「一番手っ取り早いのは、貴方に死んでもらう事だわ」
 艶子が言う。
 その言葉の先には、佐藤隆彦が居て。
「……ああ、そうだな」
 そう呟いた佐藤は、全ての覚悟を決めた。


 あれだけ巷を騒がせた幽霊の話だが、あまりにも一気に熱が加速したせいか、終息するのも早かった。件の幽霊が、とくに騒動を起こさないのが主たる原因だろう。
 とはいえ、解決も解明された訳でも無いので、依然と怯えている者も少なくはない。例えば、そう。
(……う〜ん、お守りとか貰って来ようかな……でも、お化けと遭遇しない為のお守りってなんだ?)
 今日、井上は休みで将来を約束した恋人と旅行に行っている。店内1人で、吉田は思い悩む。
 いっそ破魔矢でも貰おうかな、なんて思っている時。
「あっ、幽霊だ」
「ひぎゃぁ――――――ッッ!!!」
 幽霊、の言葉を聞き止めた吉田は、すぐさまその場に蹲り、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏!」とおそらく唯一知っているであろう一節を繰り返していた。
 小さい身体をより小さくして縮こまる吉田を、とても楽しそうに眺めるのは吉田に幽霊だと呟いた人物と同一である。つまりは、佐藤だ。
「ごめんって。嘘だよ、嘘」
「ううう……! な、なんだよ佐藤か」
 宥めるように言う佐藤の声に、吉田は騙されたという怒りよりも嘘であったという喜びの方が勝ったらしい。涙目で佐藤を見上げる。
 と、佐藤の眉間が妙な具合に寄った。
「? どしたの?」
「いや……別に、」
 何やら佐藤は口元を押さえ、溢れる何かを抑える様な仕草の様に吉田は思えた。気分でも悪いのかなと思ったけども、次の瞬間にはもう元通りだった。気のせいだったのだろうか。
「それにしても、吉田ってお化けとかそういうの、ホントにダメなんだな〜」
 いつものように、団子とお茶を運ぶと佐藤が言う。朗らかに言ってみせる佐藤に、改めて吉田は騙された怒りが込み上げて来た。
「うるさいな! だって、お化けには突きも蹴りも通用しないし……」
 もごもご、と吉田が言う。まあ、確かに実際の人物に対しては、ここまでの怯えは見せていない。
 男気溢れる性格ゆえに、お化けが怖いのがみっともないと思っているのか、吉田は気まずそうに頬を染める。そんな吉田を、目を細めて眺めていた佐藤だが、不意に気付いた。
「吉田、その鼻緒どうしたの?」
「ん? え? あ、やっぱり目立つかな」
 片方の鼻緒が切れ、手近にあった紐で代用した訳だが、そうすれば当然左右で違う紐になる。同系色だから気付かれにくいとは思うけども、やっぱり目にはつくようだ。
「その紐、どうしたの?」
 どうやら佐藤の興味は、左右で紐が違う事より代用した紐自体に興味があるようだ。吉田は素直に手に入れた経緯を説明する。勿論、あの良く解らない木片の事も。
「割れた木片……か」
「ん? 気になる事でもあった?」
「……いや、」
 佐藤は何事か思案する面持ちになった後、自分で考え過ぎだと結論を出したらしい。
 まあ、それにしても。
(……悩んでる姿も格好良いとか……ずるいよな)
 佐藤の顔を直視する訳にも行かず、視線をあちこち移動させて吉田が思う。そんな吉田の様子は、ばっちり佐藤に見られているのだが。
 むしろそういう所だからこそ、格好良く見えたのかもしれないが。よく巷の娘も言っている。苦悩する殿方の横顔って素敵とか。いや待て、それじゃ俺は佐藤の事素敵だとか思ってるのか!?こんな悪戯されてるのに素敵も何も無いだろう!うわーん、俺のバカバカ!!
