――ある日、佐藤はおそらく近所のいじめっ子達の差し金で、神社の裏の決して入ってはいけない、入れば神隠しに遭うとまで言われる森へ、行かなければならない窮地に追いやられた。何故そんな羽目になったかの詳細は、あまり記憶として残ってはいない。それはこの事を思い出す時、苦痛を伴わないようにする一種の自衛本能の仕業かもしれなかった。
 ここで佐藤は出会ったのだ。決して忘れたくない、その存在に。

 森へ入ると獣の咆哮等の物騒な声は聞こえなかったが、逆に一切の動物の声すら聴こえないという異様な事態に佐藤が気づくのに、そう遅くは無かった。そして、明らかな異変に竦み、その場所でついに足を止めてしまうのも。立ち止まっていては進む事も戻る事も出来ないとは頭で解っていても、恐怖で凝り固まった体は自分でも制御が出来なかった。このまま、ずっとここに留まって、誰にも知られず朽ち果てて行く自分の姿を、半ば本気で思い始めた頃の事だ。
 何一つ無い世界に、小さい声がした。にゃー、という声だった。佐藤の予想が外れ無ければ、それは猫の鳴き声だ。恐る恐る、蹲っていた顔を上げると、すぐ傍に控えるように黒い猫が居た。その猫は佐藤と目が合うと、またにゃあ、と鳴く。
 そして、軽い足取りで歩きだした。しかし、佐藤が留まったままなのに気づくと、後を向き、にゃあ、と鳴いてその場に鎮座した。その様子は、まるで佐藤に「こっちにおいで」と招いているようだった。そうだと解っても、佐藤に動ける筈も無かった。呼ばれて進んだ先、今よりマシな状態であると誰が保障してくれると言うのか――
 それでも、辛抱強く自分を待つ猫の態度に、固くなな心を軟化させた佐藤は立ち上がり、猫の元へと赴く。猫は佐藤が来たのを見て、嬉しそうにまたにゃあ、と泣鳴くと、揚々とした足取りで進んでいく。佐藤が付いて来ているのを、ちゃんと確認しながら。
 どれくらい歩いただろうか。長くもあったし、短いようにも思えた。結果、佐藤は無事に森の外へと出る事が出来た。入って歩いた時間を鑑みると、そう中にまで入り込んだ訳ではなかったというのに、周囲は木々で覆い尽くされ開けた場所の光も見えないくらいだった。やはり、この森はどこか可笑しい。人の踏み込んでいい領域では無いのかもしれない。
 そんな事を思いながら、ぼうっと森を眺めている佐藤の足元で、ここまでの案内を務めてくれた猫が鳴く。言葉にしたら「出れて良かったな」という所だろうか。猫の表情の変化なんて、人間の佐藤には判らないがその猫は佐藤の無事をまるで喜んでくれてるように思えた。途端、じんわりと胸に広がる温もり。初めて感じるものだった。
「あっ、待って!」
 森へ戻ろうとする猫を、佐藤は寸での所で捕まえた。おかしな場所を掴んでしまったらしく、猫は「ニャギャ!?」と変な声を発した。
「ね、お前、僕の家へおいでよ。美味しい物、沢山上げるから」
 抱きあげられた猫は、最初それに戸惑っていたようだったが、佐藤の「美味しい物をあげる」という台詞を耳にした時、途端に目を爛々と輝かせたように見えた。単純で良かった、と佐藤が失礼な安堵をしているのを猫は知らない。猫の承諾を得た事にした佐藤は、抱きあげたそのままで帰路を辿る。途中、何度も腕の中の猫は自分で歩きたそうにもがいていたが、佐藤は気づかないふりをしてずっと猫を抱いていた。片時も離したくなかったのだ。

