冬の夕暮れはあっという間だ。夕方になったと思えばすぐに空は黒色に染まっている。
 そのおかげでより鮮明に煌びやかになった街頭やこの季節の為のイルミネーションの中を潜り、満腹の為にご満悦な吉田は寒さも気にならない程だった。まあ、この雑踏のおかげとも言えなくもないが。人ごみに埋もれる吉田の場合、その雑踏が防風堤みたいになってくれる。
 しかも今日は24日、クリスマスイブ。普段の休日より人ゴミは1,5割増くらいはあるかもしれない。
 明日、佐藤の部屋で過ごすつもりなので、今日は外に出て遊び倒すのだ。そう、年末年始は実家に佐藤が帰ってしまう分も。
 そしてその締めくくりの夕食は、佐藤の勧めるカフェレストランへと行った。今はその帰りだ。
「あー、美味しかったなー。パスタって種類あんなにあんだな。今で知らなかった」
「ふーん、そんなに気に入ったなら、まだ今度行こうか?」
 尋ねる佐藤に、吉田はうん、と答えた。
 その店は本当に良かった。価格もボリュームも、男子高校生にも厳しくない設定で、何より美味しい。
 単純かもしれないが、人なんて美味しい物を食べればそれだけで機嫌がよくなるものだ。
 だから、店内に居る間、給仕係(女)の人たちが影からこっちを窺っていたり、やたら水の量を気にしてきたり、はたまた客の中でBGMに紛れるように佐藤を写メって居た人が複数いても気になら……いや、やっぱり気にする。ていうか思い出さなければ良かった。
 学校の通って校内中の女子を虜にする佐藤は、町中に出れば当然通行人を魅了する。でもそんな風になるのは佐藤の意図する事ではないから、責めるのはお門違いだと解っていても、なんかこう……こう……やっぱり気になるじゃないか!
(それに、ちょっとトイレに立っただけでその間にもう女子に話しかけられてるし……俺が戻れば相手にしかめっ面されるし…………)
 佐藤との外出(デート)は勿論楽しい。
 でも、こういうオプションがもれなくついてくる。
 そーいや山中も学校では嫌われ者もいい所だけど、事情を知らない他人から見たら普通のイケメンだよな……とらちん、同じような目に遭ってるのかな……と吉田の思考が明後日に飛び始めた。
「吉田」
「んえ?」
 そんな状態で突然呼ばれたので、妙な声で返事してしまった。顔を赤らめる吉田。佐藤は、綺麗に微笑む。
「今日、とても楽しかったよ。ありがとな」
「……いや、ありがとって………まぁ……うん……」
 俺も楽しかったし……とさっきとは別に紅潮して、ごにょごにょと付け足す。
 そんな吉田を、佐藤は優しく見ている。その様子を見て、今の「ありがとう」には今日一日、佐藤に対する女性達の反応にヤキモキしながらもそれを佐藤にぶつける事無く過ごした事への労いだったのだろうか、と思えてきた。それが正解かどうかは、恥ずかしくて訊けなかった吉田には判らない事だ。
(もしそうなら、余計に「ありがとう」とか言わなくてもいいのにな)
 確かに我慢してたし、気持ちのいいものじゃないけど、嫌々佐藤と居る訳ではないのだから。
 恥を恐れずに大胆に言うのなら、俺の愛情見くびるなよって感じだ。
 佐藤は、吉田の全部を見透かせれる訳でもない。今、吉田が少し脹れてる理由は解らないが、そんな吉田が可愛いのでじっと眺めていた。表情から察するに、フォローが要る段階でもないみたいだし。
(吉田とイブも当日も過ごせるなんて……夢みたいだ)
 これで人生全ての運を使いきったとして、何の後悔も無い。むしろ十分過ぎるくらいだ。
 クリスマスのイルミネーションに彩られた街を綺麗だと思えるのも、これが初めてだ。去年まで、家族なりクラスメイト(勿論女子)なりが外に行こうと誘っても「人混みは嫌い。だから一人で過ごす」の一言でばっさり切り落として来た。実際、自分の外見だけを見て色めき立つ反応は学校生活で嫌というくらい味わっているのだから、この上普段より人の増した中で同じ思いをしようなんて、それこそマゾでもないのだからあり得ないと佐藤は思う。
 もちろん今でもマゾではないが(むしろ逆だが)こうして町中に繰り出すのは吉田と一緒に色々遊びたいからだ。吉田と居ると何でも楽しく思えるし、女子の反応は相変わらずだけど、それにヤキモキしてる吉田が可愛くて気にならない。むしろ吉田の方が気にしてるだろう。
 なるべく女子の気配の薄い道を選んだが、やっぱり完全に排他とまではいかない。今日、気苦労かけ多分も、2人きりの明日で存分に償ってあげよう。そう、うんと優しくして愛を囁いて強く熱く抱きしめて、そんな自分を吉田がもっと好きになってくれて、離れられないようになって貰えたら!
