夏の惰眠は最悪である、と誰かが言ったが、眠りにつかずとも現在の段階で佐藤の気分は最低だった。
 夏は嫌いだ。女子の制服が薄着になってウハウハしている牧村に吉田が同調するから。相槌程度だとは思って居ても、自分以外に懸想しているかと思うとこの蒸し暑さも消し飛ぶくらいの激しい怒りを覚える。まあ、それについては吉田が涙目になるまで頬を抓る事で解消出来るからいいとして(良くない)。
 今の時期、テストも終わり後は夏休みのなだれ込むのを待つばかりで、皆の意識はそっちへ向かっている。そういう面では佐藤も例に漏れずだったが、周囲とのベクトルは真逆を突き進んでいた。夏休みが近いから、佐藤はこんなにも気が沈んでいるのだ。
 学校があれば、大した約束をせずとも明日を迎えれば自動的に吉田に会える。しかし、夏休みに入ってしまえば、およそ40日吉田に会えない日々が続いてしまう。
 それがどうしても耐えられない。考えるだけで、胃に鉛の塊が満タンに詰まっているかのような感覚が溜まる。
 もちろん、夏休みに吉田と遊ぶ計画を取りつけようと思っている。が、さすがに毎日とまではいかない。佐藤としては、ずっと吉田と、一緒に過ごしていたいのだけど。
 それとはまた別に、盆の頃に実家に戻るか否かの返事を求められている件もある。特に予定が無ければ帰って来なさいと、半強制的な申し出だ。勿論、これも佐藤の本音としては「帰りたくない」である。例え一緒に過ごす予定は無くても、同じ地域に居るという事実に縋りたい。それに、傍を離れるのは自分だというのに、吉田に置いて行かれるという仄かな恐怖がある。イギリスに行く時もこんな感じだった。が、今回のそれはその時より強い。
 その時と今の違いは、やはり吉田との関係だろう。ほぼ他人状態だった昔と違い、今は仮にも恋人同士だ。同じ意味で、好き合っている。
 そうなっての別離は――例え一時的なものであっても――身が引き裂かれる思いだ。佐藤がより一層孤独感を深めるのは、自分達が離れる事に吉田はこれ程にまで深く悲観する事は無いだろうという事もある。仕方ない。自分には吉田だけだが、吉田には友達が沢山居るのだから。自分が居なくなった寂しさは、時間の経過とその誰かが埋めてしまうのだろう。そう思うとますます気が沈む。
 小学校を卒業してから再会までの3年なんて、一目も会えなかったのにここまで気落ちする事は無かった。人の欲は本当に限り無いと、憎たらしいまでに青い夏空を佐藤は見上げた。何かいっそ、酷い天災でも起きれば学校に被災地として吉田と一緒に過ごす事が出来るな、とかなりネガティブで物騒な事を思いつつ。
(――夏休みなんて大嫌いだ)
 そう、心で呟いて、女子の前では、顔は春風のように爽やかな笑みを浮かべた佐藤だった。


「なあ、佐藤って夏休みの予定どうなってる? お盆の頃とか」
 と、吉田が切り出したその直前、まさに同じ話題を振ろうかと思ってたので、佐藤は一瞬呆けた顔つきになってしまった。珍しい反応の佐藤を見て、どうした?と軽く首を傾げる吉田は、知らずオオカミの射程内に踏み込んでしまった子羊のように無邪気で、いっそ愚かですらあった。
「いや、特にないけど?」
 佐藤はそう答えた。嘘ではない。「実家に帰る」というのは言われたが、佐藤の予定として組み込まれていないからだ。それに、もしうっかりそんな事を言えばけじめに厳しい吉田に「ダメだろ、家には帰らなきゃ」と言われ兼ねない。
 吉田は、そっか、と言ってから本題を切り出した。
「あのさ、とらちんの親戚の家が海の家やってるんだって。
 本業は民宿だけど、泳ぐ季節には海の家出してて、で、お盆期間中に余分に手伝いが欲しくて、とらちんが来ないかって言ってさ。バイト代とは別に食事も貰えるんだって。そこ、ちょっと遠いから、泊まり込みがいいなら部屋も用意してくれるって。んでまあ、期間は1週間くらいで……佐藤、行く?」