 佐藤の家はかつて由緒ある武家だったらしい。それでも変わりゆく時代の波に押され、家柄だけではやっていけなくなった昨今、政略敵な結婚で商家の娘と婚姻した。武家は収入が欲しく、商家は古くから続く屋敷が持つ、濃く深い人脈が欲しかった。商家の狙いが正しかったのは、その後の発展が教えてくれる。
 それでも過去の威光はまるで亡霊のように家に染み付き、およそ武道に相応しいとは言えない体躯の佐藤に常に嫌な威圧をかけていた。何故お前はそんな醜く肥えているのだと、誰とはなしに佐藤はいつも感じていた。。この上、それが原因で苛められてると知られたら、その場でこの家から叩きだされそうだ。後取りについては、佐藤には上の姉がいる。きっと彼女がそれを果たすのだろう。佐藤には、誰も期待していないような空気すらあった。
 現在の商いの元が嫁の実家に機縁するからか、この家は女性の方が強そうに思える。肩身の狭い父親は、長男の佐藤にそれを覆す希望を見出そうとしているが、しかしそれは佐藤にとって迷惑以下のものだった。自分の人生は、自分で決めたい。人に振り回されるのなんて、ご免だ。周囲に怯える佐藤が毎日思う事だった。だから佐藤は、一人でいる事を好むようになった。けれども孤独が好きな訳では無い。いつも、寂しさに耐えて室内に籠っていた。
 でも、そんな日々も今日で終わり。今日から、自分の傍にはこの猫が居てくれる。この小さな温もりが、自分を癒してくれる。声を押し殺して泣く事もきっと無くなるのだ。
 佐藤は、この時に初めて体の重さを忘れられた。高揚感のままに、空すら飛べそうだった。初めて味わう感情だったから、それが幸福感と気づくのはもっと後の事だ。
 家の中に入れようとして、佐藤ははっと気づいた。この猫はさっきまで地面を歩いていたのだ。その足で室内を歩き回れたら、その足跡を見咎められて追い出されてしまうかもしれない。
「ちょっと待っててね。すぐ戻るから。お願い、どこにも行かないでね」
 手拭いを取って来ようと、佐藤は猫を庭に置いて大急ぎで部屋へと戻った。最後に念を押してはみたが、何せ相手は猫なのだ。ふらっとどこかへ行ってしまう動物だ。どたどたと重い体躯のせいで足音が廊下に響く。思えば、佐藤が誰かの為に走るなんて今までにも無かった事だ。
 庭から佐藤の部屋まで結構な距離がある。いや、外から見える場所から、と言い換えた方がいいかもしれない。時代が時代たったら、佐藤は自分が地下牢で誰にも知られないまま、一生を終えたかもしれないとすら思う。
 手拭いを掴んで、佐藤は来た時以上に早く駆けて猫の居る場所へ向かう。居るといいけど。居て欲しい。お願いだから。足を拭いてやって、部屋に上げた後はまず言った通りに美味しい餌をあげるんだ。夜は一緒に寝て、朝は一緒に目覚めて――ずっと一緒に――
 走りながら、そんな物思いに佐藤が囚われていると、突然その耳に異音が飛び込んだ。
 それはまるで、例えるなら猫が踏みつぶされた時のような――

 弾んでいた胸は反対の意味の動悸を刻み始めた。佐藤はなるべく何も考えないようにしてとりあえずその場所へと向かった。想像すると、嫌な方向にしか向かわないからだ。しかし、現実は残酷だった。
 猫が居た場所に、母親と祖母――姑ではなく、二人は血縁――が居た。やや離れた場所で佐藤は足止め、何事か話している二人の会話を聞き取った。
「全く、黒猫なんて縁起でもないわ」
「投げた石がぶつかったようだから、当分寄りつかないでしょ」
 ばさり、と佐藤の手から手拭いが落ちた。

