いつも夢に見るのは、あの場面だ。あの時どうして、手拭いを取りに行く時庭に置いてしまったままにしたのか。泥とかそんなの気にしないで、そのまま連れていけば良かったのだ。だから、もし、また会えたら。
 その時は、もう片時も絶対に離さない。

 吉田の一日は早い。それから、まず力仕事から入る。この力仕事というのは、どんな寝方をしていても目覚めると必ずと言っていいほど身体に捲きついてる佐藤の腕――いやもう必ずだ。この体勢以外になった事が無い――を外す事だ。離れる事を拒む腕は、外すのにかなり苦労する。吉田の場合、相手を起こさないようにしているから尚更だった。
 今日も無事抜け出た後、ふぅ、と一息ついてから、まだ夜明けて間もない森の中へと入って行く。まだ薄暗い森の中は、常人では危険を伴いかもしれないが、その辺吉田は猫の妖かしなので何の問題も無い。そうして小川に辿り着いた吉田は、ざぶざぶとその中へ入って行く。夜の空気を吸い込んだ水は、沁みる程冷たい。思わず飛び出た尻尾を毛立たせて、吉田はしばし冷たさを堪え、それから自分の目的を果たした。

 吉田の抱える魚籠の中には、新鮮で一番の旬を迎えた川魚がひしめきあっている。今日も成果は上々だ。これで、佐藤が喜んでくれたら何よりなのだが。吉田は佐藤に命を助けられ、その恩を返すべくここにやって来た。当初、その「恩返し」には毎日新鮮な魚を届けるつもりだったのだが、承諾を得ようと本人に直接打診に来た所、とんでもない事をされた揚句にとんでもない要求を言われ、以来その目的を果たす為にここに留まっている。そして昨日もされたばっかりだ。思い出して顔が真っ赤になる。
 吉田の知識が間違ってないなら、佐藤が自分にする行為は子作りの為か快楽を得る為だ。そして後者に限っては、見目麗しい者こそを相手にすると聞いている。そういう商売がある事も。
(俺……別に綺麗でも可愛くも無いよなぁ?)
 もしかしたら、佐藤は種族が違うから美的感覚が少しズレてるのかもしれない。吉田はとりあえず、そうやって片づけた。

 山小屋を改良した佐藤の家から煙が上がっているのが見える。時間的に朝食の準備をしているのだろう。その煙を見て吉田は顔を顰める。成り行き上住み込む羽目になったのだから、身の周りの世話もすると言いだしているのだが、それが達成された事はあまりない。朝は寝てていいというのに、こうして先に済まされてしまうのだ。そりゃ確かに、料理の腕も手際の良さも、佐藤の方がずっと上なのだが。
 吉田が戸口に立つとすぐに佐藤が現れた。
「吉田、また行ったのか?」
 手に持った魚籠に視線を注ぎ、確認のように佐藤が言う。
 言う事を聞かないのはお互い様だった。吉田は佐藤から「魚捕りはしないでいい」と言われているのだが、こうして捕りに行っていた。
「う、うん。この魚、この時期が一番美味しいからさ……」
 言い訳がましく呟く吉田から、佐藤は魚籠を取り傍らに置く。そして、吉田の掌をぎゅっと包んだ。冷たい指先に、佐藤の熱がじんわりと浸透する。
「こんなに冷たくなって……最近、もう朝は寒いだろ? 無理すんなって」
「無理って言うか、だって恩返し、」
「だから。それはもう違う形で貰ってるだろ」
 佐藤の口から言われた事で、一気に記憶が膨らんだのか、吉田の顔がぼぼっと火照る。判り易い反応に、佐藤が顔を綻ばせる。
「じゃ、朝飯にするか。吉田、火に当たってな」
 もうそんな必要は無いかもしれないが、真っ赤になったまま突っ立っている吉田に、佐藤は声をかけた。