 ひとしきり混乱した後、その佐藤がすぐそばに居るのだと思い出した吉田は、現状打破とばかりに会話に走った。
「そ、そ、そういえばさ!」
 明らかな動揺を見せながら、吉田は話題を探す。
「こ、この前言ってた探し物ってどうなったの?」
「………」
 佐藤が飛びついてくれる内容を、と思って言ったその台詞は、むしろ大当たり過ぎたらしい。軽く目を見開き、佐藤は視線を少し下に落とした。
「見つかったよ」
「………え、」
 思って無かった返事に、吉田も戸惑いを隠せない。何せ、探し物をする為に此処に来た佐藤だ。それが見つかったとなると、別離を意味する。
「でも、今すぐ帰る訳じゃないから」
 そんな吉田の胸中を慮ったのか、佐藤はそう付け加える。
「見つけて、はいお終いって訳じゃないから。色々、対策とかも立てないといけないしな。それに、別件もあるし」
「そ、そうなんだ」
 吉田は未だに佐藤の「探し物」の正体を明かされて居ないし、立てないとならない対策とは何なのか。そして別件とは。
 色々疑問は浮かぶけども、それよりも佐藤がこの地から居なくなる日が現実味を帯びて迫って来たという事に捉えられてそれどころでは無い。
「佐藤」
 思いの外、冷静に吉田は佐藤を呼べた。
「行く日は、ちゃんと挨拶していけよ」
 そうしないと、勝手に帰ってしまいそうな気がして止まない。
 佐藤は頷いて、約束をしてくれたけども、吉田の胸中には佐藤が急に居なくなってしまうのではないかという、一抹の不安が拭えない。それは実際に佐藤が此処を立つ日まで続くのだろうが、その日々は、きっとそんなに長くはない。


(変な感じ)
 長屋に戻り、ぼや〜と天井を眺め、吉田は思う。
 佐藤はある日突然やって来た。それが元の所に戻ったとして、吉田も以前の生活に戻るだけ。
 だというのに、佐藤の居ない生活の方に違和感を覚える。佐藤がやって来る前まで、普通に暮らしていたのに。
「…………」
 気になる。佐藤が気になる。素性や身分の殆どが謎だというのもあるけど、それを抜きにしても。
 何だか、佐藤とは初めて会った気がしない。そして佐藤の方も、自分を初対面として見て居なかった節が見られる。それは佐藤が厚かましい性格だからという事では無くて。
 しかし吉田の記憶のどこを掘り返してみても、佐藤に相応するような人物は思い至らなかった。とは言え出来の良いとは言い難い頭でもある。うっかり忘れていると言う事も多々ある。忘れようも無い事を忘れていたなんて、結構ある事だし。
 何だかもやもやする。元々、はっきりした性分の吉田だ。うだうだと頭の中で考えるのはらしくないと、思い切って行動に出る事にした。
 今までのらりくらりとかわされて来たけど、今日こそは問い詰めてやろう。
 一体何者なのか――何処へ戻るのか。
 誰にも言ってくれるなと佐藤が言うなら絶対言わない。
 佐藤の情報が欲しいというより、思い出が欲しくて。
 居なくなってしまった人をずっと思うのなら、その材料は1つでも多い方が良い。何度も言うけどあまり出来の良い頭じゃないから。仮に一日に一つの事を忘れてしまっていくとしたら、増やした分だけ佐藤を思って居られるから。


「牧村! 佐藤、居る?」
 皿洗いは板場の人間の仕事だろうに、何故か外で水をはった桶で牧村が洗っていた。おそらく、団体の客でも入ったのだろう。
「んー? 佐藤か? ………いや、さっき外に出たなぁ」
 思い出しながら、牧村が言う。
「どっち!?」
「え、えーと、出て言って、こっち行ったな」
 何だか激しい剣幕の吉田に、押されつつも牧村は答えた。なんだ、佐藤の奴、吉田に金でも借りてたか?なんて思いつつ。
「こっちだな!」
 と、吉田は牧村の返答も待たずに駆け出す。そろそろ暗くなるぞ!という牧村の忠告の様な声も、今の吉田には届かない。それに、牧村に言われるでもなく、徐々に闇に侵食される様子は吉田の目に映されている。
 それに怯えるより、今は佐藤に会いたかった。


 そうして佐藤の捜索に躍り出た吉田ではあるが、全くの考えなしだという点は否めない。牧村に指示された方向へ飛び出たはいいが、それから先佐藤が何処へ向かったかはさっぱりである。
 それでも、それなりに聞きこみもしたがすでに夜に近い時間。飲食店でもないこの辺りで出歩く人間はたかが知れていた。そして、誰も居なくなった。
(こっちじゃなかったのかな?)
