その日、吉田が食事の後片付けを終えて佐藤の元に赴くと、彼は机に向い、本を数冊広げて何事かを紙に記していた。
 何かな、と素朴に疑問を抱いた吉田は、邪魔にならないように気をつけながら佐藤の横にちょこんと座った。佐藤が描いていた物は、吉田が見た限りでは、まるで小屋の設計図のように見える。
「これ、何?」
 図から目を離さないで、吉田は佐藤に尋ねる。
「そろそろ薪小屋とか作らないとなー、って思ってさ」
 その為に必要な物を調べていたのだと言う。ふぅん、と返事しながら吉田は改めて図を見る。完璧素人目だが、佐藤の設計図はかなり精密のように思えた。
「ひゃぁっ!?」
 まじまじと紙を見つめていた吉田は、突然うなじに走った感触に声を上げる。驚いた拍子に一部変化が疎かになり、、髪の間からぴょこんと耳が飛び出た。
「ちょ、ちょっと何―――ふぎゃっ!」
 うろたえる吉田を気にすることなく、佐藤は淀みない動きで吉田を押し倒した。背中が床に着くと同時に、吉田が押しつぶされたような声を発する。
「もー、何でいつも急なんだよ! 驚くじゃんか!」
 怒るポイントが少しずれてる気もしない事も無いが、とりあえず吉田はそこを指摘する。佐藤は、「ごめーん」とあまり誠意の入って居ない謝罪を口にする。
「だって、すぐにでもしたいからさ………」
 そう言いながら、首筋を唇で辿ると、吉田が落ち着かないように体を身じろかす。さすがに猫なだけあって、首――喉を撫でられるのが弱いのだろうか。性急な佐藤に怒りを見せた吉田だが、今はもう大人しく身を任せている。命を助けて貰った恩返しにとやって来た当初、佐藤が過去を打ち明けない為に自分に執着される理由が解らないで戸惑っていた吉田も、。真相が解った今はこの関係に納得している。好きだと囁けば、真っ赤にして頷く。佐藤は生まれてきて良かった、と今ほど思えた時は無い。そして今後も訪れ無いだろう。
 佐藤が自分の幸福に酔いしれている時、トントン、と戸を叩く音がした。吉田が聞き逃してくれて、このまま続きがしたい所だが、生憎吉田は佐藤よりもずっと音に敏感だった。
「佐藤、誰か来たんじゃないか?」
「……こんな所に来るなんて、きっとまともなヤツじゃないよ。ほっとこう」
 酷い言い分だが、ある意味正論だ。何せ吉田の目の前に居る人物からして。
「だったら、ほっといたらもっと面倒な事になるって。とりあえず、誰だか見てみようよ。危険なヤツだったら俺が何とかするから」
 吉田は妖の中で決して上位に入る訳じゃないが、それでも真っ向から対峙したのであれば並みの人間くらいならやっつけられる。……と、思う。
「吉田は待ってて。俺が見てくるから」
 吉田の上から退くのに、佐藤はかなり名残惜しげだったらトラブル回避は吉田の言うとおり、早ければ早い方がいい。佐藤は相手の確認に出た。
 戸にあるわずかな隙間から外を覗く。見ると、そこにはかなり強面の青年が居た。付け根だけ黒い金髪に、常に睨み据えているような目つき。佐藤は思った。堅気じゃないな(断言) しかしながら、ここは地上げ屋を派遣するような魅力ある土地でも無い。相手の顔は解っても、来訪の目的は謎のままだ。
 そして、その堅気じゃない彼は反応の無い室内に焦れて、声をかける。
「おーい? 誰か居ねぇのかー」
「! とらちんだっ!」
 戸の向こうから聴こえた声に、吉田の耳が一層ピン!と立ち上がり、喜々とした表情を浮かべる。その様子を見ると、どうやら吉田の知り合いで、しかも「親しい」という事柄までついてくるようだ。
 まさか吉田を連れ返そうとしてるんじゃあるまいな、と佐藤が懸念している間に、吉田はそれこそ猫のように俊敏に、すぐ傍までやって来た。そしてあっさり戸をあけてしまう。
「とらちん、久しぶりー! 元気だった?」
「おう、ヨシヨシ」
 吉田の顔を見るなり、強面の青年はニカッと笑って見せた。その顔と特別な名称で、いよいよ佐藤は気にくわないというか、気に入らない。
「吉田、こいつ誰だ?」
 2人が佐藤の入れない会話を始めてしまう前、佐藤が吉田に(だけ)言う。
「ああ、とらちん――虎之介って言って、」
 それでね、と吉田は続ける。
「昔、俺が育ててたの」
 そういう縁なのだと説明する吉田に、佐藤は思わず目が点になった。
「……吉田「が」育ててたの? 育てられたじゃなくて?」
「違っーう! 今はこんなにおっきいけど、昔はホントに小さかったんだって!」
 このくらい!と吉田は胸の前で両手を使って当時の大きさを再現した(らしい)。
「ふーん。まあ、立ち話もなんだし、入って貰ったら?」
「えっ、いいの?」
 佐藤の申し出に、吉田は喜色を浮かべた。勿論、佐藤は虎之介を歓迎している訳では無い。それでもこの場はこう言いださないと、吉田が虎之介と連れ立って外に出そうだったからだ。家主に遠慮して。それに入って行けない話題だとしても、目の前に居てくれた方が何倍もいい。
「や、別に用って程のもんじゃねーんだけどな」
 だったら来るなよ、と佐藤は胸中で虎之介に毒づいた。
「久々に森に帰って来たら、ヨシヨシが居ねぇじゃん。秋本達に聞いたら森の近くに住んでる人間の所に行ってるって言うから、顔見に来ただけ」
 このセリフから察するに、虎之介は森に定住しないであちこちを放浪しているようだ。その理由なんて、佐藤は興味の欠片も無いが。虎之介が自分の事情を説明終えると、佐藤の方をちら、と見た。吉田がここにいる理由を、虎之介は佐藤に見当をつけたのだろう。最も、他に原因も見当たらないから無理も無い。そして何より正解だ。
 虎之助は少し訝しんだ様子も少しは見せたが、けれども、それが吉田の本心からの行動だと判断したからか吉田や佐藤に何かを問い正す事は無かった。ありがたい事だが、相手の事情を納得するのに言葉を必要としない2人の絆を見せられたようで、佐藤に穏やかではない感情が広がっていく。虎之介は確実に、佐藤の知らない吉田を知っている。それは向こうにとっても同じ事だろうが。
 吉田は他愛もない、最近行った街の様子等を楽しそうに虎之介に話す。佐藤も解る内容で少し安堵した。その話の端々で「ちゃんとお腹いっぱいご飯食べれてるか?」とか「寝るときは腹冷やすんじゃないぞ」と、確かに親代わりだった時の名残のような発言がしばし出た。吉田よりずっと大きな体躯の虎之介がそんな事を言われ、しかも律儀に頷き返しているのを見ると、喜劇のような滑稽さを感じる。当人達が真面目に、自然にこなしているからこその笑いだ。
 虎之介も虎之介で、会えなかった期間に見聞きした、吉田にも興味深いだろう事を弁舌ではない口調で話して行く。虎之介もまた妖怪だけあって、その行動範囲は広い。はるか海の向こうにまで達している。吉田はその話を、楽しそうに聞いている。おそらく社交辞令だろうが「俺も行ってみたいな」というセリフを聞く度に佐藤はひやりとする。最も、その後「佐藤もどう?」という笑顔に一気に機嫌が上がったが。
「あっ、そーだ!」
 突然、吉田が何かを思いついたか、そんな声を上げる。
「な、佐藤。さっきの小屋、とらちんに作って貰おうよ」
「小屋?」
「うん、そう。薪小屋」
 首を傾げた虎之介だが、吉田の説明で納得したのを見ると、彼もそれなりに人間の生活に精通しているようだった。
 吉田はちょこちょこと室内を走り、さっき佐藤が走り書きで描いていた設計図を持ってきた。
「これ。こんな風なの、作れるよな?」
「ああ。まあ、ちっと作り易いように変えちまうかもしれないけど」
「その辺は――いいよな、佐藤?」
 この時、自分に肯定の頷き以外の対応があっただろうか。そう思いながらも、佐藤は「ああ」と返事した。