 そう吉田に言われた時、佐藤の中で盛大なファンファーレが鳴り響いた。
 まず、吉田から誘われた事に感動し、次いで実家に帰れない正当な理由がついた事に僥倖し(嘘を言うのも疲れるのだ。色々と)、何より一週間の泊まり込みという素晴らしい条件に歓喜した。いやもう、狂喜したいくらいだ。
 そして「行く?」とやや躊躇いがちに訊く吉田の上目遣いがこれまた愛らしくて、キスやそれ以上をして滅茶苦茶にしたくなるのを堪えた。堪えたんだと思う。多分。
「へえー、海の家か。面白そうだな」
 あからさまな欲望をぶつけてしまうと、何かと初心な吉田が引いてしまうかもしれないので、一旦本音を隠して佐藤は受け答える。
「んー。でも室内じゃないから凄く暑いし、あんまりバイド代も高くないし、昼間とかは特に海で遊べ無いかもって言ってたし…………」
 吉田がそう説明するのは、現地に行ってから佐藤が落胆しないようにと気遣っての事だが、佐藤にしてみれば一緒に行く事にあまり乗り気でないように聴こえて、少し嫌だった。吉田とだったら、どこにだって行くのに。
「いいじゃん。俺、行くよ。吉田と居たいし。それとも、本当は俺が行くの嫌?」
 だから意地悪でわざとそういう言い方をしてみる。すると吉田は目を吊り上げて、
「そうだったら、最初から誘う訳ないだろっ!」
 顔が赤いのは、怒りと照れの為だろう。きっと吉田も思ったのだ。虎之介にその話を聞いて、佐藤と一緒に行きたいな、と。1週間の期間を、佐藤と過ごしたいな、と。
 自分達の想いの向きは同じでも、その種類は微妙に違うと佐藤は思う。だから、考えが合致するととても嬉しく思う。それは吉田も同じ事だろう。
 秘かに喜びに浸る佐藤の前で、なんでそういう言い方するんだよ、と吉田は唇を尖らせてぶちぶちと愚痴る。目も吊り上げたまま。クスっと小さく笑い、耳に顔を近づけて言ってやる。
「吉田が最初に意地悪言ったんだろ?」
「――んなッ…………!」
 吉田が反論する前に、その開きかけた口を塞いでやった。
 一カ所に触れると許されている場所全てを堪能したくなってくる。やはり劣情を抑制するのは難しい。そういうお年頃なのだし。
 ここが佐藤の部屋だからか、吉田は身じろぎのような抵抗をしただけで、後は大人しく受け入れた。


「佐藤も行きたいって言ってるんだけど……山中、それでいい?」
 何で佐藤がついていく事に対し、ヨシヨシは山中に訊くのか、という疑問は一旦置いといて、虎之介はどーなんだ?と横に控える山中を見やった。
 するとそこに居る山中は、まるで冤罪で有罪を食らった挙句に死刑を言い渡されたような顔をしている。この世の終わりを見て来たような表情でもあった。とにかく訊かれた内容に対して表情が壮絶だ(虎之介にとっては)。
「おい、ヨシヨシが訊いてんだから答えろよ」
「………っ!…………!!!!!」
 と、いう虎之介の声が届いているのか居ないのか、山中はひたすら顔色を無くし、ガタガタと真夏の盛りだというのに凍えたように震えている。虎之助にとっては謎のリアクションだろうが、吉田には予定済みの反応だった。すまん、と心の中で謝ってすらいる。
(っていうか、まだダメなんだな…………)
 あれからぼちぼちと時は経過しているが、山中が受けたダメージは回復の兆候すら見せない。何せ吉田を見て佐藤を連想し、それの影に怯えるくらいなのだ。今日もそのパターンはきっちり繰り返した。もしかして酷い噂を流した以外にも何かしてんじゃないだろうな、と吉田は疑う。
「い……いい………」
 引き攣った喉で振り絞るように出たそのセリフを言ったのは、勿論というか山中だった。顔はやはり幽霊に匹敵する勢いで青白いが。
 そして文字通り、決死の覚悟を決めた山中は拳を握り、この季節、鬱陶しく暑苦しいくらいの意気込みを込めて力強く宣言する。