 今居る地点から随分前にはもう、目撃者すら捕まえられて居なかった。ここまで突き進んで来たのは単に吉田の勘である。行きあたりばったりと言っていい。
 この辺りは、吉田もあまり赴いた事の無い地区だ。近所であるとは言え、暗闇の中で出歩きたい場所では無い。
 今日は、戻るとしよう。明日か、はたまたその次か。佐藤がまた甘味屋に顔を出して来た時にでも、とっ捕まえで聞き出そう。そもそも、今日来た時点で問い質すべきでもあったかもしれない。
 踵を返し、来た道を引き返す吉田。
 が、しかし。
「…………」
 一体いつ頃からか。
 その辺りは解らないが、しかし間違いない。
 尾行されている。


 目的も正体も解らないのは、佐藤だけで十分だと言うのに。
 とりあえず、足音らしき物音がしている辺り、幽霊で無いのは確実だ。それだけで大分吉田の動揺も減る。
 とはいえ、夜道を歩いて後を付けられるというのは、気分の良いものではない。むしろ、遭遇したくない事態である。一体自分に何か用があるのか、はたまた人違いをしているのか……金目当てでは無いとは思う。物取りが自分を見て獲物だと判断する事はないだろう。
 いずれにしよ、とっ捕まえる事にする。逃げるという考えは吉田には無い。ここで捕まえておかないと、後々別の誰かを襲うとも限らないし。
 今夜の月は、分厚い雲にでも覆われたか、仄かな月明かりはさらに光度が絞られている。歩く先に十字路を見つけた吉田は、一気に駆け出した。吉田のこの行動は相手にとって予想外だったのか、もはや気配を忍ぶ事も放棄し、吉田の後を追って走る。ついて来るのは重々承知だ。吉田はすぐに十字路の右の道に入る。
 当然、後ろの人物もすぐさま来るだろう。それを見越して吉田は、その場にしゃがみ、足をそっと出す。すると、突進して来た男はその足に盛大に躓いた。どさぁ!と暗闇の中、大きな音が響いた。そして。
「!!!!! い、いってぇ〜〜〜!!!!」
 何せ相手が派手に引っ掛かってくれたものだから、その負荷が吉田の足にもろに掛った。骨までには至らないとは思うが、ズキズキとした痛みに苛む。まんまと吉田の仕掛けた罠に引っ掛かったのは、男だった。が、吉田がそれを改めている余裕はない。
 尾行者と吉田、どっちも負傷したが先に立ち直ったのは尾行者の方だった。むっくりと起き上がったのを、吉田は見過ごしそれどころじゃないとばかりに足を押さえて身悶える。
「う〜、いたた……痛い〜!!」
 いっそ半泣きになる吉田。その背後で、吉田に反撃を食らった苛立ちに立ちあがる。
 そして腰に手を当て、その手を引いた時には微かな月明かりを眩しい程に反射する、刀を携えていた。
 吉田の背後で、鋭い光が翻った。


 ――どさり、と。
 先ほど吉田が足を引っ掛けて昏倒させたのより、もっと鈍く地面に響く音がした。力を失った身体が地面に落ちたのである。
「えっ……う、うわ!なんだこりゃ!!!」
 急に自分の横に倒れ込んで来た者に、吉田は素っ頓狂な声を上げて驚く。足の痛みも、今だけちょっと忘れた。
「吉田、」
 その声は、さっきまで姿の居なかったもの。しかし、知った声だから、吉田は不思議だとは思いつつも、恐怖は微塵も無かった。
「佐藤! え、なんで? これ、お前が??」
 すぐ横に伏せる男と、自分を見下ろす佐藤を交互に見比べ、いまいち状況が掴めないままでも質問が口から勝手に出た。
 佐藤は、その問いかけにもならない台詞に頷く。いつものような揶揄もいじわるも無い佐藤に、吉田もあれっとなって佐藤だけに意識を集中させた。最も、今は悪戯をしている場合でも無いのだが。
 よく様子を窺ってみれば、佐藤は何やらとっても焦った風な感じだ。口数が少ないのは、その表れか。
「――大丈夫か?」