 朝食の後片付けを済まして部屋に戻ってみると、吉田の姿は無かった。代わりのように、台の上に紙きれが乗っている。少し危なっかしい文字ながらに、「薪、拾ってくる」という内容が読み取れた。
「……………」
 佐藤はそれを手にしたまま、その場に腰を下ろした。
(何か……上手く行かないな)
 吉田の傍に居たくて、ずっと一緒に居たくて、そうしてこの場に留まって貰っているのに、すれ違い感が否めない。傍に居て欲しいと言っているのに、こうして目の前から姿を消してしまう。それはやはり、お互いの認識の差だろう。そしてその源は、佐藤が吉田に昔の事を伝えてない事がある。2人は初対面ではない。3年前、佐藤が森で迷子になっている所を、猫の姿の吉田に助けて貰ったのだ。今のところ、佐藤だけが知っている事実。吉田の目の下の傷がその事が起因しているのだから、結構濃く記憶に残っていても可笑しくないのだが。
 思い出せないのは、成長した佐藤の姿形が変わり果てているからか、あるいは思い出から掻き消えているからなのか。
 言いだしてしまえば、楽になるのだろうか。自分は昔助けて貰った迷い子だと。それで思い出してくれたらまだいいが、それでも知らない覚えてない、と言われたら。自分は片時も忘れなかった大切な思い出である分、そのダメージは底知れない。だから切り出せずにいる。
 一緒に居たいのに、傍に居る事が怖い。
 常に人から避ける事ばかり考えていた佐藤には、生まれて味わう感覚だった。

 その頃、吉田は書き置きの通り、森の傍で薪を拾っている。具合の良さそうな枝を選んで、ある程度溜まった所でふぅ、と溜息を洩らした。
 今のところ、佐藤の為にしてやれるのは、これくらいしかない。もっと熟練した者ならある程度の富を授けたり、運の巡りを良くしたりも出来るのだが、勿論吉田にそんな力はない。
(これくらいじゃ、恩返しとは言えないよなー…………)
 吉田は新たに拾った薪をぽいっと投げ入れる。
 もっとちゃんと、自分が恩返し出来たのなら、毎晩あんな事されずに済む(と思う)のに。きっと今日もされるだろう事を思って、吉田はがっくり項垂れた。
(やっぱり、それはあれかな……これくらいしか出来ないとか思われてるからなのかな………)
 吉田がそう思うには訳がある。佐藤は時々、何かを期待するように吉田の事をじっと見つめるのだ。怖いくらい真っ直ぐのその視線は避ける事も無視するも出来ず、思いきって何かと尋ねても適当にはぐらかされてしまっているように思えた。当たり障りのない、怪しまれない事を言ってるが、絶対に本音ではない。吉田にだって、それくらいは解る。言わないのは、見限っているからだろうか。
(その内、出て行け役立たずって追い払われちゃうのかなー)
 現在の身の振り方を思うと、そんな未来もあり得なくはないと吉田は思う(実際は天地がひっくり返ってもあり得ない事なのだが)。