「とらちんと、海に行くんだ! その為だったら俺は……この命、どれだけでも危険にさらしても惜しくない!!!!」
 そんな山中に、彼が佐藤と同席するという意味を知る吉田は、思わず「おお〜」と感嘆の声を漏らし、虎之介は、
「……何で海に行くのにそこまで命懸けなんだよ」
 と、ただただ呆れたという。

「って言うか、前も酷いよな。俺の状態知ってる癖に、佐藤誘うとか…………」
 委員の仕事があり、二人より一足早く離れた虎之介の姿が見えなくなると、山中がやや恨みがましい目で吉田をじとっと睨む。吉田もそれには、う、と言葉に詰まった。そう詰られる自覚はあるからだ。
「……でも山中って、本気でとらちんに惚れてんだなー」
 前に相談された時の内容を疑った訳ではないが、セリフだけで聞いたのと実際に行動で示されるとまた違ったものがある。山中にとって佐藤は恐怖の権化そのものだというのに、それと同行してでも虎之介の傍に居たいと言う。この覚悟は並大抵ではない。
「そりゃあな。……だって、俺にはとらちんだけだから」
 ぽつり、と独白のように言う。何をどう言ったのか、山中の評価は依然どん底もいい所だった。はっきり言って、今の山中はこの校内に置いて毛虫みたいに嫌われる存在だろう。いや、その後蝶になる事を鑑みれば毛虫より嫌われてるかもしれない。本当に、何を言ったんだ佐藤。
 山中が虎之介を好きなった経緯は聞いていない。けど、虎之介の方から「一人のきりの時声をかけたら懐かれた」と言うから、それがそのまま事実なのだろう。
 周囲に疎外され、孤立無援の所に差し出された手に縋る――何だか、昔の自分達を彷彿させるような構図でもある。
(って事は山中と佐藤って実は似た者同士なのかな……?)
 初めの頃、お互い気にくわないようだったのは近親憎悪だったのかなぁ、と確かめるつもりもない想像を立ててみた。うっかり佐藤に「おまえ山中と似てるな」とか言ったらその直後に凄い目に遭わされそうだし。
「皆から嫌われてた中、声をかけてくれたのはとらちんだけだから……だから、そのとらちんと居る為なら、俺はなんだって……っ!何だって………っ!!」
 そういう山中には死の恐怖すら克服したような強ささえ見えた。それでも佐藤に怯えるのだから、佐藤はどーやら死ぬ事より恐ろしい存在らしい。解らなくもない。
「お前、そんなにとらちんと………」
 吉田は少なからず感動した。何であれ、本気の決意が出来る人というのはそうそう居ない。そう、何であれ(←2回言う)
「佐藤にはちゃんと言っておくからさ。山中に酷い事するなって」
 それを聞いた山中の顔が、闇の中で一筋の光を見つけたように、希望で輝きだした。そして感極まりつつ言う。
「そっ、そうか! 吉田! 俺達の仲を応援してくれるんだなっ!?」
「いや、っていうか向こうで変死体が出たらお店の人に迷惑掛かるし」
「……………お前って、時々ミョーにシビアだよな…………」
 いっそ山中は畏怖の目すら浮かべ、吉田を見た。
 もしそうだとしても佐藤に比べればかなり温い方だよ、と吉田はその視線を跳ね飛ばす。
「まあ、どこまで俺の言う事聞いてくれるか解らないけどなー」
 制御不可能、の漢字だらけの熟語が吉田の背景に圧し掛かる。ふぅ、と空っぽな溜息を洩らす吉田に、
「………いや、あいつ、お前の言う事は聞くと思う」
 と言う山中のやけに神妙な声に、吉田もへ?となって見上げる。
「言う事を聞く、っていうより、本当に絶対に嫌な事はしないっていうか……まあ、うん、そんな感じだ」
 うんうん、と何か納得してるような山中に、吉田は捻った首を元に戻せないでいる。
(そーかぁ?結構嫌な事されてるよーな…………)
 あんな事とかこんな事とか……そんな事とか。それと色々と……
 過去の数々を思い出してしまって、気温の高い中、ますます吉田の温度が上がる。ぶん!ぶん!と頭を振って、どうにかそれを打ち払う。