「う、うん……あ。でも、足が痛い」
 そう告げた途端、佐藤の血相が変わったのが夜目でも解る程だった。おそらく佐藤は、相手から傷つけられたものだと思ったのだろう。実際は、こっちが仕掛けた罠のとんでもない副作用なのだ。吉田は慌てて説明を付け加える。
 佐藤が駆け付けた時、男は刀を抜いて吉田に近付いている最中だった。間に合ったと思えて、実はすでに切りつけていたのかと思った佐藤も、吉田のあたふたとした身振り手振り付きの、しかし要領を得ない説明を聞き、ようやっと気を落ちつけさせる。一通り、安堵しきった後は難しい顔になった。
「……全く、無茶をして……」
 ふぅ、とため息にもつかない佐藤の息。しゃがみ、吉田と視線をほぼ同じくする。元々の身長のせいで、やはりちょっと差があるけども。
 佐藤がそっと手を差し伸べ、しかしそれは吉田の手を握らず、頬を優しく摩った。そんな風に今まで触られた事の無い吉田にとって、心臓が撥ね、顔を赤くさせるには十分だった。何より、相手が相手だ。何故この場でそんな風にそこを触るのか、という状況の不自然さは軽く吹き飛ぶ。
「そんなんだから、こんな傷出来るんだろ」
「え? あ、ううぅ………」
 何かを言い返したかったのだけども、未だに佐藤の掌が頬を撫でるので吉田は何も言えなくなってしまう。頬を、というよりは傷跡なのだろうが、直接触れるのが阻まれる為に頬に手を当てているのだろう。
 吉田の左目の下の傷は、喧嘩で出来た……らしい。割と派手な喧嘩で、吉田も前後の記憶が曖昧なのだ。母親の手当てが乱暴で痛い痛いと喚いたのは鮮明に覚えているのだが。
 この傷を負ったのは、親友である虎之介と出会う前だから、彼に訊く事も出来ない。何となく、他の友達の話などを聞く分には、とある子どもたちの集団がたった1人を相手に群がってからかっていたのを、吉田が止めに入ったらしい。その時のひと悶着がこの怪我の理由らしい。
「あれ。でも、この傷の事、お前に言ったっけ??」
 解り易い疑問に、吉田が首を捻る。
「…………」
 佐藤は、答えない。
「まあ、佐藤が知ってるって事は、きっと言ったんだろうけど」
 佐藤の沈黙も気付かず、吉田は勝手に結論付けた。自分でうんうん、と頷く。
 最後にそっと摩って、佐藤の手は離れた。
「とりあえず……旅館に戻るか。吉田の長屋よりこっちの方が近いだろ?」
 佐藤の言う事は正しい。吉田は頷く。
 そのまま部屋で泊まって行け、と佐藤は言った。本来、そういう事は宿屋としては禁じられた行為だろうけども、牧村に上手い事言って見過ごして貰おう。
「で、そいつはどうする?」
 未だ昏倒したままの相手を指し、吉田が言う。
「はっ、まさか死んだんじゃ……!」
「違うよ。峯打ちしただけ」
 顔面蒼白になって戦慄する吉田の誤解を、佐藤がそっと訂正した。まあ、いっそ殺してやろうとかまるで思わなかったというのも、嘘になるかもしれないけども。自分が通りかからなかったら、こいつはあのまま吉田を斬っていただろう。今はもう過ぎた可能性だというのに、思うだけで怒りが沸騰する。
 死んでない、と解って吉田もほっとする。しかし、最初の懸念は消えてはいない。
「えーと、それじゃ奉行所とか……」
「いや、後で俺の知り合いが回収してくれるから。いいから、行こう」
 え? 知り合いって?回収って??と吉田はむしろ疑問が増えたのだが、それを口にする前に佐藤が腕を引っ張って連れて行く。少々乱暴な行為に、吉田はむぅ、となったが腕を引く佐藤の顔を見て、自分の些細な不満をぶつけるのは阻まれた。
 なんだか佐藤は、まるで迷子にでもなっかのような、とても心許ない顔をしていた。
 それがしばしの別離を覚悟した故からの表情だと吉田が解るのは、もう少し後の事だ。