 それは出来る限り避けたい所だと思う。受けた恩を返せれないのは嫌だし、それに――
 佐藤の傍から、離れたくない、のだと思う。
 そうだから、毎朝抜け出せれるのにそのまま森に帰らないで、家に戻ってしまうのだと思う。それはさっき言った佐藤の視線の事が気になるのもあるが、それが無くてもきっと吉田は留まっていると思う。
 佐藤と見ると、妙な感覚に襲われる。胸の中にもやもやとくすぐったいものが生まれるし、時折端正な顔を見ると意識がそれに吸い込まれるようにぽーっとなってしまう。だから、押し倒されても抵抗出来なくなる。まるで妖術や幻術にかかったみたいになってしまうのだ。
(……佐藤ってまさか妖怪じゃないよな……)
 もしそうなら、奇怪な行動も解るかもしれない……と、思う吉田だった。
 と、その時、翼の羽ばたき音が吉田の耳に飛び込んだ。鳥が飛ぶ時に発する音だが、その大きさは鳥のそれをはるかに凌駕している。猛禽類としても、ここまでは大きくはない。
 音のした方を振り向くと、吉田が想像していた通りの存在が居た。その相手が顔見知りだったのは、ちょっと意外だったが。
「山中じゃん。何してんの」
「ん? 何だ、吉田か」
 背中に生えた黒羽と、独特衣装で解る様に相手は天狗だ。ここまで人里近くまで降りるとは珍しい。とは言え、民家が集まる場所にはまだほど遠いが。
「お前の方こそ何してんだよ。薪なんか拾ってさ」
 すとん、と話すのに不都合のない位置に山中は着地して、言う。
「う……いや、まあ、色々とあって………」
 あまり詳しい事情は言いたくない吉田だった。ごにょごにょ言葉を濁す吉田を、山中は「まあいいや」と軽く流す。
「それより、お前、知ってないか? 最近ここに住み始めた人間が居るって」
 尋ねられた内容に、吉田は目を見張る。知ってるも何も、それは佐藤の事だ。理由は簡単。他に居ないからである。
 しかし相手の出方が解らない内に事実を言うのは危険だ。何せ相手は天狗。神通力を持っていて、それが故に他の者を格下扱いする悪癖の見られる存在なのだから。
「さあ、知らないけど……そいつ、何かしたの?」
 吉田が尋ねると、山中は盛大に顔を顰めた。質問された事が気にくわなかったのかと思ったが、そうではないらしい。
「最近さー、ひっかけようとする女が悉くそいつの事を言うもんで、もう気にくわなくてさ。たかが人間だろ? 術もひとつも使えないくせに、俺よりモテんじゃねーよ!!」
「……へー。それは大変だね」(←棒読み)
 完全なる言いがかりである。吉田はさっさとこの場を後にする事に決めた。
 しかし、次の山中の一言で行動の変更を余儀なくされる。
「だからさ、そいつの首を討って来てやれば、また皆俺に夢中になるんじゃないかって」
「………――――ッッ!!」
 瞬間、目の前が真っ赤になった吉田は大地を蹴った。山中に向かって。