 骨組が出来る程度の木材は、すでに置いてある。と、いうかこの山小屋を作った時に余ったものなのだろう。
 虎之助は、それをまるで芝居の為に作った大道具のように、軽々と持ち上げ、積み木を組み立てる気軽さでひょいひょい枠を作っていく。以前にもこういう仕事をした事があるのか、その手際は結構いいものだった。
 建物が作られていく音を聞きながら、吉田は佐藤と連れ立って川へ出かける。目的は勿論、今晩の材料――魚を取る為だ。
「ごめんなー、いつも魚ばっかりで。俺がとらちんくらいの力があれば、肉も取って来れるんだけどな……」
「別に気にする事じゃないよ。元々日々の生活費は確保してここに来たんだし、それに最近は魚の方が好きだし」
「本当?」
「うん、吉田がとても美味しそうに食べてるからね」
 微笑んでそう言うと、吉田が顔を赤らめ、それを見られるのを拒むのかぷぃっと顔を逸らす。何とも可愛い反応だ。
「今日は、いつもの三倍取らなきゃなー。とらちん、よく食べるから」
「……そんなに食べるのか」
 その量を想像して、佐藤が呟く。
「うん。昔からよく食べるヤツでさー。いっつも何か口に入れてもぐもぐしてたよ」
 その頃を思い出したのか、吉田が可笑しそうに笑う。それを見て、佐藤は。
「……………」
 吉田は妖で、下手をすれば自分より何倍も生きている。だからその分、佐藤の知らない吉田が存在する。
 そういうのは解っていたつもりだが…………
 いざ、目の当たりすると………
「ん? どうした、佐藤? 腹減ったか?」
「そんなんじゃないよ……」
 不機嫌の理由と言えば空腹と直結するのは、虎之助の事があるからなのか。佐藤は胸にもやもやしたものを抱えた。

