ヨシヨシ――――!!
 佐藤と並んで昇降口を後にした吉田は、特有のニックネームで呼ばれ驚きながら振り返った。
 見れば、予想通りに虎之介が居て、そしてなんだかものすごい血相だった。鬼のような形相と言っていいかもしれない。
「とっ、とらちん!一体どうし……………っ――――――!」
「すまん! ちょっと帰り付き合ってくれ―――――!!」
 なんだか、まるで必死に何かから逃げるように激走している虎之介に、吉田は腕を掴まれそのまま攫われてしまった。この一部始終に、その場に居合わせたものは、ただ目を白黒させるだけだった。
「……とらちーん! おおーい! とらちん―――!」
 そこからやや遅れて、山中が現れた。どこから走って来たか知らないが、かなり息が上がっている。単純に考えても、山中が虎之介を追いかけているという構図でまず間違いないだろう。そして、虎之介はそこから逃げた。吉田を巻き込んで。
 もう追いつけないと観念したか、山中はその場で立ち止まって呼吸を整える。
「はあ……とらちん、そんな逃げなくても…………」
 寂しげに呟いた時、山中は隙間から零れる冷気のようなものを感じた。微かだが、はっきりとしていて無視出来ないそれを。
 そして、山中はこの冷気を以前に感じた事があった。
 その時の記憶が蘇り、ぶわりと冷や汗が浮かぶ。
「…………………」
 もちろん、山中はその冷気の発信源なんて見たくもなかったのだが、彼の首は本人の意思を無視してその方向へとぎこちなく動いて行く。ギギ、ギギギ、と。誰かの力に押されるように。
 その視線の先には。
 吉田を連れて行かれて、ぽつんと残された佐藤が居て。
「………………………………………………………」
 そして、山中は。


 山中が今にも地獄に落ちる一歩手前という時、虎之助に攫われた吉田はどこぞの公園に居た。いつかみたいに親子連れとかは居ないから、どれだけ虎之介が取り乱してもむやみに子供を怯えされる事もないだろう。
 近くにあった自販機で、吉田はアイスの缶コーヒーを2つ買った。そして1つを、ベンチに項垂れるように座っている虎之介に渡す。
「はい、とらちん」
「ああ……すまねぇなあ、ヨシヨシ………本当に」
「うん、まあいいって。さすがに結構驚いたけど」
 吉田は軽くそう言って、虎之介の横に座った。
 と、その時吉田の携帯が鳴る。設定の着メロのおかげでそれが佐藤からだと音で解る。
 来たメールを、吉田は開いた。
<そっち、大丈夫か? 終わったら、部屋に来いよ>
 そんな文面がディスプレイにある。まあ、このまま明日に持ち越すとは吉田も思ってなかったけど。
 文の前半を見ると、自分が助けを求めたらすぐに来てくれるつもりなんだろうか。過保護だっつーの、とか思いながら吉田の口元が綻ぶ。
「佐藤か?」
 あんなパニクった状態だったが、吉田の横に居た佐藤の事は目に入っていたようだ。
「えっ? ああ、うん! そう!!」
 虎之介にそう言われ、何もやましい事でもないのに変に焦る吉田だった。おかしな挙動の吉田だが、今はそれ以上に虎之介は大変なので、特に気にかける事はなかった。
「あいつにも悪い事したなぁ……明日、謝らねーと」
「うーん、でも佐藤もとらちんが大変だってのは解ってると思うし……少なくとも、怒っては無いよ」
「そうか?」
「うん」
 吉田は自身たっぷりに頷く。怒ってたら文面は<俺の部屋に来い>って命令形だろうし。
 コーヒーを半分くらい飲んだ所で、少し落ち着いたのか、虎之介が話し出した。
「……山中の事なんだけどよー………」
 やっぱりそれか、と吉田は思った。自分を連れて来たのだから、多分そうだろうと思っていたけど。
「あいつ、何か最近、あいつ………」