(っていうか、もういっそどっかに閉じ込めておきたいよなー)
 ふふ……とドス黒い事を考え始めた佐藤に、最近S気に敏感になった吉田がビクゥッと怯えた。


 どろっとしたオーラを噴出してる佐藤を見て、明日は部屋に二人きりだというのにのこのこ赴いて大丈夫だろうか、と一瞬だが吉田はかなり不安になった。それでも撤回しない辺り、やっぱり自分は佐藤が好きなんだろう……と、吉田は思う。
 正直、冷静に佐藤のどこが好きかと問われたら、すぐに建設的な意見は返せないと思う。佐藤は確かに美形で格好良くて、あるいは同性でもクラリとするかもしれないけど、吉田は間違ってもそういう人種ではない。山中の一件がとてもいい例だ。
(あーあ、ホントに、俺は佐藤のどこが好きなんだろう………)
 もしかしたら身の危険が及ぶかもしれない明日を控え、風呂上がりで自室でうだうだやってる吉田はそんな事を思う。
(ドSだし、意地悪だし、怖いし………)
 でも、好きか嫌いかで問われたら。
 好き。
 と、言うしかないくらい、好きで。
 今日遊んだばかりなのに、明日を楽しみにしてくらい、好きだ。
 湯上りじゃなくて、別れ際にされたキスを思い出すだけで顔が熱くなる。
(だだだだって! 今日のは道端だってのにまた凄いのしてきて………!!)
 腰が砕ける寸前だったんだぞ! うわーんっ! と吉田は布団の上に突っ伏した。
(……明日、帰る分の体力残してくれるといいな……)
 明日は平日なので、佐藤の姉は夜には帰ってくる。
 まさか初対面を、動けなくてベッドの上という状態で果たしたくはない。絶対に。
 突っ伏した状態からごろりと横向けになった吉田は、今日来て行ったダウンジャケットを眺める。
 正確には、そのポケットに入りっぱなしの物を。
(明日こそ、あれ、渡さなくちゃなー)
 本当なら、今日、渡すつもりだったんだけど。
(帰り際にあげようと思ったんだけど……佐藤があんな事するから! するから〜〜〜〜!! も〜〜〜〜〜!!!)
 あうー、と真っ赤になった吉田は、布団の上でじたばたした。
 佐藤のバカ! と最後にひと吠え、胸の中であげて。


 何回来ても、このドアの前に立つと入る時は少しだけ緊張して、出る時は少しだけ後髪を引かれる。
 少し脇にあるチャイムを押すと、程なくしてドアが解錠される音がした。ガチャリ、とドアが開く。
「あー、お邪魔しま……おわぁっ!?
