あれはまだ、吉田がヨシヨシでもなく、高橋もとらちんで無かった頃の事。
 何気に廊下を吉田が歩いていると、一人の女子に声を掛けられた。彼女は吉田が振り向けてから、言った。
「その傷さぁ、高橋君にやられたって本当?」
「は?」
 あまりに突拍子も無い内容に、吉田の頭は一瞬空転した。反応が遅れたのはその為だ。
「ち……違う違う! そんな訳無いって! 大体、この傷出来たの小学の時だし!」
 確かに虎之介はその強面のせいで火が無いくせに噂という煙がモクモク発生してしまう人物で、それが気の毒で吉田も何となく一緒に居たりしていたのだが、それすら誤解を生んでしまうなんて!  虎之介の凶相、まさに恐るべし!!
「ふーん、やっぱり。あたしも違うだろうな、って思ってたんだー」
 詰まんない事聞いてごめんね、と彼女はさらっと告げて去って行った。
「はー……なんだってんだ全く………」
 久々に女子に声を掛けられたと思えばコレだ。中学に入り、女子の美的感覚が変わったせいか、吉田はすっかり非モテ男子の仲間入りだった。最も、恋の相手として見られないだけで、普通に会話する女子なら勿論居る。
(うーん、こういう場合はどうすればいいんだろ)
 吉田は少し頭を悩ませる。誤解を解く方法なんて、吉田には思いつかない。今みたいに直接尋ねられたら、そこで否定すれば済む話なのだが。
 そして吉田は少し腹が立ってきた。虎之介は顔はアレだけど(そこは吉田も認めざるを得ない)本当は面倒見が良くて優しいヤツなのだ。ダンボールの中で子犬が泣いてたら絶対拾う。まして雨の日だったら、その確率は鉄板以上だ。それなのに、顔だけで性格まで決めつけ、あらぬ噂が流言飛語してるなんて、それこそ酷い話だ。
「…………」
(でも、あの子はちゃんと確かめに来たんだな……)
 鵜呑みにしないで、当人に直接。
 その事もあり、吉田は彼女の名前を女子の中で一番早く覚えた。名札に書いてあった名前の漢字は、難しいものでも無かった事でもあり。
(井上さん、か)
 この時はまだ、高校にまで付き合いが及ぶとは思って無かった頃。


 最初の2学期くらいは、周囲が思っている噂の中の虎之介と、実際の虎之介のギャップを埋める時間に費やされた。そしてそれが払拭された頃、ありふれた名字から区別を付ける為に愛称も付けられた。
「な、な。ヨシヨシ、とらちんなんだけどさ」
 掃除の時間も終わる頃、まるで人目憚るようにクラスメイトが話しかけてきた。
「井上さんと付き合ってるって、ホントかな」
 振られた内容に、吉田は目をぱちくりさせた。
「へ? ……そ、そうなの?」
「いや、こっちが訊いてんだって。……ヨシヨシ、知らないの?」
「えー? うーん、そういう話は聞いてない……」
 吉田が考えながら言うと、クラスメイトはセリフを続ける。
「ほら、女子の中で井上さんだけ普通に話しかけてくるし、とらちんだって緊張してスゲェ顔にならないじゃん」
 この年頃の男子が女子に話しかけられると緊張してしまうのは自然の理だが、虎之介の場合悲しい事に元の強面が手伝って恐ろしい面構えになってしまうのだった。初めて見た時はさしもの吉田もビビった。
 クラスメイトに言われ、吉田も思い越して見る。確かに、井上と居る虎之介は、普通だ。普通過ぎてその普通が異常なのだと気付けないくらい普通だったので(ややこしいな!)言われるまで気付かなかったのだ。
「いいな、彼女とか。俺も欲しいよ」
「うん」
 という一般論で締めくくられ、話はそれで終わった。とりあえず、この場は。
(とらちんと井上さん……かぁ……)
 しかし吉田の中では続いていた。
 そういう話は本当に虎之介からは聞いてないし、井上からも出てこない。
(ホントに付き合ってたりするのかなー。もしそうなら、言ってくれればいいのに、とらちんも水臭いな。
 まあ言われた所でリアクションにちっと困るかもしれないけど……)