「そういう訳だからっ、本当に、絶対、必死に、言っておいてくれよっ!?」
 何を、と言えば佐藤にこれ以上の仕打ちをさせない事だろう。自分に詰め寄る山中に、「懇願」という言葉の意味を見つけたような吉田だ。
「うん、ちゃんと言っておく」
 とりあえずは、と心の中でだけ付け足す吉田だった。その言葉に心底安心している山中に、少なからず罪悪感を抱かないでも無い。まあ、その時は相手が悪すぎたって事で……
 佐藤の件が片付いて(と思って)安堵した山中は、ついで顔をだらしなくへらり、と崩した。おそらくその脳内はすでに虎之介と二人(佐藤と吉田の姿は無いと思われる)海岸で戯れる所等想像しているのだろう。こんな時代だからこそ夢を持つ意味があると思った吉田は、そのままにしておいて自分の教室へと戻って行った。どうせ、今更山中が怪しい素行をしたとしても、これ以上評判が落ちる筈も無いだろうし。
 これから教室へ行って、佐藤にこの件……というか、山中とも一緒なのだという事を言おう。そして、山中を脅かしたり怯えさせたりしないで、とにかく普通に接する事も。果たしてその対価に何を求められるのか。思っただけであの冷気を思い出し、背筋がゾゾっとするが山中の為に我慢しよう。
 正直、虎之介の相手に山中はどうだろう、という気持ちが無い訳でも無い。同性とか云々より、山中という人格の問題だ。しかし、虎之介への気持ちは本気らしいから、その辺のフォローは少しくらいしてもいいかな、と思っている。
 それに、やっぱり山中に対して罪悪感を持ってるから。山中が佐藤を苦手(なんてもんじゃないが)にしてるのは勿論知っている。だから、虎之介からこの話を持ちかけられた時、吉田には佐藤以外を誘うとか(まあこれは佐藤にバレた時が恐ろしいからしないだろうけど)そもそもこの話を断るとか、いくらでも回避出来た。でも、しなかった。
 佐藤を誘う事にして、今少しその手間に追われている。この事態を、考えていない訳でもない。
 でもやっぱり、誰かと一緒に過ごすという事を思い浮かべた時。
 吉田の頭の中に、真っ先に現れたのは紛れもなく佐藤の姿だった。
(やっぱり、俺も佐藤が好きなんだなぁ……)
 一緒に居るリスクを抱えても気持ちが失せる事も褪せる事も無い。これでは全く山中をとやかく言える立場では無かった。
 佐藤を、そういう意味で好きだと自覚したのはまだ最近の事。でも、それは随分昔のような気がする。
 佐藤の事を意識して無かった時、毎日何を思って過ごしていたのか。
 同じ自分の事なのに、今の自分にはまるで解らない事だった。


 教室に戻ると、当然のように佐藤が居た。他に誰も居ない。このシチュエーションにいつかを思い出し、ドキっとする。
 休み前、半日で学校は終わる。そんな中、エアコンも無い教室に残ろうという物好きは居らず、一人残った佐藤は窓際の席で暑そうにして、下敷きを団扇がわりにして涼を求めていた。モデル雑誌の表紙を飾れそうな端正な顔つきの佐藤なのに、やる事は他のクラスメイトと同じだ。何だか、少し可笑しい。微笑ましい、というのだろう。女子の前だと清涼感漂う微笑を浮かべてるのに、自分と二人きりではあからさまに暑そうな顔をしているのも、何だか嬉しく感じる。
「ごめん、待った?」
「んー、いや」
 暑そうながらも、浮かべた微笑はやっぱり爽やかだった。茹だるような暑さの中、それでもやっぱり佐藤はいつも通り。
 しかし今は、少しでも涼しさを求めたのか、胸元のボタンはいつもより多く外れて形のいい鎖骨が見えるし、、汗ばんだ肌も見えていて、何だか……こう…………
「……は、早く帰ろっか! 待ってるの暑かっただろー! あ、そーだ! アイス食いながら帰ろーぜ! もうホント暑くてやんなっちゃうよなー!」
「? ああ、そうだな」