 にゅっと飛び出るように現れた腕に、ぐいっと力一杯に引っ張られて吉田は玄関に連れ込まれた。
 強引に引っ張られたせいで体のバランスはすっかり失い、倒れる事を頭の隅で予想したがそれは覆される。
「吉田vvv」
 何かもう、最初から色々全快な佐藤に、ぎゅぅぅと抱きしめられたからだ。
「ちょ……バカ、佐藤! 靴! まだ履いてる!!」
 床が汚れるだろ! と吉田は抱きしめられて慌てふためきながらも、冷静に突っ込んだ。
「ん? ああ………」
「うわぁぁっ!?」
 ひょいと軽々抱き上げられ、吉田は素っ頓狂な声を上げてしまう。そのまま、吉田を横抱きにした佐藤は靴を脱がし、玄関口にきちんと揃えて置いた。
「これでいいよなv」
「いくない! 降ろせよ―――――!!!」
「他に誰も居ないのに………」
「そういう問題じゃないッ!」
 吉田がそう言うので仕方なく、という具合に佐藤は吉田を床に下ろした。
 むぅ、と佐藤を睨んでみるものの、佐藤はそんな表情を「可愛いね」とでも言いたげに見つめ返している。
(……最初からこんな調子で、無事に過ごせるんだろうか……)
 恙無く済ませる自信なんてさっぱりない吉田だった。
 やっぱり、というか、帰省を吉田に告げた後から、佐藤は何となくスキンシップ過剰になったように思える。別に回数が増えた訳じゃないが(そもそもあれ以上にする方が難しい、というくらい吉田は常にちょっかいかけられっ放しだし)その一回一回が妙にいつもよりドキドキする。吉田が意識し過ぎかもしれないが、向こうもそういうつもりでいると吉田は思っている。
「お姉さんは、何時帰ってくるって?」
「普段よりは遅いとか言ってたかな……あっちはあっちでパーティーするって」
 そっか、とリビングへ向かう廊下で吉田が呟く。吉田の家にあるのとは違い、センスのいいツリーとすれ違う。
 今日はとにかく、室内でゆったり過ごすつもりなので、昼はピザを取って、佐藤の借りて来たDVDを見ながら済ます事になった。
「映画って、また恐いヤツとかじゃないだろうな」
 うっかりお化け屋敷が苦手だという自己申告をしてしまった為、それを知った佐藤から「怖がる吉田も可愛いなーv」とか色々散々な目に遭っていた。
「いや、コメディもの」
 一応、作品内の時期がクリスマスのヤツだよ、という説明を聞いて、吉田は心底ほっとなった。
「じゃあ、とりあえず、ピザでも頼むか」
 うん、と頷いて、チラシを携える佐藤の傍へと吉田が赴いた。
 近づいた吉田の頭に、佐藤が軽くキスをするのは定型美だ。


 映画はとても面白かった。見ていて、声を上げて笑うくらいに楽しい内容で、同じ場面で佐藤と笑いが重なるとちょっと嬉しいものも感じた。
 見ながら食べたせいか、頼んだ物はピザを含めついでに頼んだサイドメニュー共々無くなっていた。
「面白かったなぁー、今の」
 DVDに収められていた特典映像も全て見つくし、回収しに立った佐藤に向けて吉田が言う。
「そう? これシリーズものだから、残りもまた今度借りて来よっか」
「あー、うん、ちょっと見たいかも」
 了解、と軽い調子で佐藤が返した。
 笑いまくって喉が乾いたような吉田は、クリスマスフェアだとかでおまけについてきた缶ジュースをごくり、と飲んだ。そう大した量が残っている訳でもなかったので、そのまま全部飲み干した。
「なあ、空き缶って……」
 どこに捨てる? と聞こうとする吉田のすぐ横に、佐藤が座る。ソファが少し軋んだ。
 佐藤は、何を言うでもなく静かに吉田を見つめている。その視線によくないもの(吉田視点)を感じて、ごく、と喉がなった。
 予兆を感じさせないほど静かに唐突に、顔を寄せた佐藤だが、生憎それ以上に素早かった吉田の手によってそれ以上の接近は阻まれた。
「…………。オイ」
 不機嫌を露わにした声で言うと、早速真っ赤になった吉田は喚くように言った。
「オイじゃないだろ! さっきまでピザとか食ってたんだぞ、バカ! ガーリックとか書いてあったし!!」
 そんな口ににキスしようとする方が間違ってる! と吉田は主張する。力一杯断言する。
「ふぅ……何ていうか、乙女だな、オマエ」
 やれやれ、と佐藤は呟いた。
「……悪かったな。似合ってなくて………」
 脹れた顔で吉田が言う。
「アホ。可愛いって言ったんだ」
 とてもそうとは取れなかった、と吉田が反論しようと口を開くと、そこに何かが放り込まれてる。目を白黒して不意に飲み込んで仕舞わないように気を付けいると、それが飴玉だと解った。何か、甘酸っぱくてスースーする。
「は、薄荷?」
 口に含んだまま喋ったので、もごもごっとした発音になった。
「正確には青りんごミント」
 なるほど、ミントだからスースーするし、青りんごだから甘酸っぱいのか。吉田は納得する。
 と、言うかこんなの用意してるなら最初からそうしてくれたら良かったのに、というかする前から全て俺の心境お見通しかよ! とクールな芳香に満たされる口内とは逆に顔は熱くなっていく。
 その熱が上昇する様を、やんわりと吉田の手をどけた佐藤は至近距離で堪能した。
 この飴が無くなると同時にキスされるんだろうなー、ものすごいのを、と思いながら真っ赤になった吉田は飴を舐める。
 キスは飴が無くなってから、という吉田の考えは甘い。今舐めている飴よりも甘い。
「ああ……そういえば、俺も同じの食ってたっけ」
 佐藤がまるで独り言のように呟く。
 そして、その手が吉田の顔に向かって伸びる。手が大きく開き、吉田の顎の両サイドをぐっと抑える。骨格の関係で、そこを押さえられると本人の意思も無く口は開く。
 吉田が気づいた時はすでに遅く、ぱかりと開いた口から飴が零れる前、佐藤の唇がそれを防ぐ。
「ん………ん―――!! む゛――――――ッッ!!」
 吉田の口にある飴に、佐藤の舌が絡む。必然的に吉田の舌もそれに巻き込まれ、吉田は目を丸くして口を封じされたまま叫んだ。ばたばたと足が暴れる。
「う、ぅ……んっ、はっ……う、ん――………っ!」
 飴を舐めるという動作が追加されたせいか、いつもより舌の絡まる音も、吉田の息づきの声も大きくなったように思える。
(は……恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい―――――!!)