 佐藤の泊まる部屋に入ったのは、初めてだ。思いの他、物が無い。
 宿屋の部屋だとしても、結構滞在しているのだから、もう少し私物があって然るものだと思ったのだが。
 そうやって吉田が興味深く、きょろきょろとしている様子に佐藤はとっくに気付いていたが、咎める事無く好きにさせている。むしろそれを見る佐藤の口元には微かな笑みが灯っていた。
「酒でも飲む?」
 直接杯を交わした事はないが、吉田が結構いける口だというのは、普段の会話で何となく察した事だ。そして、飲酒自体も吉田は結構好んでいる。今だって、佐藤の台詞を聞きとった吉田の表情には、ひたすら歓喜が満ちている。
「いいの? ってか、あるの!?」
「ああ。そんなに多くはないけど」
 そう言って、吉田は徳利を取りだす。
 正直言って、これは別れの際に吉田に渡すつもりで購入したものだ。しかし、こういう流れになったのだから、いっそ一緒に飲もうと方向を変えたのだった。佐藤は一口二口しか飲むつもりはないし、残ったら改めて吉田にくれてやればいい。
「――って、酒もいいけどその前に!」
 御猪口を到達ついでにつまみになりそうなものでも持って来ようかと、思っていた佐藤だが吉田がそんな呑気な思考を振り払うように叫んだ。
「さっきの男は?! 何で俺狙われたの!? ここまで来ちゃったけど、あのままホントにほっといて良かったの!? なあなあ!!」
「解ったから、ちょっと落ちつけって。外に声が漏れるぞ」
「……っっっ!!!」
 吉田は謂わば招かれざる客で、牧村以外の従業員に見つかられると多少厄介になる。慌てて、手で口を塞ぐ吉田。目を白黒させての行為に、佐藤がそれでは窒息するだろうと手をそっと外した。
 口を塞ぎ過ぎたせいで軽く酸欠だった吉田は、佐藤が手を外してくれた事でぜーはーと必死に呼吸する。
「そんなに気になる?」
「気になるよ! 誰!? っていうか、何!??」
 反省した吉田は、今度は小声で叫んでみた。
 どうも引きそうにない吉田に、佐藤はんー、と小首を傾ぐ。出来る事なら、吉田には何もする事無く済ませたかったのだが、ここまできっちり巻き込まれては説明無しの方が酷だろうか。あまり、教えて気分の良い話しでも無いのだけど。
「吉田、下駄ちょっと貸して」
「へ? ……うん」
 何せ自分が居ると言う証拠を残したくない吉田は、下駄はそのまま持って来たのだ。土がつかない様にして。
 鼻緒を持って掲げた下駄を、佐藤は1つだけ取る。それは、代理の紐で鼻緒を結んだものだ。そういえば、佐藤はこの下駄をやけに気にしていたような気がした。まあ、左右で違う紐が気になっただけかな、と吉田は勝手に解釈していたのだが。
 佐藤は、手にした下駄の鼻緒をするりと解く。再び1本の紐になったそれを、佐藤は更に解く。
「……あっ?」
 吉田が声を上げる。その紐の中から、更に紐が出て来た。より詳しく言うなら、その紐を隠すように周りを編み込んでいたような感じだ。さらに、中心にあったそれも紐では無くて。
 それは丸められた布であり、開いてみせるとびっしりと何事かが書かれてあった。ナニコレ!と表情だけで驚愕する吉田。
「これは、盗品の目録だよ」
「えっ、目録……?」
「つまりは何がどれだけあるかっていう表だな」
 目をぱちくりする吉田に、佐藤がさらに詳しく説明する。
 それで、と佐藤が続ける。
「この前、吉田の言ってた変な木片ってヤツ。それは割符だと思う」
「わり……ふ?」
 今度は完全に理解不能、と目を殊更点にする吉田。まあ、こういう反応だろうと佐藤はとっくに予想済みだ。
「言ってみれば、一種の身分証明書みたいなものかな。例え相手の顔を知らなくても、自分の持ってる木片とぴったり合う木片を持っていたら、そいつは仲間だって解るだろ?