 言いながら、虎之介が口元を覆う。
「俺に、キ、キスしようとしてきて…………!!!」
 何か思い出したのか、虎之介の顔がぼっと爆発したように赤くなる。
「……あのー、もしかして、されたっていう………」
 なるべく刺激しないように、吉田は訊いた。
「まさか! ンな訳ねえだろ!! ……まあ、頬には前にされた事あったけど………」
 確かにそんなような事言ってたなぁ、と吉田は山中に相談された時の事を思い出していた。
(まあ、山中のやつ、とらちんとヤりたいみたいだし……)
 そりゃキスくらいするよな、とそこは冷静に判断する。今の虎之介にそんな事を告げてやると、佐藤に代わって虎之介が山中を亡き者にしそうなので、言わないけど。
「本当に何なんだよあいつー……俺の事可愛いっつーし」
 本当訳わかんねぇ、と言って虎之介は唸った。
 首まで真っ赤になって。
(うーん、何かいつか来た道だなぁ……)
 唸る虎之介を見て、思わず自分の事を思い返して吉田は苦い顔をした。
 相手がどういうつもりなのか解らないから、自分もどう出ていいか解らない。佐藤に本命はお前だよ、と告白される前の自分とよく似ている。
 吉田は、山中が虎之介に向ける気持ちが友達以上の恋心である事は知っている。
 言ってしまうのは簡単だ。
 言うだけなら。
 でも、解決はしない。
「………あのさ、とらちん」
 呼んでみると、虎之介は一応吉田の声に反応した。
「山中にキスされそうになって、どうなった?
 ぎゃー!とか、わー!とか、気持ち悪ぃー!とか」
「…………………」
 吉田に言われ、虎之介は考えているようだった。
 じ、と地面を見つめ、やがてぽつりと呟くいた。
「…………解らねぇ」


 そういう事をされそうになって、すぐに嫌と否定が出来ないのは、もうすでにかなり気持ちが好きに傾いている。
 吉田の経験上では、そうなる。
(山中がとらちんに惚れるのはまだ解るとしても、とらちんが山中をなぁ…………)
 もちろん、外見で好きになった訳ではないだろう。では、中身はどうかと言えば、それもどうかと。
 何せ現在学校で(佐藤が故意的に仕組んで)広まっている彼の噂の7割が本当なのだと言う。多分佐藤が捏造した(たぶん)残り3割が、山中の人気を地のどん底のさらに最下層に突き落したものだとしても、その7割だって女子の非難を浴びるのに十分だった。
 それなのに、だ。
(なんでなんだ……とらちん…………!)
 うーん、と親友の身を案じる吉田の額に、小さく、しかし鋭い痛みが走った。
「痛っ!?」
「何考えてんだ?」
 佐藤が吉田の顔を覗き込んで、じぃ、と睨むように見据えていた。こんなに近くに寄るまで気付かなかったのか、と吉田は自分の集中に少し驚く。
 とりあえず落ち着いた虎之介と別れ、言いつけ通りに佐藤の部屋に来たのは20分くらい前。
 その間、吉田はずーっと上の空で考え深けていたままだったので、それでは佐藤もいい加減苛立つだろう。
「い、いや、ちょっと考え事………」
「だから、それは解ってる」
 何を考えてるんだ? と佐藤は再び訪ねた。吉田は、うーん、と軽く唸って。
「………例えばの話なんだけど……」
 そうやって切り出すのは、当事者および当事者の関係者である証明でもあるが、そこを突いて吉田が逆キレしたらそれは可愛いだろうけど、話が進まないので今は止めておく。
「自分が見て全っっっっく良い所が見つからない人を、自分の友達が好きになってたら、それ、止めた方がいいのか、それとも後押しすべきなのか…………」
 それを聞いた佐藤は、すぐに、ああ山中と高橋の事か、と真実を見抜いた。別に山中を絞めて吐かせた訳では無い。同じ立場の者は何となく解るのだ。
「どーすればいいと思う?」