 耳の中から聴こえるピチャピチャとした艶めかしい音と、今まで聞いた事も無かった自分の声に翻弄され、吉田はパニックに陥った。それまで朴訥で素朴な学校生活を送って来た事もあって、免疫は未だに出来にくい。しかも、こんな激しい口づけときては。
「んあ、ぁ……は……ぅ………」
 障害物(飴)がある為、佐藤が合わせる唇の位置を変える時、大きく空いた隙間から息混じりの吉田の声がする。それに煽られるように、佐藤はさらに吉田の背を抱き、自分へと寄せる。もう抱擁なんてレベルではなくて、互いの体を擦り合わせるようになっている。
「うぅー………っ……」
 身長差のせいで下側になった吉田に唾液が溜まる。それが気管に入って咽ないようにと、佐藤がこまめに舌で掬いあげて、飲み混む。その口の中の感触と、音と、密着した佐藤の胸部が蠢くのを感じ、自分の唾液を佐藤が飲んだと理解した頭が蕩ける。
(は、早く終わって……もう…………)
 正常な機能を期待出来なくなった頭で、吉田は思う。このままこんなキスをされ続けていたら、本当に可笑しくなってしまう。今だってもう、行動で制止の意を表しようと思っても、手が全く動かない。気づけば、暴れていた足も大人しくなっていた。 動け、といくら吉田が念じても通じない。
(ま、まさか本当に可笑しくなったんじゃ………)
 その時背筋に感じたゾクリとしたものが、それに対する恐怖かあるいはそれ以外かは、今の吉田には到底判断出来る事ではなかった。
 色々と感覚が麻痺し、いい加減呼吸すら覚束なくなった頃飴玉は大分小さくなり、佐藤はそれを自分の口内に招いた。それと同時に、唇を離す。かなり濃厚に触れ合っていた為、どこともなく繋がった銀糸が二人の間につぅと伝わった。儚いそれはすぐに途切れて、吉田の顎に落ちる。あ、冷たい、と吉田はその感触で少し我に返った。
(終わっ……た………)
 キスが終わったのを、吉田はこの時ようやく気付いた。そして、何時の間にか目を瞑っていたのにも。
 今のキスで、体中の力を奪われたような吉田は首の据わらない赤ん坊のように佐藤に抱かれている。吉田の体の側面が佐藤に凭れかかっている。佐藤が支えている手を離せば、そのまま後ろに倒れてしまうだろう。佐藤は決してそんな事はしないが。
「吉田? 吉田?」
 どうやらかなりぼぉっとした顔をしているらしく、佐藤が意識を確認するように呼びかけ、頬を軽く叩く。
「うー…………」
 寝起きに上げる呻きのような声を吉田が発した。段々と、順調に平常に戻りつつあるが、まだ時間はかかりそうだ。今は目を開ける事すらままならない。
 視界は開けてないが、すぐ傍の佐藤が笑ったのが解った。
「吉田可愛い」
 顔が真っ赤で、とご機嫌な口調が聴こえた。
「か……かわいく……ない………」
 考えのまとまらない吉田は、言われた事に返事した。
「だって、本当に可愛いよ。またキスしていい?」
「え……ぁ………」
「ダメ?」
「……ダ、ダメ………死ぬ………」
 息も絶え絶えに言う吉田に、佐藤がまたクスっと笑った。
「死なれるのは、嫌だな」
 そう言って、佐藤は額に軽く口付けた。
「……う………」
 と、呻いて吉田は身じろぐ。
「はあ……もう、お前、飛ばし過ぎ………」
 大分回復してきた吉田は、愚痴を零し始めた。
「そう? 俺としてはかなり抑えたんだけどな」
「…………」
 全力全開になった暁には、どんなものなんだろうか。想像もつかない、というか考えたくもない。しれっと答えた佐藤に、吉田は少し血の気が引いた。
「いや、お前が抑えたつもりでも俺にとってはワギャ―――――ッ!!