 不自然なくらいのテンションの吉田に、少し妙なものを感じながらも、とりあえず佐藤は席を立った。


 タイマーをセットしている為、佐藤の家に着くと涼しい空気が出迎えてくれる。その心地よさをを満喫するように、吉田が猫みたいに目を細める。そんな可愛い様子を、ちゃっかり佐藤は見て堪能している。正直言って、佐藤はクーラーの効いた室内よりも吉田の可愛い仕草の方が、余程癒される。
 部屋に通された後、さらに冷えたジュースも貰い、内側からも涼しくなった吉田は話を切り出す。まずは事務的な事。詳しい期日や仕事の内容。それに対する賃金や待遇等を言う。バイトとは言え、所謂「お手伝い」の延長なので、そこまで形式ばったものは無い。
「着替えも、2、3着でいいって。洗ってくれるし、向こうにもTシャツなら売ってるし」
「うん、解った」
 佐藤は素直に頷く。実に平和だ。こうやって普通の会話がまるで出来ない訳でもないのだから、いつもこうだといいのに、と吉田は思わずにはいられない。
(………さて、と)
 吉田は心で呟いて、仕切り直した。これからがある意味本番だ。山中が行く事も伝えないと。
 ごく、と乾く口内を唾を飲み込んで直し、「そ、それでさ、」と吉田は切り出す。少し噛んだが、中々の出だしだったと思う。
「山中も一緒に行くんだけど…………」
 言えた、と吉田は山場を越えた達成感を覚える。もっとも、山場はまだ続くのだろうが。
 それに対する佐藤の返事と言えば。
「ふーん」
 だけだった。
 あまりにも呆気ない返事に、吉田も目をまんまると見張る。拍子ぬけが一周して逆に驚愕だ。
「ふーんって……それだけ!?」
「他に何か要るのか?」
 そう言い返されると、吉田も言い返せない。しかし佐藤としても、吉田が何を気がかりにしてるか解らない訳でも無かった。
「まあ、高橋から持ちかけられた話って時点で山中がくっ付いて来る事は何となく解ってたしな」
「そ、そーなの?」
「っていうか、普段のあいつら見たら解るだろ。フツー」
「…………確かに」
 言われてみれば尤もな事で、そうなるとここまで気を張ってた事が馬鹿らしくも思えた。これが慣用句で言う所の「案ずるより産むが易し」というんだ、吉田!
「じゃあ、もう山中を怯えさせたりとかしない?」
 仄かな期待と願望を持って言う。
「あれは向こうが勝手にビビってるだけだから。俺には何とも出来ないなぁー」
 しれっと佐藤は言う。そんな佐藤を、吉田はさも胡散臭そうに見つめた。そんな顔も佐藤にとっては十分愛らしい。
「それに、俺はもう何もしてないよ」
 そう、佐藤は何もしてない。これ以上蔑む事も。そしてそれ以上に彼の名誉を挽回させる事も。
「んー、まあいいけど……でもっ、もし向こうでまた山中が変な事とかしても、怖がらせたりするなよっ!?」
 一応とりあえず、約束つけるように言ってみた。そりゃ確かに、山中にはうっかり犯されかけたし、怒るとか許すとかいう以前の問題だが、それでも今の彼の現状は気の毒過ぎるし、何より虎之介はそんな山中の事が気になっているのだ。その相手が恐怖でガタガタ震えていたら色んな意味であんまりだと思う。
 眉間に力を入れ、キッと睨んでみる。吉田としては迫力を上げる事を狙ったのだろうが、佐藤には可愛いとしか思えない。
「まあ、別にこれ以上何かしとうとかもあまり思わないけどさ」
「本当かー?」
 佐藤から、度々色々騙されている吉田は慎重だった。
「ああ。はっきり言って山中なんてもうどーでもいいし」
 はっきり言い過ぎだ佐藤。吉田の顔も引き攣る。
「それに折角の夏休みだもん。俺だって楽しく過ごしたいよ。脅迫したり召還したり儀式しないでさ」
「う、うん。そーだよなっ。……って、脅迫とか召還って………??儀式って????」
 何が、というか何を、というか。意味を探る吉田の視線に、佐藤は。
