吉田を認識した再会からこっち、揶揄される事ばかりが続いたので、こういう素直な物言いの佐藤に吉田はまだちょっと慣れない。
 でも、嫌じゃないし……多分、その逆。
「い、いや、俺が取っちゃったんだし……あ、でも、佐藤も悪いんだからな!」
 思い出して吉田が言う。相手を咎めるより謝罪を先にする吉田なのだ。
「だって吉田が可愛いんだもん」
「……可愛くないしー」
 精一杯、可愛くない素振りを見せているらしいが、勿論佐藤には可愛いだけである。
「うん、でも、ボタン着けちゃんとしてるな。しっかり留められるし」
 吉田が着けてくれた箇所を、そっと撫でる。ややでこぼこしたような手触りはあるが、それだけだ。吉田も褒められて、得意そうだ。「まあね!」なんて目を細めている。全く可愛い奴である。
「……って事は、これから力加減はあまり考えなくて良いかな?」
 ボタン取れても付けられるもんなー、と佐藤。
「……え、今のってどういう……」
 ボタンが取れる状況なんて、服を掴んだ取っ組み合いでしかない。すぐに浮かぶのは喧嘩だが、佐藤の言い方だと何だかそれ以外の……
 まさかね、と吉田は表情を引き攣らせながら、その考えを打ち消す。
 けれども。
「ん? 訊かせて欲しい?」
 にこっとした佐藤の笑み。吉田の嫌な予感が全開となった。ブンブン!と首を横にする。
「いや、いい! 要らないです!!」
 解り易い吉田に、佐藤は肩を揺らして笑う。またからかった!と憤慨する姿さえ愛おしい。
「俺だってさ、手探りなんだよ」
 ひとしきり楽しんだ後、ちょっとだけ本音を零した。
 身体を重ねた経験はある。けれどそれは「お付き合い」ではないし、ましてや恋でもなかった。
 どうすれば良いのか。正しいのか。本当は佐藤の方が解ってないかもしれない。好きと伝えたいだけなのに、傷つけてしまうかもしれない。心や、身体や。
 けれどそんな不安や怯えを纏っていても、吉田との関係は何よりもかけがえのないものだ。
「吉田のボタンは、俺が着けてやるからなv」
「……え、う〜……ん……」
 複雑そうな吉田の表情は「その前にボタン取るな」と突っ込もうか迷っている顔だろう。すぐさま否定しないのは、好きな子にボタン繕って貰う、というシチュエーションが吉田の中でも擽るものがあるのだろうか。さっきの自分のように。
 そうだったらいいな、と、想われている事は解っていてもその深さまでは測れない佐藤は思う。
「ま、まあ、とにかくボタンはちゃんと着けれたし、早く授業……」
 そこまで言った時、吉田はようやく思い至ったようだ。今は何時かと。
 吉田は部室内の時計を見る。勿論、授業はとっくに始まっていた。愕然と時計を見上げた後、吉田はギッ!と目を吊り上げ佐藤を睨む。
 Sっ気のある佐藤だけど、吉田の怒声を浴びるのも好きだった。その時の吉田の頭の中は、何せ自分で一杯なのだし。
 案の定、チャイムの存在をスルーした佐藤に吉田は文句しきりだが、佐藤は堪えた様子も無く、そして聴き流す事も無く受け止める。
 吉田と居ると楽しくて堪らない。そんな風に語る表情で。



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