「吉田」
 帰り道、辺りにクラスメイトが見えなくなった頃を見計らい、佐藤が横を歩く吉田へと声をかける。
「俺の部屋、寄っていかない?」
「ん? うん、いいよ」
 だったらその辺りのコンビニでお菓子でも買って行こうか。などと考える吉田は、ふと隣からの視線を感じ、佐藤を見上げる。
 否定ならまだしも、承諾した後に何故そんな物言いたげな表情を佐藤は浮かべているのか。何だか解らなくて、吉田は「?」と首を傾げる。
 吉田が訝しんだのが解ったか、佐藤が言う。
「たまにはさ、吉田の方から『佐藤の部屋に行きたい』とか言ってもいいんじゃないかなって思って」
「え………」
「それ言い出すまで部屋に誘うの止めようかな、とも思ったけど、そうしたらかなり長い事吉田が俺の部屋に来ない事になりそうだから、しないけど」
「……さりげなく、責めてない?」
 じとっと吉田が半目で睨むと、佐藤は「さあね」とすっ呆けた。
 こういうヤツなのだ、佐藤と言うのは。
 女子に向けているの態度は単なるフェイクで、都合の良い仮面だ。最も、こんな素を見せた所で、骨の髄まで佐藤に魅せられている彼女たちが今更引くとも思えないが。逆にもっとハマりそうな気もしないでもない。
「まあ、でも」
 と、場を取り直すように佐藤。
「社交辞令じゃなくて、ホントにいつでも来て良いから。例えば親と喧嘩して家出したくなったら、迷わず俺の所おいでv」
「……あんまり良いシチュエーションじゃないなぁ……」
 なんて言いながら、2人はとりあえず同じ目的地に向かってのんびりと歩くのだった。


 お邪魔します、と一声かけて吉田は上がった。姉はまだ帰宅しておらず、残ったこの部屋の主も一緒に帰って来た所だから、室内は空間だけども、そういう挨拶は欠かさない吉田だ。母親からの躾が効いている。
 佐藤がコーヒーを入れて来ると言って一旦席を外した。1人、部屋に残された吉田。
 けれども、さして緊張するでもなく、落ち着かなくなる訳でも無く、今となっては欠伸も出来るくらい寛げる。慣れとは偉大なものだ。最初に訪れた時は何もかも真新しくてキョロキョロしてたっけ、と吉田はちょっとだけ過去を振り返る。
 そうだ、折角だから今日の数学のプリンと、教えて貰おうかな〜と吉田は鞄を引き寄せた。
(……う〜ん、でもいきなり宿題とかやりだしたら、佐藤、怒る……かな?)
 ふとそう考え、吉田の手が止まる。自分達は恋人同士で、部屋に招くというからにはそういう期待をされているのだが、生憎吉田はそういう事は苦手というか不得手である。さらに言えば経験が無い。佐藤が初めてのお付き合いの相手なのだから。
 付き合う人が出来たら、こんな事してみたいな、と思った事はあった筈だが、いざ現実を前にすると何も思い浮かばない。それは単に相手が同性だからという問題でも無さそうだ。相手への感情だけで一杯一杯で、とても他の事なんて考えて居られない。
 ただ、それでも。好きな人には喜んで欲しい。楽しんで貰いたい。そういう意識は勿論ある。
 でもその為にはどうすれば正解なのかが解らなくて、鞄に手を突っこんだまま、そんな風にうんうん唸っていた吉田は、背後からの忍び寄る気配に気づかなかった。
「吉田、何してんの」
「えっ! うわ、その、あの、―――いっ!?」
 途中まで出していた数学の教科書を鞄に押し戻す時、指にチリッとした痛みを感じた。
 しまった、と思って指を見てみれば案の定、薄く切り裂かれた皮膚がそこにあった。今は線が入っているような状態だが、もうすぐ血が滲んでくるだろう。
 こういう傷って地味に痛いんだよな、と内心自分の失態に嘆息しつつ、佐藤を向いた。
「ごめん、絆創膏とか頂戴………。……………」
 ぱくり。
