こんなにもベッドにしがみついた事は無い、と吉田は思った。ましてや自分の部屋以外で、佐藤の部屋で。
 重い、と呟かれたその声が、自分からだと吉田が知ったのは言い終わった後からだった。
「あ、ごめん」
 佐藤が思いの外あっさりと、しかも素直に謝罪したので、吉田はちょっと申し訳なくすら感じた。実際は、そんなに重くなかった。いや、全く重くなかった。
 強いて言うなら、重いよりも熱いだろう。背後からぴったりくっついている佐藤のせいで、吉田の背中は全体に、満遍なく佐藤の体温が伸しかかっている。けれども熱いのは、佐藤の体温だけのせいではない。吉田自身が昂り、熱さを感じているのである。それは佐藤も同じで、という事はやっぱり吉田の感じる熱さは佐藤のせいと言う事か。実際、佐藤から施される行為のせいで、吉田はまるで逆上せたような状態だ。
 佐藤が退いたおかげで、吉田の周りは熱を帯びない空気が包む。涼しさすら覚える。と、同時に何か物足りなさも……いやいやそれはない。多分、無い。吉田は胸中で、ふるふると首を振る。
 と、そこでようやく自分の姿を改めるに至り、吉田は眉を潜めた。シャツの前が全開である。ボタンが外され、自分の胸元がしっかり見える。そこを、佐藤の大きな掌が撫でていたのは、ついさっきの事。
「……あのさー、男の胸なんて触っても面白くないだろ」
 そうやって言うのも恥ずかしいが、ボタンを閉じるのも恥ずかしい。とにかく何もかも恥ずかしい吉田だ。
「うん。でも、好きな人は別」
 顔色ひとつ変えず、あっさり言う佐藤。吉田と言えば、爆発したように赤い。
「触り心地も良いけどね、ドキドキ動いてるのを確かめるのも好きなんだ」
「え、……うぅぅ……」
 思いもしない佐藤の行動の意味に、吉田は唸って赤くなる。
「さ、佐藤のせいだろ。俺がドキドキするの……」
 吉田のその台詞は、佐藤にとって反則みたいに可愛く聴こえたらしい。一瞬呆けた顔をした後、口元を手で隠す。見える顔の上半分は、その眉間は苦悩するように皺が寄り、目つきも若干荒い。涼やかな目元が魅力の佐藤君にあるまじき表情である。
 最も、彼の熱烈な支持者というかファンの女子なら、こんないっそ滑稽な顔にも、キャーキャーと騒ぎ立てるかもしれない。が、その真偽の程は定かではない。そして明かされる事も無い。佐藤は決して、女子の前でこんな顔にはならないのだ。佐藤の意思にすら反して、こうなってしまうのは吉田の前だけ。吉田の前でだけだ。
 そんな佐藤を目の当たりにし、「佐藤、変な顔ー」と吉田がからかう前に佐藤が言う。
「俺だって、吉田のせいでドキドキするよ。……触って確かめてみる?」
 第2ボタンまで外した制服のシャツの上から、心臓部分を自分の掌で押さえて言う佐藤。途端、吉田の目は見開かれ、「べ、別にいらないっ」と言ってそっぽを向いた。その顔は耳まで赤い。男の胸なんて、と自分で言った割には、佐藤の胸を触るのにかなり意識するようだ。それは無論のこと、佐藤と同然、吉田も佐藤が単なる同性ではなく、特別な感情を抱く相手だからだ。全く可愛い性格である。
「そんな、遠慮しなくていいから♪」
「いいって!無理やり触らせんなっつーの!!」
 佐藤が迫り、吉田が避ける。極狭い範囲で、くだらない鬼ごっこが成された。
 分が悪いのは明らかに吉田である。腕の長さ、つまりリーチのある佐藤が吉田を捕まえるのはとても簡単な事だ。しかも、相手に完全な拒否が無いのなら。
 佐藤は、吉田を抱き抱えてベッドの上に倒れ込む。あっさり退いてくれたというのに、またも状況は逆戻りである。しかも。
「重い!重い重い―――!」
 今度は本当に重みを感じた。まあ、かなり加減した重みであはるが。