 吉田の言うとおり、虎之介は本当によく食べた。もりもりと食べる速度は決して速くはないが、そのペースが全く衰えないので、ずっと見ていると変な錯覚を見ているように感じられる。ちなみに、虎之介は魚を丸ごと食べるので後片付けは楽だった。
 さて、夜――
 昼間、虎之介が訪れた時と同じように、吉田を外に行かせない為に中で寝るように言いつけた。布団は2組しかないが、合われば真ん中にもう一人居ても問題ないだろう。で、当然のようにその真ん中は吉田になった。図らずとも川の字で寝る羽目になり、佐藤は中々寝付けない。いつも居ない他者の存在が気になるというより、何より吉田と親密な所が気にくわない。どうも寝付けないので寝酒でも取ってみるか、とむくりと起き上がると――
「………………」
 佐藤は確かめる為に一度目を擦ったが、見間違いでもなんでもないようで。
 横に寝る2人は、互いをがっちり抱擁し合っている。よく見れば虎之介が吉田にしがみついていて、それに吉田が応えるように腕を回しているのだが、どっちにしたって抱き合っているのは変わりない。
 佐藤が次に取る行動は決まっている。
は・な・れ・ろ〜〜〜〜!!!
 二人をひっぺがすのである。
 しかし相手は人間を超える存在なだけあり、佐藤の懇親のひっぺがしもびくともしなかった。
 少し肌寒いくらいの夜気で、佐藤はやや汗だくになる。これだけ粘っても、腕の片方すら外せなかった。無念だ。久々に無力を感じる。
 どうやら、引き離すのは無理らしい。
 そうして、次に佐藤が取った行動は――

 魚捕りの本能の為か、吉田の覚醒は前夜に何があっても結構早い。この日も、誰よりも早く目を覚ました。
 そして。
「ん〜〜〜〜?」
 前と後。虎之介と佐藤に挟まれる体勢に、何故こうなったのかと寝ぼけ眼で首を傾げた。

「あー、昔いっつもしがみついて寝てたからな〜 その時の癖だな」
 離れてても治らないもんだなーと吉田は夜の一件を何でも無いように言うが、佐藤はもう腸煮えくり返って仕方ない。
「かなりしっかりしがみついてたんだぞ。起きない方がどうかしてるんじゃないか」
「まあ、俺も慣れてるからなぁ」
「……………」
 いよいよ佐藤の機嫌が降下する。と、その時その元凶がひょっこり現れた。
「ヨシヨシー。ちっと材料足りねーから、山に行って取って来るわ」
「そっか。俺も行こうか」
「いいよ、俺だけで。ヨシヨシだってする事あるんだろ」
 そう言うなり、虎之介は再び姿を消した。せわしないヤツだな、と佐藤は思う。
「あるけど……手伝えない程でもないのになぁ」
 吉田はため息を共に呟く。それを見て、佐藤は思う。
(何か吉田、何かあればあいつに構おうとして……俺と一緒に居たくないのか?)
 もちろんそんな訳がある筈ないのだが、佐藤は吉田の事になると臆病になる時はとことん臆病になる。吉田を失ってしまえば、佐藤には何も無くなるからだ。
「な、佐藤」
 自分の中でぐるぐるしていた佐藤は、吉田のその声で我に戻る。
「小屋はとらちんに任せれば大丈夫だからさ。ちょっと町に出ようか」
 でもって、甘味屋であんみつ食べよう、と笑いかける。
 歪んで、捩じれて、どうしようもない自分だけど。
 傍に吉田が居て、こうして笑いかけてくれるのなら。
 何度でも立ち直れる、と佐藤は思ううのだ。