「吉田は知らなくていいんだよvvv」
「…………………」
 その佐藤の満面の笑みに、確かに当面のトラブルは起き無さそうだが、一抹の不安も拭いきれない吉田だった。


「えっと、現在地がここだから……目的の駅までは……」
 切符の販売機上にある、地下鉄路線図兼料金表を見ながら吉田が呟く。とても見難そうに。目は悪くないが、背が低いので人で隠れてしまうのだ。
「550円だよ。まとめて買ってくるから」
「あ。ありがと」
 どうやら佐藤は事前にルートをネットで調べたようで、初めて行く場所だというのに、その行き方は慣れてる、と言わせるくらいにスムーズだった。サクサクと事が進む。
(やっぱり頭のいいヤツは違うなぁ〜)
 それでも、勉学にしか動かない固い頭では、このような段取りの良さは無いだろう。女性にモテまくる事は佐藤の本意では無いだろうが、こういう振る舞いが好感を持たれるのだ。きっと。
 最初にこの話を佐藤に持ち出した時は、「まだ先の事」という感が強かったが、今日がその日だ。月日が経つのは早い。夏休みも半分終わろうとしている。
 駅のホームには、多分同じ海水浴場に向かうだろう人達がそこそこ居た。それでも二人は、電車に運よく並んで座る事が出来、吉田はさりげなく窓際を譲って貰った。アナウンスの後、それに従い発車し、振動を伴って前に進む。窓から見える流れる景色が海に近づく事を告げていて、とてもワクワクする。心が躍る。この時が、一番楽しいのだ。
(とらちん、今頃忙しいかな)
 自分達は今日からだが、虎之介は8月に入ってすぐに向こうへ行っている。吉田達はあくまでバイトだが、虎之介は親戚としてほぼ善意のボランティアみたいな扱いのようだ。あれでいて真面目な虎之介だ。佐藤のような器用さは無いが、サボったりもせず黙々と働いている事だろう。この話題が上がった時、「俺も同じ時に行く」と山中が散々駄々を捏ねていたが、結局はどうなったのだろう。現地集合なので、現在の山中の足取りは掴めない。まあ、完全に取れない事もないのだが、虎之介から何もメールが無いという事は、今日行ってるにせよ先に行ってるにせよ、問題無いという事だろう。
「吉田。課題、やってる?」
 つらつらと吉田がそんな事を考えていると、今もっとも訊かれたくない内容を佐藤が持ち出してきた。
「や、やってるよ。……少しだけ」
 後半のセリフの音量は、前半のそれの半分も無かった。それで吉田の心境を慮って貰いたい。
「佐藤の方はどーなんだよ」
「ああ。あんなの、7月中で終わらせたよ」
 やる事が残ったままって気持ち悪いんだよな、と事も無げに言う。
「ええええっ! マジで!?」
 思わず車内と言う事を忘れ、吉田が目を剥いて慟哭する。そんな事、自分にはとても出来ない。
 吉田の内情を察した佐藤が、ふ、と軽く笑う。余裕の笑みだな、と吉田はそれを見て思った。
「仕方ないな。片付かないようなら、いつでも駆け込んで来いよ」
「え……いや、それは悪いんじゃないかなと…………」
 実に甘美な誘いだが、代償を考えると腰が引ける。しかし、いよいよ切羽詰まったらそんな事も関係無くなって、佐藤に泣きついてしまうのだろうけど。実際、最近のテスト前のパターンはそんな感じだ。
(……そーいえば)
 小学生の頃、こういう長期休暇、特に夏休みは、吉田は遊びに感けてて宿題なんてそっちのけで。休み明けの数日、算数や国語のドリルの未提出者として最後の方まで名前を残し、朝の会では担任からよく怒られたものだ(ついでに帰ってからは母親に怒れらた)。
(佐藤、覚えてるのかなぁ…………)
 小学の頃の記憶は、共通の思い出なのだけど。それは同時に佐藤が心に傷を負った辛い時期でもあるから、どうしても話題として取り上げる事が阻まれるのだ。
「そろそろ、海が見えるんじゃないか」