 僅かな隙間の中、じたばたする吉田は可愛かった。けど、ずっと苦しいままなのは、佐藤も心苦しい。
「ごめん、ごめん」
 佐藤は軽く謝り、ごろん、と横になった。佐藤が上から退いてくれたので、吉田は重圧から解放される。ほっ、と胸を撫で下ろす。
 しかし佐藤の腕からは解放されなかった。丁度胸の上で緩く両手の指が絡まっている。強引に引き剥がされそうな緩さだが、そうはしない吉田だった。それより、またも鼓動の早くなる自分の心臓ばかりが気になる。けど、隠す事の出来るものでもないし、隠した所で佐藤にはバレてしまうのだろう。
 まあ、いいか。このくらいなら。吉田は達観したような心地になる。
 佐藤の体温は、決して嫌いじゃないのだし。
 そんな風に、佐藤の温かさだけ気にしていた吉田だから、気付かないのだろう。背中から感じる佐藤の鼓動が、自分と同じリズムになっている事に。
 佐藤は、腕から感じる吉田の鼓動と、自分の体を揺らすような動悸を確かに感じていた。心臓が激しく動き、血液が循環する。
 生きてるなぁ、と佐藤は思った。
 帰国して、誰も自分がかつての苛められっ子の佐藤隆彦だと認識されない中。存在が希薄になったような中でも、吉田と居るとめまぐるしく変わる感情の坩堝に、どうしようもなく生きている実感が湧いて来る。自分も心あるただの人間で、だから吉田の事がこんなにも好きなのだ。その当たり前さが嬉しい。
 以前何かの本で読んだ。心臓には、鼓動する数がすでに決められている。生物の寿命が種族によって違うのは、その為だからと。つまり、速く鼓動する動物の寿命は短く、逆は長い。だったら、いつもドキドキしている人間は、他の人より早く死ぬのだろうか、などと佐藤は思ってみる。まあ、運動や感情で齎される動悸の激しさなんて、結局はその範疇内なのだろうけど。
「…………」
 けれど佐藤は、こうして吉田と居る事で、自分の鼓動数が他人よりも多くなり、結果寿命を縮めてしまっても、構わないとすら思う。勿論、吉田と共に永く過ごすのが何よりだが、やっぱり先に何が待ち受けるか解らない。あるいは過去に戻って吉田との出会いを無くしたくなる程、凄惨な末路が控えているのかもしれない。勿論、そうなる可能性と同様、ただひたすらに穏やかに暮らす未来だって待っているのかもしれないが。
 早く死んだのなら、その中の割合で吉田と過ごした時間が比重として多くなる。
 いっそ吉田だけの人生になって欲しい。最も、自覚の無かった頃も換算してしまうなら、すでに大分吉田に埋もれた人生かもしれないが、所々空いた隙間が気になる。
 空いた空白は、吉田が埋めてくれる。吉田で埋めたい。
 そんな心境が体に現れたのか、吉田の胸の上で繋がれている手が、きゅっと軽く締まる。
 それに何を思ったか、気付いた吉田はその手の上に、自分のを重ねた。吉田の胸と手で、包まれる自分の両手。酷く温かい。
「吉田、」
 と、愛する人の名前を呼びながら、その人の頭に甘えるように擦り寄る。
「好きだよ」
「うぇっ!? へ、ぇ!? えっ……う、うん……」
 素っ頓狂な声の連続の後、吉田は受け入れて頷く。佐藤が吉田に向けて好きと言うのは、これが初めてじゃないのに、まるでいつも初めて聞いたかのような反応をする。その初心さに、佐藤はそっと笑みを浮かべる。
 可愛い吉田。このまま腕にずっと閉じ込めてしまいたいけど、そんな狭い場所は吉田に相応しくないのは解っている。
 吉田を自分のものにするより、自分を吉田のものにして欲しい。
 そう、願いたい。
 俺の心臓は吉田のもの。



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