 吉田のセリフはまだ続いているというのに、佐藤は服の裾を掴んでべろん、と捲り上げた。臍から胸部の下くらいの素肌が晒される。
「なっ、なんっ、なっ、なっ、何すんだ佐藤――――――!!!?」
「そんな真っ赤になって目ぇ回さなくても、無体な事はしないってば」
 佐藤はあやすように言うが、合意も無しにいきなりファーストキスを奪った相手に言われても、吉田は納得できない。しかも、ソファの上に押し倒されながらで。
(わ、わ、わ! どうしよう! どうしよう――――!!)
 捲られた衣服は首までたくし上げられ、上半身はほぼ露わにされている。ごそごそと脇腹辺りを掠める手が、いつ腰の下に降りるのだろうと思うと吉田は気が気ではなかった。心臓が体内で爆発しそうだ。
「ひゃっ!……く、くすぐったい………」
 頭部を胸に擦りつけるように、佐藤がすり寄った。サラサラの髪が肌の上で滑り、こそばゆい。
「ね、吉田」
 うう、顔を寄せたまま喋るな……と吉田は胸中で唸った。
「ぎゅってして。頭と肩に手をやってさ」
「え……こ、こう………?」
 言われた通りに手を当てると、密着の度合いが増した。
「うん、そう。……あー、いい感じ」
 そりゃ佐藤はいいよな、してる側なんだから……と思いながらも、吉田は抱き寄せるような手を離さなかった。
「はは、吉田の心臓、凄いドキドキしてる」
 胸にぴたりとくっついているのだから、それはとても解り易い。
「だ、誰のせいだと思ってんだよ………」
「俺のせいだよな」
「……そ、そーだよ……」
 何だこのやり取り、と吉田は自分に突っ込んだ。
 佐藤も吉田の背に手を回し、抱きついたまま横たわるような格好になっている。佐藤が体勢を気遣ってくれてるせいか、吉田は特に苦しくはなかった。最も、今はそんな物理的締め付けより、抱きつかれてる事による動悸でよほど苦しい。
「吉田の匂いがする………」
「…………!!」
 そんなまた、脳が沸騰しそうな事言うし。
(もーヤダ………)
 真っ赤っかになって、半泣きの顔をするが、やっぱり手は外さない吉田だった。
「ま……まだ……?」
「まだ」
「ならせめて服………」
「だめ」
「うー…………」
 言う傍から切り落とされて、吉田に打てる手はなくなった。佐藤の気の済むまで、こうしてるしかないのだろう。吉田の出来る事と言えば。
「ほ、ホントにこれ以上の事はしない………?」
 恐る恐る吉田が訊く。
「うん、しないよ」
 今日はね、というのは胸の中でだけ言う佐藤だった。
「今日は、ひたすら吉田とスキンシップするだけ」
「うーん…………」
 確かにスキン(肌)だけども。
 それきり、佐藤は口を閉ざした。沈黙を選んだのでは無いだろうが、触れ合う事に集中しているようだった。吉田からは佐藤の頭頂部しか見えないが、目も閉じているのでは無いだろうか。
 佐藤より遥かに背の低い吉田にとって、佐藤の頭頂部なんてなかなか見れる光景ではない。実際は横になっているのだが、まるで上から見下ろしているような感覚にある。佐藤が自分より小さくなったみたいな気がして、吉田は何となく髪を撫でてみた。さらりとした艶やかな黒髪が指の間からさらさらと零れる。固い癖っ毛の自分とは大違いだ、と吉田は思った。
 ふ、と佐藤の口の形が変わるのが解った。笑みの形だ。
 吉田は自分のしている事に少し羞恥を覚えたが、佐藤が喜んでいるようなので、ぎこちない手つきで撫でる。
「……吉田」
「えっ?」
 不意に名前を呼ばれ、手が止まる。
「今、俺、凄く幸せ……」
「そ、そう?」
「うん………」
 そう言って、佐藤はまた吉田に身を寄せる。
 と、その時、テーブルの携帯がけたたましく鳴った。声こそあげなかったが、ほとんど無音だった室内にいきなり音が響き、吉田はビクゥッ!と見っともないくらい反応した。