 小屋の完成は実に早かった。正味1日しか経って無い。その間に就寝や食事も入るのだから、もっと短い時間で出来た事になる。勿論、その仕上がりも完璧だった。これなら屋根も雪で潰れたりしないだろう。
「ありがとー、とらちん! すげー助かった」
「これくらい、どうって事ねぇよ」
 『作品』を褒めら、虎之助も凶相を綻ばせる(でもやっぱり怖いと佐藤は思った)。
「特に問題無ぇなら、俺、このまま行くけど」
 あまりに急な申し出に、吉田のみならず佐藤でさえ、えっ、と顔を驚かせた。佐藤が虎之介の立場だったら何癖付けてまで居座るというのに(それはそれでどうだろう)
 佐藤は、吉田が決して食い下がらないだろうと思ったのだが、「そっか。気を付けてな」とすんなり引き下がった。おそらく、吉田は虎之介があちこち放浪している訳を知っているのだろう。そしてそれが虎之介にとって重大な事である事も。何せ双方、やや寂しげだった。きっと虎之介だって何も無ければ吉田の傍に居たいのだろう。佐藤にはその気持ちが痛いほどよく判る)
「でも、晩飯は食って行けよな。とらちんの分も取って来ちゃったから、食べてくれないと困るんだ」
「――まあ、そういう事なら」
 虎之介は頷く。
 確かに、魚を今日も大量に取ってきたが、食べれない分は干物にして保存できる。処分しきれないという訳でもないのだが、佐藤はそれは黙っておいた。言えば、虎之介が行ってしまうかもしれない。
 相手が今すぐ経つからか、さっきのお互いの寂しそうな顔を見たからか、佐藤はほんの少しだけ寛容になれた。

 食事の後片付けまで終えると、虎之介は早速帰る支度を整えた。本当に帰るんだな、と佐藤は何となく思う。
 じゃあな、と短い別れの言葉を口にし、虎之介は戸口に立った。二人も、それに倣う。湿っぽいのは嫌いだとばかりに、とびきりの笑顔を溢して(が、それでも恐い顔はそのままだ、と佐藤は思った)
 そして、大きく行動するからか、人型の変化を解いて本来の姿に戻る。それを見て、佐藤は軽く目を見張った。虎之介の元の姿は実に立派な、金色の毛並みの大きな虎だったからだ。思えばこの時、佐藤は虎之介の本性を初めて知った。何せ居る時間が短かったし、それより嫉妬ばかりが心を占めていた。
 虎は躍動して森では無く横の山へと跳ぶように入って行く。夜の闇を背後に、それは金色の軌跡を残した。幻想的なまでに美しい光景。
 吉田はその様子を、黙って、静かに見守っていた。虎之介が本来の姿を取って、吉田の様子が少し違ったのを、佐藤は見逃さなかった。
「なあ、佐藤。白虎って知ってる?」
 不意に、隣に立ってる佐藤に聞いた。
「……北を司る神獣みたいなやつか?」
 うん、そう。と吉田は短く返事した。
「とらちん、その一族なんだ」
 さらっと言われた事実に、またも佐藤は目を見開いた。と、いう事はつまり、虎之介は神の一族だという事になる。妖怪どころの騒ぎでは無い。
「でもさ、色が違うだろ? だから、上から落とされたんだと思う」
 吉田の言う「上」がどこなのか、佐藤も何となく解った。
 つまり虎之介は、彼が何かしたという訳でもなく、色が違うからという単にそれだけの理由で棄てられたという事だ。勿論、色が違うという事は、それだけ本流を外れた低い身分だったのだろうが。
 佐藤は神族でもそんなつまらない事をするのかと思ったが、人間ごときが出来るのだから神族がしても可笑しくないと、とすぐ傍らで考えを改めた。種族は違っても、集団というものの性質が変わる事は無いらしい。
 吉田が思っている事は、きっと虎之介も自覚しているのだと思う。自分は落とされたのだと。居るに値しない身分だと勝手に切り捨てられたのだと。虎之介は生きる事で、自分に与えられた偏見や差別を証明している。そんな境遇にも関わらず、虎之介は決して歪んだりしないで実に真っ直ぐ物事を見ている。そんな風に生きられるのは、きっと――
 吉田は少し俯いて言う。
「とらちん、どうにかして自分が居た所に戻れないかって、いろんな所行ってその方法探してんの。今までそんな事が出来たのなんて、聞いた事ないから無理かもしれないけど……」
 吉田の表情は、それでも叶うといいと願っているものだった。佐藤は訊いた。
「……あいつ、帰りたいのか? その……「上」に?」
 それを聞いて、吉田は少し考える。
「……聞いた事無いから、判んない。でも、一度話つけなきゃ気が済まないんだと思う」
 そうだろうな、と佐藤は思った。
 吉田に育てられたのなら、そんな風になるのだろう。
 別れ際に見せた虎之介の笑顔は、吉田に似通ったものを感じた。
「行けるといいな」
「うん」
 自分以外の同意が得られたからか、吉田は固かった表情を幾ばか和らげた。
 そして。
「じゃ、もう寝よっか」
 にぃ、と佐藤を見上げて吉田は笑う。その明るさに目を細めながら、傍に居る喜びを噛み締め、佐藤は軽く頷き、吉田と共に部屋へ入って行った。



――終――