吉田はまるで綱渡りでもするような、実にスリリングな気持ちで数式を解いていた。数学は英語程苦手ではないが、得意だと胸を張れる程でもないので、たとえ途中で間違いを起こしたとしても気付けないのだ。式は合っているのに途中の計算でミスを犯したという失態を、一体どういう事だと据わった目の佐藤に淡々と指摘されたのはついさっきの事だ。あの恐怖を二度と味合わない為に、吉田は慎重にまで慎重になっている。
 しかもテスト本番は明日と言う事で時間制限まで持たされてしまった。時間を気にしながら、吉田は1つ1つ式を積み立てて解を求めていく。
 ついに最後のイコールにまで辿り着いて、吉田はそれを答えとした。もう一度確認しようにも時間が無かった。
「で……出来た(と、思う多分)」
 かっこの部分を胸の中でだけ呟き、吉田はそっと佐藤が作ったプリントを差し出す。
 最初、このプリントを出された時、吉田の顔は引き攣った。そこまでするのか、と。
 テストの緊張感は本番の一回で済ましたいと思う吉田は、恐る恐る回避を試みるが、次の佐藤のセリフでばっさり斬られる事になる。
「だって、俺、本気で吉田とクリスマス過ごしたいんだから」
 もし補習となれば、休日でもないその日は日程として組み込まれるだろう。佐藤は阻まれる不安材料を根こそぎ取りたいらしい。
 そう言われてしまえば、吉田も頷くしかない。確かに、絶対安全とは言えない身分なのだから。
 出されたプリントにあったのは、テストの最後の方にあるような――1つの点数が10点くらいありそうな、応用問題が3つ。仮に平均を50点と想定して、赤点はそれの半数以下なのだから、少なくとも30点あれば安全圏という訳だ。きっとその為のチョイスだ。
 佐藤は勉強が出来る上に、テストで点数を取るコツも知っている。その2つがあってこその学年一位なんだろうな、と吉田は思った。
 佐藤は手渡されたプリントを「どれ」といったような面持ちで見る。佐藤の目が下降するのを見ながら、吉田はひやひやしていた。その視線がいつ止まって、鋭く険を含めて自分を射抜くのかと思うと。
(合ってる……と思うけどなぁ)
 多大な不安を含ませながらも、吉田はそれなりの自信もあった。このプリントに挑む前に、佐藤から本当に解るまで数式の解き方を教えて貰ったのだから。理解した時はちょっとした感動ものだった。頭の靄が晴れるような、とはあの時の事を言うのだろう。
 佐藤の視線が、一番最後に辿り着いた……と、思う。さて、結果はどうだろう。
「……………」
「うん、全部合ってる」
 プリントから目を離した佐藤は、吉田を向いて微笑んだ。途端、吉田の体から緊張が抜ける。
(あ〜〜、良かった………)
 疲れた。持久走でもし終わったみたいな疲労感に襲われるが、体力を消費した訳ではないのでその辺のアンバランスが気になる。
(頭の中が数字で一杯だよ……)
 テーブルの上に頭を乗せ、ぐったりしている吉田の頭を佐藤は優しく撫でた。
「よく頑張ったな。何か持って来てやるから」
「あ、う、うん」
 手伝おうかと頭を上げると、すでに佐藤は腰を上げて室内から出てしまった。一人、残る吉田。
「……………」
 何気に、さっき撫でられた箇所に手を当てる。
(褒められちゃった…………佐藤に)
 いつもからかわれたりおちょくられたりが多いので、やけに沁み渡る。えへへ、とはにかむように吉田は微笑んだ。
「何笑ってんの?」
 すっかり支度を終えた佐藤が、横からそんな佐藤を見下ろして少しからかうように言った。ほらすぐからかう、と微笑んだ時に紅潮したままの顔で、吉田は憮然となった。
 佐藤は疲労困憊になった佐藤の為に、蜂蜜を落としたミルクティーとパウンドケーキを切って皿に盛って来た。並べられたその切り口は、普通のよりも黄色みが勝っているように吉田には見えた。
「カボチャとリンゴのパウンドケーキだって。上にあるのがカボチャの種」