 自分のでは無いからすぐに解る。他には誰も居ないのだから、佐藤の携帯が鳴っていた。
「さ、佐藤。携帯…………」
「いいよ。ほっとこう」
 佐藤はまるで不粋だ、と思っているようだった。
「だ、だめだって。緊急の用事だったらどーすんだよ」
「…………」
 吉田がそう言うと、渋々佐藤が起きあがる。何だか、随分と久しぶりに佐藤の顔を見たような気がした。吉田が撫でていたせいか、髪が少し乱れている。
 身を起こした佐藤は、移動はせずに手だけ伸ばして携帯を掴んだ。面倒臭さそうに眺めるその顔が、何かを確認したのか一変した。
「姉ちゃんだ」
 そう呟いて、電話に出ると同時にキッチンカウンターの裏へと移動した。声は聞こえるものの、その内容までは解らない。
 ソファに残された吉田は、ようやくのそのそと起き上がった。ふう、とようやく一息つく。
 そして、何とも言えない顔で俯いた。その顔は勿論赤くて。
 あれだけくっついている時は、熱くて恥ずかしくて堪らなくて、早く離れて欲しいとも思っていたのに、いざ離れられると寂しいと思った。
 結局、吉田にまだ恥やためらいが残っているだけで、思う事やしたい事も同じなのだ。でなければ、どんなに強引に迫られたとしても、受け入れる事なんて出来ない。
 はぁ、と今度はため息のように息を吐いて、こてん、とひじ掛けの部分に凭れた。
 もっと、佐藤と一緒に居たい。
 時計を見て、居られる時間を逆算している自分に吉田は気づいた。
 まだ結構あるけれど、当然だがいつかは終わりがやってくる。それを思って、吉田は顔をくしゃりと歪めた。
 今度は、ソファの上で膝を抱えて蹲った。そして、小声で呟く。
「……帰りたくない……なー………」
「吉田?」
 タイミングよく呼ばれ、一瞬聞かれたのかと思った。
「わっ、な、何? お姉さんなんだって!?」
 戻ってみれば、吉田が膝を抱えて蹲っていたから、どこか不調でも出たかと思えばそうでもなかったみたいだ。佐藤は言った。
「いやな、姉ちゃんが今日は帰らないって」
「えっ?」
「パーティー会場近くの友達の家に泊って、翌日そのまま会社に行くんだと」
 吉田は自分の渇望から出た幻聴かと思ったが、続けて説明するのを聞いて現実なのだと理解出来た。
「そっか………そっか」
 吉田は2回頷いていた。
(お姉さん、帰ってこないんだ……)
 と、言う事は。
「で、吉田? どうする?」
 また佐藤が意地悪く訊くが、今の吉田にはあまり意味の無い事だった。
「それじゃー……泊まろっかな……」
 えへへ、と喜びを包み隠さず、佐藤を見上げて言う。少し、その吉田に佐藤は目を見張って、すぐにじぃと見つめた。
(なんで、こんなに可愛いかなぁ………)
「ん? 何か言った?」
「別に。キスしたいな、って思ってた」
 率直過ぎるまでにストレートに佐藤が言うと、吉田の顔にさっと朱が走った。
「いい?」
 佐藤が首を傾げて言うと、吉田はうー、と目を瞑って唸る。
「あ……あんまり凄いのじゃなければ………」
 いいんだけど。てか嬉しいんだけど。
 訴えるように上目遣いで言うその様子が、とても可愛らしい、と佐藤は思う。
「解った。じゃ、普通のな」
「う、うん」
 自分の要求が伝わった、と安堵した吉田は近寄る佐藤に気づき、ぎゅっと目を閉じた。佐藤の好きな表情だ。
 吉田は安堵したが、しかしその「普通」は「佐藤の普通」であり、吉田が再び茹でダコのように真っ赤にぐにゃぐにゃになるのは、時間の問題だった。




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クリスマス的10のお題2「人混みは嫌い。だから一人で過ごす」配布元:Abandon