 佐藤のイラつきと焦燥感は臨界点を超えようとしていた。
(遅い……遅すぎる!)
 吉田が中々帰って来ないのだ。待ち焦がれて時間の感覚が進んでいる事を差し引いても、薪を拾ってくるだけの時間はとうに過ぎている。
 まさかいよいよ、実家に帰って(←?)しまったのか。毎晩毎晩弄んでいる自覚は佐藤にある。自覚あるなら何とかしてやれよ、と思われるだろうが自律神経を意図して作動するのが出来ないのとそれは同じ事だ!
(いや、でもそんなに嫌がってるようにも見えなかったと思うんだが…………)
 相手の限界の間際をちゃんと見極めているつもりだったのだが、読みが甘かったのだろうか。
 それにしてもイヤイヤながらに感じている吉田は可愛い。顔とか真っ赤でもう、ものすんごく可愛い。あの吉田はもう見れないのか。それはもはや日が没して上がらないのと同じ事だ。佐藤にとっては。
 今から迎えに行けば、もしかして間に合うだろうか。
 怒っているかもしれないが、その時は許しを乞うまで平すらあやまり続けるつもりだ。と、いうか美味いものあげれば解決出来そうな気もする。
 そうして、家を飛び出た佐藤は、とんでも無い物を目にした。それは翼を生やした青年。どこからどう見ても青年だが、どこからどうみでも翼を生やしている。そしてトンビのように旋回していた。
(あれは……天狗か?)
 だがそんな事はどうでも良かった。佐藤は天狗の持っているものに注視する。帯を掴まれ、まるで荷物のように持たれている。そんな風にされているのに、意識が無いのかまるで身じろぎもせず、ぐったりしている。頭をすっかり項垂れているので、佐藤から顔は見えないが、間違いない。
 あれは、吉田だ。
「吉田―――」
 佐藤は掠れた声で呟く。まるで動かない吉田に、嫌な想像ばかりが膨らむ。それに感じる恐怖は、吉田に嫌われたらと思った時の比では無い。一気に、心臓まで凍えたかと思った。
「何だ、お前吉田と知り合いか? あーあ、なら言ってれたら、探す手間も省けたってのに」
 山中は面倒臭そうな顔をして、吉田に目をやった。佐藤の中で、何かがぶちりと大きく切れる。
「おまえ――吉田に――何をした?」
 佐藤が問いかける。それに山中はまた顔をしかめる。今度は明らかに、人間如きに先に質問された不快感を示していた。
「何だっていいだろ。それよりお前――」
 言いかけた時、山中はごく間近に風を感じた。
 そして、次の瞬間、何か黒い物がぱらりと目の前を落ちるのを目撃する。それが自分の髪の毛だと言う事と、いつの間にか抜刀していた相手がそこまで間合いを詰めていた事を、かなりの時間をおいてようやっと気づく。
「――っな…………っっ」
 声が出たのは、また時間がかかった。
「何で……っただの日本刀で……お、俺が切れるんだ……?」
「これがただの日本刀? 本当にそうとしか見れないなら、お前もそこまでのヤツって事だな」 
 恐怖の中で呆然とした山中の呟きに、佐藤があからさまにバカにしたように鼻で笑った。
「俺がこの森の傍で何の備えも無しに住むと思ったか? ――この剣、使う者が使えば鬼の首すら撥ねると言われているが――俺の腕がどれほどのものか。試してみるか………?」 
 そう言って、佐藤は刀を構え直す。より一層、山中の首を狙える位置になった。滑るように煌めく刀身は、冬の月のように凍えた色を見せている。それは美しさを誘うものだったが、今まさに命の危機に瀕している山中に、それを見る余裕はない。
 こいつはヤバい。
 山中の感知出来る全てが言っている。
 こいつを本気で怒らせたら、死ぬ。
 むしろ今にも死にそうだ。ガタガタとどうしようもない本能的な震えが、山中の全身を覆った。
「すっ、すすすす、すいませんすいません、変ないちゃもんつけました俺が悪かったですっ!! なのでもう帰りますから許してぇぇぇぇっっ!!!」
 どさっと吉田を降ろして(落として?)踵を返す山中を、佐藤ががしぃ!と掴む。ぎゃーす!と聴こえない叫びと共に魂が出かけた山中だ。
「待て……俺の話が終わってない。お前、吉田に何をした。
「な、何もしてませんっ! 本当ですっ!」
「何もしてないってなら、どうして目を覚まさないんだコイツは。嘘抜かしたら割りばしみたいに真っ二つにしてやるからな」
 山中は真ん中から二等分になった自分を思い、またぎゃーす!と叫んだ。
「本当に、何かしたって程じゃないんですっ! いきなり俺に向かって飛んで来たから、風吹かして追いやったらそのまま後の木に頭打って気絶しただけなんですぅぅぅぅぅ!」
「思いっきり何かしてるじゃないか。で、そんな吉田を引きれ回して何をしようとしてたんだ」
「俺はあまり人里に詳しくないんでっ! 目が覚めたら案内させようと思っただけなんです! 本当です! 信じ下さい!!!」
「……解った」
 これ以上山中に時間を使うのが嫌になった佐藤はそう返事した。山中は命の喜びに震える。
「じゃあ、これでも貰っとけ」
「へ?」
 山中が振り向くと同時に、一陣の銀色が翻った。