 前に転がっていた死体は、おそらく割符とこの紐の本来の持ち主だ。あるいは、盗った方かもしれないけどな。
 けど、折角殺した所で肝心の割符が見つからない。物がものなだけに大っぴらにはさがせず、その為の行動が幽霊の勘違いの元になったんだろう」
 そして、と佐藤は続ける。
「そんな中、よりによってその紐を鼻緒に使っている人物と出会った訳だ。つまり、吉田の事だな。すぐに殺して紐を奪わなかったのは、割符の存在があったからだ。この2つが揃わないと取引出来ないんだろう」
「ああ、なるほど……」
 佐藤の口上に納得しつつ、そう呟いて吉田はん?と思い当たる。先ほど佐藤は、盗品だとかいう単語を言って居なかったか?
「て事は、ど、泥棒……盗賊!!?」
「まあ、そうなる」
「そうなるって、そんなしれっと!」
 大した事はない、とでも言いたげな佐藤に、吉田は今夜何度目か解らない狼狽をあげた。
「さ、佐藤は……知ってた、の?」
 その落ちつき払った態度に、まさかと思いながらも吉田は聞いてみた。
「…………」
 やはりというか、佐藤は中々答えない。ただ、俯き加減で壁に背を預けるよう、憂いた表情でいる。
 ふっ、と息を吐いた後、
「……片付く時は、一度に片付くもんなんだよな」
「へっ?」
「折角捕まえるまでは、って駄々こねてもっと吉田と居ようと思ったのに、あっさり捕まって……こそこそするならもっとこそこそしろよな」
「………え、な、何?」
 何に対して憤ってるのか、吉田にはチンプンカンプンだ。ただ、やっぱり、佐藤はあの尾行者にして不審者、果てには盗賊であるというあの男の事を知っていたようだ。いや、推理で導き出したといった方が正しいか。
 それでも、巷をにぎわせた幽霊の正体が盗賊であると思い至る為には、あらかじめ盗賊の存在を把握している前提があったと思われるのだけども。果たして単なる町人が知り得られる事実だろうか。
「佐藤って……何者なの?」
 何度問いかけたとしれない質問だ。その度にはぐらかされて、まあいいかと引けたのは明日も会えるからと思っていたからに他ならない。
 でも、今日は。
 多分、明日にでも。
 おそらくだが、さっきの男を仕留めた事で、探し物を見つけたという佐藤が、此処に留まり続ける理由がついに無くなったと見える。だからこんな不貞腐れているのだろう。
「…………」
 吉田の問いかけに、またしても佐藤は無言だ。
 けれどもそれは、いつものようにはぐらかす為ではなく、言いだすきっかけを掴みかねている為だと、吉田は何となく感じ取り、無言のままを攻めるでもなく、待つようにじっと座る。
 と、その時、今までは雲にさえぎられていた月明かりが窓から差し込む。太陽に比べればあまりに儚い光だというのに、いっそ眩しさすら感じられた。その時に、佐藤の目が細められたのは、月明かりに眩んだのか、決意を決めたのか。
 顔はまだ合わせないままに、佐藤が独白でもするかのように呟いた。
「もうすぐ、次期将軍が”死ぬ”よ」
「は……はぁぁぁッ!!?」
 あまりに唐突な内容に、吉田は再び立場を忘れて叫んだ。
 確かに、現将軍の息子、つまりは世継ぎとなるその存在は、あまり公にされていない。その上、微かに漏れる噂によれば、見るに堪えない無残な姿だとか、絶世のつく美丈夫であるとか、全く合致しない。が、以前は醜いという噂ばかりしか、聞いて居ないような気がする。見目麗しい等と実しやかに囁かれたのは、ここ最近の事だ。その事実に、西洋から魔法使いを呼んで姿を変えたのだとか、より一層荒唐無稽の流言飛語まで飛び交う始末だ。確かに存在が認められているのに、詳細が不明という点では佐藤と同じと言えなくもないだろうか。