 思い出したように呟いた佐藤の言葉に、吉田は「ええっ、本当!?」と言いつつ窓にへばり付く。程なくして、佐藤の言うとおり、低い建物の向こうに青く広い海が広がっていた。わぁっ、と吉田が顔を輝かせる。窓に近づいた姿勢のまま、顔だけを佐藤に振り向かせた。
「佐藤、海! 海だぜ!」
「ああ、そうだな」
 はしゃぐ吉田を、佐藤はその笑顔こそが眩しいとでも言うように目を細めて微笑む。その表情はまるで、普段は特殊嗜好(ドS)に隠れて見ない純粋な愛情が溢れているようで、吉田は海の事も頭から抜け落ち、目の前の佐藤の事で一杯になった頭は、顔の熱を上げさせた。


 駅に一歩降りると、辺りに吹く風は街中では決して感じない潮の香りを纏っていた。いかにも海水浴場に通じる駅、という感じだ。
「うーん、夏だなー」
「何を今更」
 座りっぱなしだった体を解す為か、吉田は腕を上げて大きく伸びをする。体が解れた開放感からか、吉田の口から思ったままの言葉が出た。それに笑いながら突っ込む佐藤。
 駅から海水浴場まではあまり距離は無かった。砂浜には人がごった返しなくらい溢れていたが、虎之介の姿を見つける事は出来た。青いタンクトップを着て頭にタオルで鉢巻をしていているのが、妙に似合っている。向こうは、まだこちらに気づいていない。
「お〜い、とら「とらち―――ん!」
 吉田の声に途中から別の声が被さった。と、同時に佐藤に向けてではない小さな女性の歓声が沸き上がる。
 振り返って確認するまでも無いが、山中だった。どうやら同じ電車に乗っていたみたいだ。出会わなかったが。
「とらち〜ん、来たよげぇっっ!!
 それまでは虎之介の姿を見た歓喜で顔から何から何まで緩んでいたというのに、吉田達(というか佐藤)の姿を見た山中はそれと同時にカエルが潰されたような声を発し、夏の砂浜で冷や汗を浮かべる始末だった。その山中の姿を見て、そこまで怖いのか……と憐れんでるのかも呆れてるのかも解らなくなる吉田だ。
 佐藤と言えば、そんな山中をさも面倒臭そうに見やった。例えば不当投棄された粗大ゴミを見るような目つきだ(酷い)。「オイ山中」と佐藤が呼びかけると、体が抜く所を間違えたジェンカのように崩れるんじゃないかってくらい山中がビクーッと大きく揺らいだ。
「何もしないからそんな怯えるな。鬱陶しい」
 佐藤はそう言うが、山中が鬱陶しくなった理由は100%佐藤が原因だ。
「……ほ、ほ、………」
 山中は「本当か?」と言いたいのだろうが、根付いた恐怖はそんな質問ですら封じ込めようとする。
「本当だ。吉田と約束したからな」
 さらっと言った佐藤の言葉に、吉田は釣り目をぱちくりとさせた。
(本当に約束守ってくれるんだ………)
 そんな事で感心するのもどうかと思うが、そんな相手なのだから仕方ない。佐藤は吉田の本当に嫌がる事は絶対しない、という先日の山中の言葉が過ぎる。その時はとても信じられなかったが、意外と真実なのかも……いやよそう。勝手に信用して勝手に失望する事ほど虚しい事もない。
「ほ、本当か! 本当なんだな!!!」
「ああ」
 縋るような山中に、やっぱり佐藤は面倒くさそうに答える。バカヤロウお前なんかと話してたら吉田と過ごす時間減るじゃねーか、みたいに。
 まあ態度はどうあれ、肯定の意を貰った山中の顔が光が灯るように明るくなる。
「あ……ありがと〜〜〜!! 吉田、マジでありがとなっっ!」
「いや別に、大した事してないし…………」
 そんな感激されると戸惑うな、と吉田は苦笑を浮かべた。そんなやり取りを見て、佐藤がにっこりと。
「ああ、言い忘れてたけど、10秒以上吉田を見つめたらその目玉潰すからv
「何もしないって言った傍から―――――!!!」
「てか10秒って短いだろ!!!」
「……………おーい?」
 そーじゃないだろ、と山中は吉田に突っ込みたかったが、佐藤の前でする勇気なんて、これっぽっちもありゃしなかった。