 だってこういう事慣れて無いし……と胸中で呟く吉田。
 虎之介を水臭い、と言ったものの、吉田もまた自分に彼女が出来たとなったら、虎之介にもおいそれと喋ったりはしないような気がするし。
(とらちんは誤解され易いけど、井上さんはそういう偏見持たないし。お似合いだよな)
 目の下の傷が原因であらぬ誤解が広まっていた時でも、井上は事実を確かめに来る事だった。思えば、あの時、井上と「話した」と言えるやり取りを初めてしたのだと思う。そして、彼女の名前と顔を覚えたのも。
 一番初めに覚えた、という事も含め、吉田に認識される女子のカテゴリの中、井上は「その他」と区別された所に置かれていた。
 その場所はもしかしたら恋に発展するものだったかもしれないが、虎之介と付き合っている、という、事実は定かでは無いものの、そういう話を聞いた時から井上に恋愛感情を持つというのは吉田の中では無しになった。それは本人ですら知りえない、ひとつの感情の行方だった。


「とらちん、どうだった?」
「……ぼちぼち、だな……」
 2人はやり遂げたような爽快感と微かな憔悴を見せていた。今しがた、入試を受けてきた所だ。こうなっては、もう結果を待つしかする事は無い。出来ない。
 3年間同じクラスだっただけには飽き足らず、進学する高校まで同じになった。示し合わせた事では無かったので、この事実が解った時は2人して吹きだしたものだ。とは言え、通っていた中学校の居住区から近い高校だから、志願する者は他にも居る。
「あ、井上さん」
「あー、ヨシヨシ。どうだった?」
「まあ、そこそこ……」
 スリッパから靴に履き替える場所で、井上と遭遇した。そこでつい先ほど虎之介に投げかけた質問に、吉田が答える。
「ところでさぁ、先にここ推薦で通った友達に聞いたんだけど、何かスッゴク格好いい男子が居たんだって」
「ふーん、そうなんか」
「今日居ないって事は推薦で受かったのかな。ちょっと見てみたかったんだけど」
「井上なら受かってんだろ」
「わぁ、嬉しい事言ってくれるじゃない、とらちん!」
 そう言って、井上は虎之介の背中をバン!と叩く。痛ぇよ、と一応言ってる虎之介だが、衝撃だけあって痛みは無いも同然だろう。
「…………」
 そんな2人のやり取りを、吉田は少し後ろから見ていた。
 普通、彼女が他の男子を格好いいなんて言ったら、ムカっとするだろうけど、何だか虎之介にはその様子が見られないように思う。
(付き合ってるのとは違うのかなぁ……)
 仲がいいのは確かだけど、それは自分の間にあるのと同等のように思えてきた。
「ヨシヨシ?」
 隣を歩いていない吉田を見失ったかと思ったのか、2人が不意に周囲を探った。それを見て吉田は、少し駆け足で虎之介の横へと赴いたのだった。


 それから迎えた春。3人は無事に志願した高校に通える事となった。
「また3年間よろしく、ヨシヨシ。とらちんもね」
「うん、こちらこそー」
 雑多に賑わう中、それぞれが同窓で固まっている。吉田もその例に漏れなく虎之介と何となく並んで立っていた。井上は一言2人に挨拶してから、再び女子のコミュニティの中へと入って行った。
 この学校の女子はパワフルである。それは錯覚ではなく、なぜなら明確な理由を見つけたからだ。
「あれが井上さんの言ってた「スッゴク格好いい男子」かな」
「だろうぜ。背もあるしな」
 同じ男子であるから2人は冷静に分析しているが、女子の側と来たら、まるでこれからジャニーズのコンサートでも始まるかというテンションでそわそわしている。あちこちで携帯のシャッター音が聞こえる。一応、便宜上では携帯は禁止されている筈なのだか、今はそんな規則綺麗さっぱり無視されていた。尚且つそれを注意しようものなら、瞬殺されそうな勢いすらある。一時期空手を習い、武道の心得のある吉田にははっきり解る。
(本当に背が高いなー チクショウ、何を食ったらあんなになるんだ?)