 などと思っている場合では無い。今、佐藤はそのお世継ぎが死ぬだのとか言った。これは色んな意味で聞き捨てならない。いくら慎重深さとは無縁の吉田でも、聞き洩らす事は無かった。
「し、死ぬ……って?」
 動悸を齎す程の動揺を抱え、吉田は辛うじて尋ねる。だって、それが嘘ではないのだとしたら。それを事前に知り得ているのはそれを実行しようとしている人物になるではないか。だったら、佐藤は……
 しかし佐藤の方は、吉田とは裏腹に却って晴れやかとも言える表情を浮かべていた。秘密を話せる、という開放感の為だろうか。
「でも、弟が見つかって、許嫁もその弟と一緒になるのを約束してくれるから、政治は乱れないよ。吉田達の生活に大きな支障は出ない」
「お、おとうと……?」
 佐藤がすらすらと話す未来図に、吉田はついていけずにもはや呆然としてしまう。一体、何がどうなっているのか。
 でも吉田は、今の佐藤の台詞に気になる所を見い出していた。見つかって、という点だ。
 佐藤は、ここに「探し物」をしに来て、ついぞ前に「見つかった」と言ったのだ。
 佐藤の探し物は――見つけたものは。
「…………」
 まさか、とは思う。それよりも、佐藤が次期将軍暗殺者だと言った方が、信じる人は多いかもしれない。
 けれども、佐藤が本当に「その立場」であるなら、組織化して巧妙な取引手段を扱う盗賊団の事を、耳に入れる手立てくらいきっとある。ついでに言えば、山中のあの態度も頷ける。
「………………」
 言葉なく、ただただ驚愕に目を見開いて佐藤を見つめる吉田。
 さすが、いくら鈍感な吉田でも気付いたか、と佐藤は可笑しそうに笑う。
「自由になりたい訳じゃないんだ。たった一人の、傍に居たい人の元に居られれば、それで」
「…………」
 佐藤が暗に指す人物が誰か。この場でそれが解らない程、吉田も愚鈍では無かった。いっそそうであったなら、という程に、さっき以上に胸が動悸して――でも、嫌ではなかった。決して。ただただ、自分にそこまでの価値があるのか。あるのだと何故佐藤が思えるのかが、吉田の頭や胸をかき乱す。
「さ、さとう……?」
 然程距離の開いてる2人では無かったが、佐藤がその間をさらに縮める。佐藤が、佐藤の顔がどんどん近づくが、吉田は金縛りでも受けたかのように、微動だにしなかった。身体がこれ以上近づけなくなると、佐藤は顔だけをさらに吉田へと寄せる。どんどん、どんどん。
 このままだと、口同士がくっついてしまうのではないか。その意味もきちんと知っている吉田だが、何故か避けようという気は起きなかった。
 そして、ついに触れてしまうと言う寸前――
(………あ、)
 本当に、これ以上ないというごく至近距離。そこまでの近さになった時、覗き込んだ佐藤の双眸の中、吉田は過去の出来事を思い出す。
 この辺りにある大きな河原で、身をちぢこませて座る自分と同じくらいの少年。吃驚するほどの肥満体で、いっそ感心出来てしまう程だ。
 その背中が、孤独を嫌っている癖にそれ以上に声を掛けてくれるなと訴えているようで、吉田もどうしたものか、と後ろで何となく少年のを眺めていた。