「へぇ……じゃ、頂きます」
 頭を使うとカロリーも消費するのだ。吉田はすぐに手を伸ばした。一口齧って、うん、美味しい、と短く素直な賞賛の言葉を吉田は佐藤へ言った。その後、ぱくぱくと残りを頬張る。
 佐藤はそんな吉田を何だか幸せそうに眼を細めて見ているだけで、ケーキに手をつけようとはしない。いいのかな、と思いながら吉田は美味しさに後押しされてもう一切れ手に取った。
「明日からテストだな」
「うん」
 丁度口に含んだ時だったので、吉田は少し四苦八苦しながら答えた。
 佐藤の言う通り、つに明日から期末テストだ。クリスマス、佐藤と過ごせるかがここに掛かっている。
 テスト週間の始まる頃、突然というか突撃に近い艶子の訪問は、思わぬ副産物を残して行った。
 丁度女子達も気にし始めていたからだろう。この時艶子が学校に来たのは、クリスマスを過ごすのを佐藤に約束しに来たのだと勝手に想像し、そしてその想像で彼女達はパワーダウンしてしまった。おかげで、佐藤も吉田も女子からの執拗な攻撃に遭う事もなく、勉強に集中出来た訳だ。
 それはいい。それはとてもいいんだけど。
「……………」
「吉田? 全部食ってもいいんだぞ」
 吉田が胸中で複雑な葛藤に見舞われるのに気づいてるのかいないのか、佐藤はそう言ってケーキを勧めた。うん、と少し肩を落としたように吉田はケーキをまた手に取る。
「明日の数学はこれで大丈夫だな……その次は物理か」
 佐藤が確認するように呟く。物理もほとんど数学と似たようなもので、吉田も今からうんざりした。別に水の中に食塩が混じったとしてもその濃度なんて知った事か、と思う。
「まあ、俺がみっちり教えてやるから。安心しとけよ」
「はーい………」
 にっこり言う佐藤に、吉田は力無く返事した。佐藤のみっちりは本当にみっちりだ。もう無理出来ません、と言っても絶対許してはくれない。それでも、吉田が理解するまで付き合ってくれるのがせめてもの救い……なんだう。多分。
 それでさ、と佐藤は話を切り出す。
「クリスマス、吉田行きたい所ある?」
「え? 今その話するの?」
 テストが明日というこの時に。
「具体的になってた方が、張りっていうかやる気が出るかなって。まあ、単に俺が浮き足立ってて気が急いてるだけだけど」
 自分でそういう事言うのか、と後半からいきなり恥ずかしくなった佐藤のセリフに胸中で突っ込む。
「で、リクエストは?」
「うーん………」
 そうは言われても、今でクリスマスのイベントには家でチキンとケーキを食べる以外、ほぼノータッチで来た吉田だ。その日友達と出かける事があっても、それは冬休みだからでクリスマスだからではない。今まで「彼女」の「か」の字の子音の「k」すら無かった吉田に、そんな急にピックアップしろと言っても土台無理は話だ。それに、最近は本当に勉強漬けで雑誌とかを眺めてる場合でも無かった。
「行きたい所って言われると特にないけど……佐藤は?」
 吉田がそう振り返した時、佐藤は紅茶を口に含んでいた。
 んー、と少し勿体ぶったように佐藤は言う。
「俺は……吉田に行きたい所が無いなら、俺の部屋で過ごそうかなって」
 えっ、ここ? と吉田は目を剥いた。別に外出出来ないのが嫌な訳ではない。ただ、「佐藤」+「二人きり」となると大抵ろくな事をされないし、そこに「佐藤の自室」というのが加味されるといよいよとんでもない事になる。これまで、この部屋で体験した事を思い、吉田が少し警戒するのも無理も無い話だった。
「それにさ、俺が広めるまでもなく本命と過ごすってのがすっかり知れ渡ってるし。そんな時、うっかり町中で吉田と居る所を目撃されたら、またややこしい事になりそうじゃないか?」
「………それもそうだな………」
 佐藤のセリフに、吉田が苦々しく頷く。