 その後――佐藤は必死に近所を探し回った。石をぶつけられたという。あれはとても痛いのだ。佐藤にも経験がある事だ。そんな目にあわせてしまうなんて。しかも、自分が連れて来たせいで。
 佐藤は探して探して――結局、その猫を見つける事は出来なかった。使用人が迎えに来ても、強引に連れて行くその時まで探していたけれど、再びあの小さい姿を見つける事は叶わなかった。勝手に出歩いた罰として、夕食を抜きにされたが、そんなのはどうでもよかった。それより、猫が居ない方が余程堪えた。
 なぜこんなにもあの猫に固執するのか。佐藤は薄暗い室内でその真理を見つけた。自分の親は、いつだって正当な評価しかしない。信頼や愛情を得たいのなら、それに匹敵するものを与えなければならないのだ。でもあの猫は違った。出会ってすぐに、自分が困っていると解るとそれだけで助けてくれた。そこには打算も見返りも無く、ただただ気遣ってくれた。
 佐藤が生まれてこの方、そんな風に接してくれたのは、あの猫だけだったのだ。
 会いたい。もう一度。今すぐ。
 でも、何処にも居ない。
「………………」
 佐藤は、膝を抱えて顔を埋めた。猫と出会った時は、もうこんな風には泣かないと思えたのに。
 ただ、泣く理由は、それまでと確かに違っていた。

 それからほどなくして、佐藤の家は引っ越す事となった。大分収益が見込めるようになったらしく、さらなる発展を目指し、もっと都に近い大きな街へと越すのだという。佐藤はそれをただ黙って聞いていた。口を挟める立場なんか無いのだから。本当は行きたく何てない。この場所から離れたくなんてない。苛めっこ達と切れるかもしれないが、それ以上にあの猫に会う確率がさらに低まってしまう。
 最も――最悪、あの猫はもうこの世に居ないかもしれない。ぶつかった石の当たり所が悪くて。佐藤が家に連れて行った為に。佐藤のせいで。
 町を出る時、佐藤は泣かなかった。
 親の前で泣いても怒られるだけだし、この時の涙は毎晩泣いていたせいでほぼ枯れかけていた。
 そして佐藤がこの地を再び踏むのは、それから3年後の事だった。


 森を見上げ、佐藤は変わらないな、という印象を受けた。森とは勿論、佐藤がかつて苛めっこ達に追いやられるように入らされたあの森の事だ。ここに入ると神隠しにあう、という言い伝えは未だ健在のようだった。森の中は、まるで夜が置いてけぼりにされたように暗い。
 森は変わらないが、佐藤は大分変った。まず、その容姿だ。引っ越して暫く経つと、成長期だからか生活環境が変わったからか、とりあえず原因は定かではないが、佐藤は昔の肥満児だった面影をすっかり無くす程の美丈夫へと成長していた。過ぎる女性が皆振り向き、その端正な顔にため息をつくほどに。
 そのおかげか、佐藤はここ近年少しだけ家の中で過ごしやすくなった。いい待遇にはなったが、それは将来いい家の嫁を迎えるか、婿に行くかの利用価値の対価だった。でなければどうしてあんなにころりと態度を変えれるというのか。しかしここまでくれば佐藤も「人の使い方」を身に付けて行く。結局はこの家の人間なのだと自己嫌悪に陥ったりもしたが、自分の利益の為に自分を利用した。虚しい消化活動だが、他に術もない。佐藤はまず、「見聞を深めたいから」という理由で習い事を一通りこなし、専門学の講師の元で知識を確実に増やして行った。佐藤には野望があった。あの猫と出会った場所に戻り、また探してそして見つけるという目的が。勿論、家族にも誰にもその本音を打ち明ける事はないが。その為に必要な能力を備えたかったのだ。
 佐藤が教養を身に着けるという事は、つまり商品価値が上がるという事だ。確実な投資には惜しまない親の性質を、佐藤は生まれてからずっと見ている。だから相手が望んでいるだろう台詞も、考えずに言えるようになった。そうして佐藤は、一人立ちするに必要なものを全て手に入れて行った。そして家族に最後の嘘をつき、本人達が気付かないように欺いて、まんまとこの地へ舞い戻ったのだ。もう、誰にも邪魔をさせない。
 あれから、3年経った。あの猫は、まだ若かったように思う。それなら、まだ生きているだろう。
 ぶつけられた石の傷が、大きく影響しなければ、の場合だが――