 困ったような顔で、吉田は佐藤を見上げた。うわ、キスしたい顔だな、と佐藤は思う。しかし、真剣に相談されているのだから、まずはそれに応えないと。
「まあ、そうだな。お前が良い所が解らなくても、多分相手はその良い所を見つけたから好きになったんだろうし」
 確かに吉田は山中の何もかもを知っている訳ではないので、彼の良い所が全く無しとは言えない。本当ーに吉田には判らないけど、多分虎之介は山中の良い所を知ってるんだろう。
 虎之介の人柄は、吉田も信用している。そう可笑しな人を、好きになったりなんかしない。
(いや、でも山中、佐藤の対抗心だけで俺を襲おうとしたよな…………)
 それは大した可笑しな事かもしれない、と前向きになった傍から不安要素を見つけてしまった吉田だった。
 それに、と佐藤は続ける。
「その人の良い所なんて、その人が好きなヤツだけ知ってればいいんじゃないかな」
「そうだけど………」
「言っちゃあ悪いけど、恋愛沙汰なんて基本当事者以外は無責任な他人だろ。アドバイス程度ならともかく、あまり口を挟んでもどうしようもないと思うけど」
「うーん………」
 佐藤に懇々と諭されて、何時の間にか例えばでは無く吉田のリアルな悩み事扱いされているのに気付いていない。まあ、それが事実だしね!
(………確かに、俺もとらちんから「佐藤なんてドSだから止めとけ」とか言われても、好きなの止めないだろうし…………)
「………吉田。何だか俺は微妙に酷い事を思われてるような気がするんだけど」
「気のせいじゃないかなー」
「………ふーん」
 視線を外してしらばっくれる吉田を、佐藤はジト目で見つめた。その視線を痛く感じて、吉田は視線をそっぽ向かせたままだ。
 と、いい加減痺れを切らして、佐藤が両手で吉田の頬を包み、強引に自分へ向けて口付けた。
 いつもは、いきなりでもキスを報せるようにゆっくり近づく癖に、今日は本当にいきなりで吉田は呼吸の準備を出来ないでいて、キスの最中は苦しさと付き合う羽目になった。
「〜〜〜〜〜〜〜っ、ぷはっ!」
 執拗なキスから解放され、吉田は酸素のありがたみを感じる。
「もー! 苦しかっただろ!」
 涙目で訴えながら、唾液に濡れる口元をぐいっと拭う。
 佐藤はまだ物言いたげにじ、と見ていたが、不意にその顔を柔和なものに変える。
「?」
 と、佐藤の突然の変化に吉田が戸惑う。
「吉田って………」
 間近で、囁くように佐藤が言った。その空気を震わすような響きが、吉田の体表も震わせる。
「キスされる前も、キスしてる時も、終わった後も全部可愛い」
「っ!…………」
 何を言い出すんだ! という訴えは、急激に上がった熱のせいで阻まれた。
「そういうの、知ってるのは俺だけでいいんだ。お前だって、俺だけがいいだろ?……それと、同じ事じゃないかな」
「……何か、無理やりまとめようとしてないか?」
 ある程度羞恥から回復した吉田は、そう言い返す。
「そう? まあ、そうなるのは仕方無いって。
 なんで俺の部屋で俺以外の事を、お前が思ってなくちゃならないんだ?」
 不敵にふてぶてしくそう言って。ならもうお前の部屋来ないぞ、と憎まれ口でも叩ければいいけど。
 ベッドの上に押し倒されて、真っ赤な頬に優しくキスされてる時に言っても、あまり効果なさそうだから。


(そうだなー、とらちん、山中とそう体格も変わらないし、喧嘩も強いから、無理矢理ヤられそうになっても撃退出来るだろうし。
 あっ、でも一応、次に会った時「部屋に行くのは気持に整理がついた時にした方がいい」って言っておこうかな。本当、酷い目に遭ったし。いろいろ)
「……吉田。また俺に対して微妙に失礼な事思ってるな………」
「べーつーにー?」
「…………………」




<終>