 吉田が本命、と思うまではいかないとは思うが、艶子と別れたのだと思って佐藤に猛アタックをかける子とかが出そうだ。それを思っただけで、なんだか泣きたい気持ちになる吉田だ。しかも何に泣きたいのか、よく判らない。恨めしく思うのはその子か、佐藤か、あるいは自分なのか。
「じゃ、俺の家って事でいいか?」
「う、うん」
 底なし沼に囚われたような吉田の気持ちを切り替えるように、佐藤が言う。吉田はその提案を受け入れる事にした。佐藤の言う事も最もだし、される事はともかくこの部屋に居るのは決して嫌では無い。……される事はともかく(2回目)。
「えっと……それじゃ、何か持って来ようか?」
 それとも、食事は外でするのだろうか。そう思いながらも吉田は訊いた。
「別に、特にないな。ピザでも頼んで……後はデリで適当に買って来るよ。実はケーキはもう予約したんだv」
「えっ、早い! てか何時の間に!?」
「内緒v」
 嬉しそうに笑う佐藤は吉田にそう答える。その「内緒」にはどういうケーキかというのも含まれているように思えた。
 に、してもそこまで佐藤は用意してくれるつもりなのか。えーと、と吉田は考えを巡らす。
「だったら、飲み物とか………」
「だから、いいってば」
「でも…………」
「一応、俺が招く形になってんだし」
「うーん…………」
「なあ、吉田。そんなに気が引けるなら、今ここで体で払ってくれてもいいんだぞ?」
 煮え切らない吉田に、佐藤が究極の選択を迫った。吉田が首を振るしかない選択を。
 案の定、吉田は首の力をフルに使って左右にブンブンと振った。否の意思を貰い、よし、と佐藤が満足そうに頷く。吉田は首を振り過ぎたせいで、少しクラクラとした。それを見て、佐藤は愉快に笑う。
「可愛いなぁー、吉田はv」
 そう言って、クラクラしているのが抜けきらない状態で強めに頭を撫でられる。頭の中が振動してるみたいで、またクラクラした。
(全く、もー)
 同じ悪戯をされまいと、距離と取って吉田は回復を保った。
 そうだ、普段からこんな仕打ちを受けてるんだから、食事の支度くらいさせるべきだ! きっとそうだ! そうに違いない!!
 吉田はさっきまであった引け目や負い目を全て打ち消した。これが佐藤の計算の内かは定かでは無い。
「ああ、クリスマス楽しみだな。こんな待ち遠しいの、初めてかもしれない」
「そうなの?」
 まだちょっとの警戒を残しながら、佐藤に訊く。ああ、と佐藤は頷いて。
「別にクリスマスを待たなくても欲しいものは買って貰えたし」
「……あ、そう」
 このブルジョワめ、と吉田はそっと悪態をついた。
「だからサンタとか、正直どうでもよくて……吉田って、何歳までサンタを信じてた?」
 面白い話題を見つけた、とばかりに佐藤が訊いてきた。
「え、べ、別に?」
 吉田はすっとボケる策に出た。しかしそれで引き下がらないのが佐藤だ。欲しい情報は手に入れる。それが佐藤。
「何歳まで信じてたっていうか、「サンタクロースは、なんさいなの?」って無邪気な事言ってそうな気がするなー。子どもの吉田はvv」
「ひ、人の昔を勝手に想像すんな!」
 そんなに赤くなって反論するという事は、結構近い所まで行ってるんだな、と佐藤は判断した。
「じゃー、佐藤はサンタなんか信じない、可愛げの無かったヤツだったんだなっ」
 吉田が意趣返しのように言う。
 サンタの存在は、信じるとか信じないとか言う前に、本当にどうでも良かったんだけど。
「……まあ、縋ってでも欲しいプレゼントは、あったかな。昔にさ」
「さっき、欲しいものは買って貰えたって言ってたじゃん」
 吉田がすかさず突っ込む。
 そんな吉田に、佐藤がふっとした笑いを浮かべる。今のセリフでなんでこんな反応を取られるのか、吉田が軽く首を捻っていると、佐藤がとびきりの笑顔で言う。
「じゃあ、吉田はいくらなの?」
 と。



<終>



クリスマス的10のお題2「サンタクロースは、なんさいなの?」配布元:Abandon