 かつて佐藤が住んでいた町にも、大きな変化は見られなかった。大勢に囲まれた袋小路も、歩くだけで指をさされて笑われた河原も――
 そこらかしこに、まるで生々しい傷跡のように残っている。
 過去の傷が癒えない為、なるべく人と接したくない佐藤、は町から一番離れた家屋を買った。あの猫の住処だったかもしれない森を重点に探そうと思っているから、その辺りもあるが。
 しかし生活していく上では町に出て買い物をしなければならない。当然、少々なりとも人と関わる事となる。佐藤はその時、絶対に森に近い所に住んでいるのだとは教えなかった。神隠しに遭うのだという言い伝えは未だ健在だし、そんな場所に好んで住んでいると知られたら奇異な目で見られてしまう。もう虐げられるのは嫌だった。自分の心はそれに耐えれる程の強度は無いと、佐藤は自覚がある。。
 佐藤は使える時間を全て猫探しに当てた。えさ場を設けて猫を呼び寄せたりもしたが、あの猫は居なかった。同じような黒猫は何匹も居たが、佐藤は違うように思えた。理由なんて無い。ただの勘だが、それは絶対だと佐藤は思っている。
 会えば、きっとあの猫だと判るような気がする。一目では無理かもしれないけど、でも絶対解るのだ。
 一人で夜道を歩く時、佐藤はいつも待っている。にゃあ、というあの声がするのを。

 佐藤がそういう生活を始め、一つ季節が移り変わった頃――

 他に民家の無い佐藤の家では、些細な音もちゃんと耳に届く。それが聴こえたのは、そういう条件だっただからだ。か細い、猫の鳴き声。もう何日も鳴いて力も無いのだ、というように弱々しくもあった。佐藤はすぐに思った。さては罠にかかったな、と。
 どこにでも罰当りな輩は居るもので(見ようによっては佐藤もそれに含まれるかもしれないが)、物騒な言い伝えのせいで人が寄り付かないのをいい事に、非合法程に威力のある罠を仕掛ける者が居る。誰も入らないから、人が誤って掛かる事も無いだろうし獲物も手付かずだろうという算段の元だ。佐藤はそういった罠を見かけたら解除して破棄している。もし仕掛けた主が解ったなら、それなりの報復もした。佐藤にとって人間は大事にしたい種族では無かった。あれから、自分に優しくしてくれたのはやっぱりあの猫だけだったのだ。人間はだめだ。見た目で態度を変える。対応を決める。そして見た目で選ぶ癖に、何も見てはいないのだ。
 声を辿って行くと、案の定猫が罠にかかっていた。黒猫だ。おそらく子猫と若者猫(と、いう表記が正しいのか……)の間くらいだろう。左足を罠に挟まれ、にっちもさっちもいかないというようにぐったりとしている。にゃぁ、とそれでも鳴く猫。耳も垂れてぺしゃんとしていたが、佐藤が近づくとそれを察したのかピク、と持ちあがる。
「暴れるなよ。痛いだけだぞ」
 なんだか少し物騒にも聴こえるような台詞を吐き、佐藤は罠を取り外しやすいようにと猫を抱き上げる。助けたいという意思が通じているのか、猫は、うにゃあと鳴いて佐藤の着物にしがみ付く。佐藤が罠のとある箇所を押すとぱかっと挟んでいた歯が開く。猫の後ろ脚は解放された。罠に残酷なくらい鋭利な刃がついていたら、少し厄介だったがそんな事も無く、猫がぐったりしてるのも怪我より空腹の方に原因がありそうだ。幸い、買い物帰りで魚の干物を持っている。佐藤はそれを猫の前に置いた。猫はきょとんとするように佐藤を見上げる。
「食っていいよ。腹、減ってるんだろ」
 猫はまだ言いたそうにしていたが、最後には空腹に負けたのか干物をがつがつと貪る。美味しそうに食べられる干物の方に、良かったなと声をかけてやりたくなるくらいの食いっぷりだ。一旦魚から口を離し、ぺろりと口の周りの食べかすを舐め取る無邪気な仕草に、佐藤の頬も綻ぶ。人前では。決して見せない顔だった。
「………ん? お前、顔に傷あるのか」
 むしゃむしゃと再び食べ始めた猫の顔をふと見てみると、左目下に傷痕らしきものがあるのを佐藤は見つけた。結構はっきり見えるものなので、結構激しい傷だったのだろう。痕になるまでの期間を踏まえて現在の猫の年齢を考えると、子猫の時に出来たものかもしれない。結構喧嘩早いのかな、と佐藤は思った。