 と、自分の指の傷部分を口に含む佐藤の一連の行動があまりにスムーズで、吉田は止める隙も見つけられなかった。
 やっと、脳が目の前の光景に反応したようで、吉田は突如、顔を極限まで赤らめ、口に含まれている指の手以外の3本の手足をばたつかせた。
「わ――――!!馬鹿バカ、何やってんだ汚い!!!!」
 ちゅう、と傷をキツく吸われ、吉田は「んぎゃ――――!」と胸中で叫んで涙目になった。なんだかもう、どうしていいか解らない。
 気が済んだのか目的が終わったのか、吸いついた後、佐藤はぱっと口を離した。
「汚い、って失礼だな。ちょっと吸っておかないと血が出っぱなしだろ」
「だ、だったら先に言え……」
「言ったら断るじゃん」
「……そうだけどー……」
 今となってはこの指は、怪我した事より余程佐藤に口付けられた事の方が気になる。その箇所だけが、疼く様にジンジンとしているのは、傷を負っただけとは思えない。
「ほら、指出して」
「!!!!!」
「絆創膏貼るだけだって。ほら」
 警戒し、指をぎゅうぅ、と反対の手で握り締める吉田を見て佐藤は苦笑する。警戒されるのは困るけど、意識されている証と思えば悪いものでも無い。
 少しの躊躇の後、吉田は指を出した。佐藤の様子を探る、上目遣いの吉田が可愛くて堪らず押し倒し無くなる。けれどもここは、信頼してくれた分を尊重し、素直に手当てに臨むとしよう。自分より随分と小さい掌を取り、佐藤はそっと笑みを浮かべる。
 変にずれたりしないよう、絆創膏はきっちり貼った。元が大した傷では無いから、明日か明後日には絆創膏も要らなくなるだろう。絆創膏を貼るのは、何かの摩擦で患部が痛むのを防ぐ為だけだ。
「……………」
 手当された箇所を、吉田は難しい顔をして見つめてしまう。
 何故って、よりによって怪我をした指と言うのは、左手の薬指だったりしたので。
 まあ、指の付け根ではないから、その辺りまだマシ……というかなんというか。
 この先、少なくともこの絆創膏が付いている間は意識しっ放しだな……と今から顔を赤らめr吉田である。それでも、無理やり剥ぎ取ろうという発想をしないのが吉田らしい所で、佐藤が惚れている箇所でもある。
「じゃ、早速やろうか」
 気にしている為、あえて薬指を視界に入れない様、もじもじしている吉田に佐藤が言う。その台詞に、顔を真っ赤にした吉田が坐ったまま飛び跳ねた。
「やっ、やややや、やるって何を!!!!」
「いや、数学の課題だけど」
 今日出てただろ?とあっさり言う佐藤。あまりのあっさりさ加減に、吉田の理解が一瞬、いや、しばし遅れた。
(そっちのやるか!!)
 真っすぐに別方向での「やる」を想像してしまった自分に恥じて、いっそ穴に入りたい。しかし、そんな風に捉えてしまうのは、佐藤の普段が普段なのだからだけども。
「さっきからごそごそやってたからさ、てっきり教科書でも出すんだと思ったんだけど」
 どうやら、佐藤は吉田が躊躇や葛藤していた所を何気に目撃していたらしい。と言っても、単に勉強したくない故の動きの鈍さだと思ったようだ。あの時の吉田の複雑な心境を佐藤が察知していれば、こんなに淡泊な反応で済む筈が無いのだし。
 そこで完全にすっ呆けられる吉田なら良かったのだが、思わず零した「なんだ、宿題やっていいのか」と吐き出してしまった呟きは、佐藤の耳までしっかり届いてしまった。
「何、宿題やっちゃいけないとか思ってたの?」
「え、あ、ぅ、」
「何か代償強請られるとか思った?」
 ちゃっかり隣に座り、頬杖をついてくすくすと笑いかける佐藤。そんな表情は、吉田の頬を熱くして止まない。
 そんなんじゃないんだけど、と小声で呟いてから、吉田は本音を打ち明ける。
「いきなり宿題とかさ……ムード無いとか空気読めとか言われちゃうかな〜とか。そういう事ちょっと思っただけ」