 牧村と秋本の最近の話題と言えば、ここ最近姿を見せない親友の事だった。
「吉田、どこ行ったんかなー」
「また町にでも行ってるんじゃない? よく行ってるし」
「まあ、アイツ猫だからいいよな。俺達なんてタヌキとムジナだし」
「ん? あれ、何であんな所にカッパが?」
「え? カッパ? 木の上だろ?」
「でも頭に皿……あ、飛んだ」
「ってあれ、山中じゃねーか。天狗の」
「……えー、なら、あの頭って………」
「……あれは無ぇわ……あれは……」
 二人は天辺ハゲの山中を生温く見送った。

「吉田。吉田!」
 無残な頭部になってむせび泣きながら飛び逃げる山中には目もくれず、佐藤は未だ意識を回復させない吉田を抱き上げ、必死に呼びかけた。この失神は木に激突したからだと山中が言っていた通り、後頭に瘤がある。
「吉田!」
 佐藤は物の怪の退治の仕方は知っていても、治療のやり方は解らない。何処に頼ればいいのかすら、解らない。
 懸命に名前を呼び続けていると、吉田が「うぅ」と微かに呻いた。この時を逃さないとばかりに、佐藤は桶に入っていた水を吉田にバシャー!とかけた。
「―――ッ!?? ぶわっ! 冷て―――ッッ!!!」
「吉田……良かった………」
 佐藤の心からの安堵の声は、水をぶっかけられて軽いパニックに見舞われている吉田には生憎届いていない。
「え、何で? あれ、俺濡れて…………」
 暫く混乱が続いたが、ようやく記憶に整理がついたようで、吉田がはっとなる。
「そ、そうだ! 大変だ佐藤! 山中ってヤツがお前に達の悪い因縁つけてきて………」
 濡れたまま佐藤に詰め寄り、セリフ途中でまたはっとなる。
 地面に散らばる黒羽と、抜刀して傍ら転がる鋭利な日本刀。この羽は大きさからして、天狗のものと見ていいだろう。点在する状況証拠に、吉田は想像を詰め重ねた。
「……もしかして……もう、ひと騒動終わった後?」
「まあ、あれが山中ってヤツかは知らないけど、やたら失礼な天狗ならさっき追い払った所」
「………………」
 吉田の推理は正しかった。そして、それが証明されると同時に、吉田はがくっと肩を落とした。
「? 吉田?」
 もしかして頭部のダメージ以外にどこか傷を負っているのかと、佐藤は不安になる。佐藤が吉田の肩に手をかける前、ぽつりと吉田が呟いた。
「佐藤……俺、森に帰るよ」
「――――……… 何で?」
 枯れた声と、遅れた反応で佐藤の受けた衝撃の強さが伺える。それには気づかないで、吉田は「だって、」と言って言葉を続けた。
「だって、俺、本当に何も出来ないし。恩返しするとか言って、それっぽい事何一つしてないもん。だから佐藤だって、毎日あんな事してくるんだろ?」
 あんな事とは勿論、夜に床の上でするあんな事である。ちなみに花札ではない(当然だ!)
「…………………」
 まあ、妖と人間では多少貞操概念が違っていても仕方ないとは言え、そこまで通じて無かったのか、と佐藤の意識が一瞬遠のく。吉田の言い分はまだ続く。
「一度帰って、ちゃんと修行して、今度こそちゃんと恩返し出来るってくらいになったら、その時帰って来る――っ!?」
 セリフも途中ながらに、突然佐藤に力強く抱きしめられた吉田は、それ以上言葉を紡ぐ事が出来なかった。ぎゅうぎゅうと胸を圧迫するくらいの抱擁で、身動きどころか呼吸すらままならない。
「ちょ、ちょっと、さと……うぇ、ぐ、ぐるじ…………」
 回復したばかりだと言うのに、吉田の意識は再び沈もうとしていた。
「……ふざけるなよ………」
 それは相手に言い聞かすというより、勝手に口から出たような声だった。
「誰が帰すもんか……絶対、離さないんだからな」
 そう言って、また抱きしめる腕に力を込める。ぐぇっと吉田はさらに呻いた。もし自分が普通の人間であれば、とっくに気絶していると思う。
 それにしても、だ。
(何で、佐藤はこんなに………)
 こんなに執着される理由が解らない。もし立場が逆ならまだしも、助けて貰ったのは吉田の方なのに。いや、逆なら説明がつくというなら、それが正解なのか――?吉田は自分の過去を遡ってみる。目の前のこの青年と、どこかに繋がりはなかったかと。そんな詮索をしている最中に、佐藤が言う。
「お願い、何処にも行かないで」
「―――…………」
 そのセリフを、いつだったか、どこかで聞いたような気がする。最近では無く、そう昔の事でも無い。
 そうだ、あれは3年くらい前。この森で迷子を外にまで案内した後、そのまま連れて行かれて――そこで――
 だとしたら、あの時の迷子が――?
「……さ、佐藤……?」
 その声に、いつもと違うものを感じたのか、佐藤は抱きしめる力を緩め吉田の顔を覗き込む。
 そうして、二人はようやく「再会」を果たした。