 家事を済ませた佐藤は、明りを灯し読書をしている。本を読むのは好きだった。他に遊ぶ友達が居ないのだから、本の世界に居場所を求めるしかなかったというのもある。
 佐藤が頁をめくる音だけが室内に響く。時折、虫や鳥の声もする。普通の人であれば孤独感に押しつぶされそうになるだろうが、人の残酷さを見せつけられてきた佐藤は、他に誰も居ないという状況の方が落ち着けるのだ。それに今は昔ほど闇に怯える事も無くなった。成長の証か、ついに自分の身すらどうでも良くなったのか。ぱらりぱらりと本を読み進める佐藤だったが――その内容はあまり頭に入って居ない。頭の中は、あの猫の事ばかり考えていた。そう、昼間にあった、傷跡のあるあの黒猫だ。あの猫が気になって仕方ない。
 黒猫であったし、傷跡は佐藤の庭に連れてこられた時のものだと説明がつけられても、年齢の壁がある。佐藤が昔出会った猫も、さっきの猫も、子猫の段階を少し抜けたような若い猫だった。流れた月日を汲み取れば、もう少し大きくなっていないと話が合わない。
 しかし――
 そんな大きな矛盾を抱えても、佐藤はあの黒猫こそが自分の探している猫ではないか、というのを否定しきれない。思い出せば出すほど、さっきの猫とイメージが被る。にゃあ、とまるでセリフを一言吐いてるように鳴く、少し独特な鳴き方。完全に強引に連れて来られたのに、待っててと言われたからきっと健気に守ってその場に止まっていたのだろう。だから母親達に見つかり、石をぶつけられて――
「―――………」
 佐藤は読んでいた本を閉じ、傍らに置いた。代わりに護身用に携えてある日本刀に意識を向ける。
 戸の外に、誰か居る。
 人が避ける森の近くにある家だ。ただの通り縋りでは片付けられない。明らかに何かの意志や目的が無ければ、ここには辿り着かないだろう。佐藤が気配を感じてから、しばらく時が過ぎた。しかし、戸の外の気配の動きは見られない。動くのを躊躇っているように思えた。相手がそうなら、ならば先手必勝だと、佐藤は戸をパシーン!と勢いよく開いた「ひゃ!?」と気配の持ち主が突然開いた戸に、大きく驚いた。
「――何だ、お前」
 佐藤はそのセリフを2重の意味で言った。まず、勿論どうしてここに居るかと言う意味。
 そして、何者なんだという意味。
 佐藤はてっきり山賊か何かと思っていたのだが、目の前に立っている人物はとてもそんな風に見えない。隙だらけだし、そもそも少年だし。それにしたって体格もはっきり言って貧相だ。低くて細くて、実際の年齢より大幅に下に見られる事が確実なくらいに。
 その少年の可笑しな所は他にもある。この時間にこんな所に居るのを置いといても、着ている物も少し異様だった。何せ、喪服のように真っ暗な服なのだ。それはまるで、白い着物を夜に染めたように黒い着物で。
「あ、あのう、その、えっと」
 手を合わせ、その手もセリフももじもじさせている少年の様子に、大きく「人畜無害」の4文字を見る佐藤。
「あの、俺、吉田って言って。吉田義男」
「ふーん。で、その吉田がどうかしたの」
 佐藤はすっかり警戒を解き、斜に構えた。態度を取り繕う事も無く、ただ思った事を口にする。
 そんな風に接している佐藤が、自分でも不可解だった。理屈ではなく、自分が勝手に反応している。何もしなくていいと、素のままで大丈夫だと。
 自分のセリフを突き返すような佐藤の物言いに、少年が少し挫けたようにうぅ、と顎を引いて佐藤を見上げる。不安に揺れる釣り目を見て、佐藤は奇妙な充実感を覚えた。そして、この時気づいた。
 この少年にも、左目の下に傷がある事に。
 奇妙な符号を佐藤が整理する前に、少年は意を決したように、一気にセリフをぶちまける。
「あのっ! 俺! 実は昼間助けられた猫なんだけどッ!!」
 ――と。