「別に、そんな事言わないけど」
 そのくらいなら、と胸中で付け加える佐藤だった。
 吉田は、ちょっと口を尖らさせ、むぅ、と剥れる。佐藤を責めているのでは無く、自分を恥じ入ってでのこの表情だ。
「解んないんだよ。恋人らしい事とか……」
「…………」
「佐藤にがっかりさせたくないし」
「がっかりだなんて、」
「でも、なんか『あーあー解って無いな』みたいな顔するじゃん」
 佐藤の台詞を遮る様にそう言った吉田は、一層表情を尖らせた。どうやら焦点が掴めた様な佐藤は、ふむ、とちょっと考える。
「そりゃ確かに、『吉田ってズレてる』とか思わない時は無いけどさ」
「…………」
「そういう時も込めての恋人同士だし。っていうか恋人じゃないとそんな事も思わないだろ。十分恋人らしい事だよ。
 面倒とか思うかもしれないけど、嫌じゃないよ。絶対」
 どんな事に対しても、メリットだけでは無くてデメリットも必ず生じる。でも、吉田との事ならそれすら大事に抱き抱えたい。
 声色に柔らかさをたっぷり含ませ、佐藤は吉田に吹きこむように言う。ただの言葉よりも心に沁みわたる様なその物言いに、吉田の頬がぽっと染まる。
 そんな吉田を間近の至近距離で覗き込んでいる佐藤が、不意ににこーっと笑みを深くする。なんだ?ときょとんとする吉田に佐藤は言う。
「いや、今のなんか、凄く恋人達らしい会話してるな〜って」
「え、そ、そうかな??」
「だって、友達とかじゃしないだろ」
「う、う〜ん、そう……なのか……?」
「そうそう」
 力強く頷き、半ば力づくで合意させる佐藤。
 世間一般とか他人の認識とかはどうでもいい。自分が「らしい」と思えたら、それが恋人らしいのだ。
 押されるように納得してみた吉田だが、やはり強引過ぎたか、いまいち引っ掛かるものでも感じているらしい。人差し指を顎につけ、う〜ん?と考える吉田を、そんな仕草ごと抱きしめた。うわぁっ!と突然の抱擁に慌てる吉田。
「何すんだよ! いきなり!」
「うん、俺って吉田と恋人なんだな〜って思ったら、気分とか盛り上がっちゃって」
 素直に感じた喜びを口にしてみれば、はあ!?とオクターブ高い声を発し、今日一番顔を赤くする腕の中の吉田。
 何事にも呆れるほど臆病な自分だけど、吉田への気持ちは正直に打ち明けて本当に良かった。友達同士の関係では、この腕の中の温かみは決して感じられない。
 すぐ目の下でぴょんぴょんと跳ねる髪が擽ったい。どうせ近いのなら、と佐藤は頭を引き寄せて髪にキスをした。その感触が伝わったか、吉田から「んぎゃっ!」と色気の無い声が上がる。
「吉田……」
 と、熱を込めて呟くと、ビクッと戦慄く小さい吉田の体躯。確かに、解って無い、と憤る時も多いけど、こんな時にはちゃんと反応してくれる。だから佐藤も、気持ちは通じてるんだな、と安心出来た。
「……っ、しゅ、しゅくしゅくしゅくだ……ッ!!」
 どうやら「宿題するんじゃないのか」と言いたいらしい吉田。この流れで今更宿題に取り掛かれるだなんて思うのか。やっぱり、解ってないと言うか思慮が浅はかというか。
 そんな辺り、吉田らしい、自分達らしい「恋人同士」な感じがしてとても良い。
「大丈夫。ちゃんと時間考えるからv」
「か、考えるって……! わわわわわ」
 とさ、と軽い衝撃を持って、床に横たわらせられる。上に伸し掛かる佐藤は、髪の感じが変わって何となく見惚れてしまう。
 吉田、ともう一度佐藤が名前を呟いた。色々ぐちゃぐちゃになった吉田は「ああ、もう」と観念して近づく佐藤の吐息を思いながら、そっと目を閉じた。
 多分、この場ではこれが正しいのだろう。そんな事を思いながら。



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