「……それにしても、おっきくなったよな〜、お前………」
 佐藤があの時の迷子であると確認が取れた後、吉田の第一声がそれだった。もう少し感傷的になってくれてもいいんじゃないか、と佐藤はやや不服だ。
「たまに会う親戚みたいに言うなよ。今の今まで、ホント気付かなかったんだな」
 俺は気づいたのに、とわざと恨めしそうに言うと、吉田がバツが悪そうに身を竦ませる。
「だ、だって………わっ!?」
 佐藤が急に顔に触れて来たので、吉田はドキッとして固まった。佐藤の手は吉田の顔というより、目もとの傷に触れていた。
「この傷って、やっぱりあの時の?」
「あー、うん。残っちゃったなー」
 吉田は大した事では無いと、殊更軽く言う。実際、この傷は大した事では無いのだ。そう、この傷は。
 実は、というかあの時吉田に投げられたのは二石だった。うち1つは勿論この傷を作り、もう片方は頭部に思いっきり当たった。重傷だったのは勿論こっちの方で、吉田はその回復の為に暫く療養していた。そしてそれが明けた頃、吉田も佐藤が気になって探しに出たのだが、その時すでに佐藤は引っ越してしまったらしく、タイミングがかち合わずにそのまますれ違ったようだ。
 最も、吉田はこの事実は言わない事にした。言ってどうにかなるもんじゃないし、それで佐藤の負担が増えてしまうなら尚更だ。知らなくていい事もある。
「……………」
 吉田は頬を撫でられながら、すっかり端正に変わった佐藤の顔をじっと見た。その中にあるだろう昔の面影を探すように。
 傍に居てやろうと思った。人間にとって恐ろしい場所で、たった一人で蹲っていた子供。傍らに誰も居てくれないというなら、見つけた自分がその縁で傍に居てもいいかなと思った。抱きあげられ、佐藤の家に連れて行かれる最中に思った事だ。
 それが今になって、思わぬ形で果たされようとしているなんて、本当、世の中何が起こるか解らない。
「じゃあ、明日こそは俺が朝飯作るから」
 唐突だとは思ったが、吉田はそう言った。やはりいきなりの発言で、佐藤も少し意表を突かれたように「ん?」となっている。
「恩返しとかじゃなくて、俺がしたいの。家事とかも、ちゃんと分担とか決めて」
 吉田はここで少し言葉を区切って、言う。
「一緒に、暮らすんだろ?」
 それなら、協力し合って寄り添うべきだと、吉田は思うのだ。どっちかが偏るばかりの関係では、その内歪んでしまうから。
「……うん、そうだな」
 佐藤はまるで蕩けるように微笑んで、そう言って。吉田に口づけてそのままゆっくりと床に押し倒した。
 一度離れて顔を見ると、吉田は沸騰しそうなまでに真っ赤だった。反応としては今までと同じだが、違うものもある。
「あ、あのさ」
 より顔を赤くし、吉田は尋ねる。
「さ、佐藤がこういうのするのって、やっぱり……その………」
 真っ赤になり、言葉に詰まる。つまり、そうなってしまう事を吉田は訊こうとしているのだ。
「ああ、解ってくれた?ようやく」
 ようやく、の部分をゆっくり言う意地の悪い佐藤だ。吉田も睨むが、そんな顔をされても佐藤は怖くも何ともない。
 もう一度、佐藤はまた、今度は深く口付けた。離れるのが惜しい程の。


 うぇっうぇっ、ぐすんぐすん、と嗚咽が吉田から上がる。布団の中から。
「うう……また凄い意地悪な事された……やっぱり森に帰れば良かった………」
「ん? 吉田、何か言ったか?」
 と、言う佐藤は何故だかとても良い笑顔で、手に鎖を持っていたので(本当に何故だか)吉田は激しく首を振るしかなかった。


――終――