「……………えっ、何だって?」
 佐藤は久しぶりに、自分の呆然となった声を聞いたような気がした。何やら今、非常〜に衝撃的な発言が目の前の少年から出たような。
 少年――吉田は「やっぱり信じてくれないか」と唇を尖らせぶちぶちと呟いている。
「だから、猫なの。人間で言う所の化け猫ってヤツかな? ほら。ほらほら」
 吉田はそう言いながら、人間→猫→人間の変化を繰り広げた。姿が変わる度、煙玉で発したような白煙が沸き起こる。焦げくさくも何ともないのを見ると、普通に煙では無いのは明らかだが。
 実際に見せつけられたとしても、それまでの常識を全て覆すような光景を、佐藤はにわかには信じられなかった。
 そもそも、これは現実か?
 そう疑い始めた人間が取る行動は決まっている。すなわち、手を頬にやり、思いっきり、
「いでででででででで!!」
 抓るのである。
「何すんだよ―――ッ!!」
 吉田は抓られて熱を持った頬を摩りながら、佐藤に噛みつく。
「いや……あまりにもあんまりな事が来たから、一応現実の確認を」
「それは解るけど、そういう時は自分のやるもんだろッ!」
「自分にしたら痛いじゃないか」
「何だそりゃ―――!!!」
 フーッ!と激昂した吉田は、変化の方が疎かになったのか、癖っ毛の間からぴょこんと耳が飛び出る。よく見れば逆立った尻尾も生えていた。
 信じがたい現実ではあるが、吉田は紛れもなく化け猫のようだ。人に姿を変えられる、妖怪の猫。
(そうか――そうだったのか)
 吉田が化け猫であるという事実を中心に、佐藤の思い出の数々が集結する。最初から、変わった猫だと思っていたのだ。神隠しの森に突然現れ、まるで人の言葉を理解したような行動を取る。あの猫が化け猫であれば、その不思議さが説明がつく。それに、外見がちっとも変わらないのも。
 吉田なのだ。昔、自分を助けてくれたあの猫は。だから、この目の下の傷も、あの時出来てしまったものなのだろう。
 自分達が再会であるというのに気づいているのは佐藤だけのようだった。佐藤を見て、吉田が何かを思い出したような素振りは見えない。佐藤の容貌が大分変ったのだから、そこは仕方ないとは言え面白くない。何せ佐藤は、会ってからずっと吉田の事を思わなかった日は無かったのだから。
「それで――昼間は、ありがとう。もう2日あのままだったし、誰も来てくれないし、お腹は減るしあのまま本当に死んじゃうかと思ってた」
 先ほど散々な仕打ちを受けたものの、それはそれとして受けた恩は恩だ、という考え方らしく、吉田はきっちりお礼を言った。妖怪って皆こんなに義理堅いのかな、と佐藤は思う。
「それでさ、お礼をしようと思って。俺、人の姿になれる以外は何にも出来ないけど、魚捕るのは得意だから。だから明日から毎日、お前の分取って来るってのでどう?」
 吉田はいきなり軒先に魚があったら不審がるだろうからと、その打診をしに来たらしかった。これを断られたら他に出来る事が無いと、少し途方に暮れたように、縋る様に言う。
「魚……ねぇ」
「ぅ……木の実とかも取って来るから―――って、うわぁッ!?」
 佐藤がいまいち乗り気では無いように呟くと、吉田はいよいよ困ったように身を竦めた。それを見て佐藤は、可愛い、閉じ込めておきたいと思う。その衝動のまま、吉田を押し倒していた。
 いきなり倒された吉田は、釣り目を大きくぱちくりさせて覆い被さる佐藤を見る。佐藤は、何だか凄みある表情を浮かべている。ゾクゥッ!と吉田の背筋に強烈な寒気が走った。
「バカだなぁ、お前。恩返しと来たら……やっぱりこれだろ?」
 などと佐藤は言いつつ、吉田の帯をしゅるりと解く。留める物を無くした着物は布でしかなかった。前が肌蹴て、夜風が肌を撫でると同時に、吉田から血の気が引く。ここまでくれば、さすがに何をされる状況なのかが解ったらしい。
「ちょ、ちょっと待って!! 俺、そんなつもりで来たんじゃない!!」
「俺はすっかりその気なのv 魚よりお前が欲しいんだって」
「なななな、何で!!?」
 吉田は戸惑う。その理由を、吉田にはまだ解る筈もないのだ。しかし、佐藤は――
 ここで事情を説明してもいいけど焦がれて堪らなかった自分の3年分を吉田にも少し思い知って欲しかった。きっと今の吉田の比では無いのだ。その心のかき乱されようは。それにとりあえず、この慌てた顔が可愛くてもっと困らせてやりたい。こっちが主な理由かもしれなかった。
「止めろ―――!! バカ――――!! こんな事してどーするってんだ―――!!」
 佐藤が脱がすにつれ、吉田の抗議も激しくなる。が、勿論佐藤に止める気はさらさらない。
「ま、諦めろ」
「!!!!!!!」
 とどめとばかりに、唇を重ねると、吉田が吃驚して硬直する。その隙に、さっさと事を進めてしまう佐藤だった。