 そこへ、別の集団がやって来た。案の定、太ったその少年は彼らの格好の餌食となった。喧嘩は自分もやるけれど、多人数が一人を囲むだなんてもっての外だ。吉田も腕に覚えがあるのだが、いかんせん多勢に無勢だ。何かの拍子で転がって、その先に尖った石を見た所で記憶が不自然に途切れる。
 その後、次いで記憶になりそこねた光景の断片が舞い落ちる花弁のように吉田の脳裏を舞う。血痕が落ちる地面。悲鳴のような声を上げる子供たち。動けないで居る太った少年。その少年の目が、今の佐藤にそっくり。吉田はそう思えた。
「…………」
「…………」
 佐藤が離れ、2人は無言で見つめ合った。何故か、仕掛けた佐藤の方が驚いている風な顔だ。
「避けなくて良かったの?」
 おまけにそんな事を言う始末。いっそ毒気を抜かれ、吉田は呆れる事は無かった。
「……避けた方が良かった?」
「いや………」
 佐藤だって、受け入れてくれた方が拒まれたより、何倍も何十倍も何百倍嬉しいが、吉田の方はそれで良かったのかと。
 照れているのか、変な顔になって俯く佐藤に、吉田は何だか笑えてしまう。あはは、と声も出てしまい、さすがに佐藤も恨み節を聞かせてじろろと睨む。ただ、顔が赤い為に迫力が欠け落ちて居たが。
「何かね、……うん、何か」
 吉田は探し忘れていたものを見つけた様な心地だった。なんだか、とてもいい気分だ。佐藤は、もうすぐ居なくなってしまうのに。
 でも。
「……また、会えるんだよな」
「うん」
 それでも微かに感じる不安をなぎ払うように、佐藤はしっかり頷く。
「そっか。……なら、いい」
 さっき脳裏に閃いた記憶の数々を確かめるのは、その時にしよう。
 次の再会の為に、佐藤がかなり無茶をするのは目に見えている。いっそやるなと止めてやるのが吉田の立場かもしれないけど、後押ししてしまうのはやっぱり自分も佐藤と居たいから。吉田のそんな内情が佐藤にも伝わったか、佐藤は穏やかに笑みを浮かべた。
 そして、やおら立ち上がる。
「それじゃ、吉田」
「……え、もう?」
「これ以上居ると未練が残るし。……俺はそんなに強くない」
 自嘲気味に佐藤が笑う。折角佐藤に勧められた酒も飲めていないのだ。せめて一杯くらい、と思っていたけど、そういう佐藤の顔を見るととても言い出せない。
「なら、また戻って来たら、一緒に飲もう?」
 酒を受け取り、吉田が言う。吉田の言葉に、佐藤は一回瞬きをし、それからすぐに嬉しそうに破顔した。
「そうだな、楽しみがあった方が頑張れる」
「…………」
 やはり、佐藤でも大変だと思っているようだ。当然だけども。
「――さよなら」
 最後に、軽く吉田の額に唇を当て、佐藤は今度こそ部屋を出る。
 ぱたん、と襖が閉じ、佐藤の姿は見えなくなった。今は薄い襖越しだけども、暫くは声も手も届かない所へ佐藤は行ってしまう。
「………」
 その僅かな時間と距離の中で、何度駆け寄って止めようと思い、それを堪えた事か。
 一人、部屋に残った吉田は、膝を抱え蹲る。落ち込んだり泣いたり、そういう事は今この場で気が済むまでやって、明日甘味屋に出向く頃にはいつものように笑えるようになろう。きっと難しい事では無い。また会えると、佐藤も言ってくれたのだから。
 吉田が懸念した通り、佐藤が去った後の生活は、佐藤の訪れる前に完全に戻る事はない。
 ――だけど、そんな生活は、きっと悪いものじゃない。
 泣き疲れて寝入ってしまった吉田だけども、その口元には薄っすらと笑みさえ浮かべられていた。



<終>


*終わりですけど、後日談があります!ひぃ〜まとめきれなかった…;;