 うっ、うっ、ぐすんぐすんと嗚咽を漏らしながら、吉田は脱ぎ散らかされた着物を寄せ集める。
「うぅぅぅ……こんなヤツだっただなんて……お礼なんて考えなければ良かった………」
「はいはい。ほら、布団敷いたからこっち来な」
 吉田の愚痴をさらりと流した佐藤は、寝心地の良さそうな敷布団をぽんぽんと叩いた。
「何でだよ。俺、もう帰るよ……一応、済んだみたいだし………」
 そう言って、思い出したのかまたぐずぐずと泣きだす。そんなに痛い思いさせてないのにな、と佐藤は人事のように思う。
「何言ってんだ、お前。誰が一回でいいって言った?」
「……………えっ?」
 佐藤の呆れたような声で言われたセリフに、吉田が再び血の気を引く。
「だ、だって……だって………」
「あれだけじゃ、全然足りないよ。ちっともお礼された気分になんない」
「そっ、そんな!」
 吉田は悲鳴のような声をあげた。だって吉田はあんなにも大変だったのに。こうして起きて居られるのが、自分でも凄いって思えるくらいなのに!
「む、無理!もう無理だもん!」
 ぶんぶん、と吉田は必死に首を振った。はっきり言って、罠にかかった時以上の命の危機を感じている。
「ああ、俺も一度に済まそうって鬼じゃないし。だから、毎日じっくり………なv」
「何が毎日じっくりだ! 死ぬから! あんなの毎日されたら死ぬんだからな、俺!」
「大袈裟な。ちゃんと加減してやるから」
 その辺りの分別は佐藤にもある。……あると、思うよ。
「や……やだぁ〜〜〜〜!!わぁぁぁ〜〜〜んっ」
 終いには耳としっぽを出し、怯えるように泣き始めた。やれやれ、と佐藤は嘆息する。
「そんなに泣くなよ。美味い物を食わせてやるから」
「えっ、本当?」
 途端に泣きやみ、キラッと目を輝かせる。
 その反応は、昔同じセリフを言った時と全く同じものだった。
 それ見て、改めて、佐藤は出会えた実感を噛み締める。
 また、巡り合えたのだ。唯一、自分を庇ってくれた存在に――
 今度はもう何をしても離さないからな、と佐藤が覚悟を決めた時、吉田はまた背筋にものすごい寒気を感じたのだった。


――終――