 まだ成長期なんだ! と言い張って中学3年間。まるで身長の伸びが見れなかった吉田はもう自分の背を受け入れるしかない。大丈夫、上には上が居るなら、下には下が居るものさ。……此処には居ないけど。
 井上曰くの「スッゴク格好いい人」は本当に芸能人か何かみたいに、複数名の女子に囲まれ、何やら会談でもしているようだった。どうも、自分たちのように同じ中学で固まっているのでは無さそうな感じだった。初対面であそこまで積極的になれる情熱は、少し見習いたいように思う。吉田は何となく眺めていた。
 すると――
(――――え、)
 右から左へ。話しかける対象に合わせて顔の向きを変えた中で、吉田と目が合った。たまたま偶然視界に入った、というよりは明らかに相手を見据えてるような視線すら感じた。
(な、何だ?)
 しかしそれは短い間で、吉田もなんかヘンなの、と思いながらさほど気にも留めなかった。
 実は吉田が知らないだけで、この時以外でもずっと視線は向けられていたのだが、この時には気付けもしない話だった。


 初めてのクラスで、それまでずっと一緒だった虎之介と初めてクラスを別にする事になってしまった。その代わり、とでも言うのか、例の「スッゴク格好いい人」と同じクラスになった。妙な縁である。
「――って事で、なんか俺的には変な感じ」
「そっかー、そういや、確かにヨシヨシずっととらちんと一緒だったね」
 昇降口に出会わせた井上と、ちょっとの間同窓トークを繰り広げる。吉田は特に人みしりでもないが、真新しい環境にすぐに適応出来る器用さもあまり持ち合わせては無い。まあ、すぐに慣れるだろうけど。
「でも、ヨシヨシ良いなぁー。佐藤君と一緒なんでしょ?羨ましぃー!」
「え、何で井上さん名前知ってんの……」
 何せ入学初日だ。クラスが別の井上が知るチャンスがあったとも思えないのだが。
「何言ってんの。もう女子の間じゃ佐藤君の情報の交換し合い、探り合いなんだから」
「そ、そうなんだ……」
 本当にパワフルだなー、と吉田は再認識する。もし佐藤ばりに美人な女子が居たとして、そこまで突っ込んだ事が出来るかどうか。
「でも、今のところ推薦で入ったって事と名前くらいしか解ってないのよね。何だか、中学の同級生は居ないみたい」
「へぇ。って事は遠くから来たって事かな?」
 言いながら、吉田は訝しむ。言っては悪いがこの高校、レベルは低くも無ければ高くも無い。遠くから選んで来る価値があるかどうか、怪しい所だ。吉田だって、近いという物理的な理由で此処を選んだのだから。
「――っと、ごめん! あたし早く行かなきゃ。彼氏と待ち合わせしてんのv」
 携帯で時刻を確認し、井上は少しはにかんで言う。
 合否の発表も済んだ春休み前。中学時代の最後の時間を弄ぶように学校に通っていた中、井上から彼氏が出来たとの報告を受けた。この有り余るくらいの空白の時期、井上とその彼氏は思いっきり青春を満喫したようだ。
 それを聞いた吉田は、井上よりもまず虎之介を見てしまった。しかしここでも虎之介は普通に「良かったな」とだけ言ったに留まった。その言い方も、突き放すようでも嫉妬を込めたようでもなく、純粋に友達を祝福するものだった。
 これまでは知らないが、少なくともこの時を含めた以降は確実に2人は付き合っては居ないのだろう。3年間、確かめるすべも無くやきもきしていた吉田の問題に、一区切りがついた。
「俺も春休みに頑張って彼女作っておけば良かったー まさか高校であんなスゲーの居るのとは思わなかったし」
 吉田は半ば愚痴のように零した。スゲーの、とは勿論佐藤の事だ。女子はもう佐藤君佐藤君の連呼で、その他男子はその辺に転がってる石と区別が出来てるかどうかも怪しい所だった。佐藤の、あの顔の整いようなら、無理も無い話かもしれないが。
 ふぅー、と溜息をつく吉田の背を、井上は激励を込めて軽く叩く。
「まあ、そうめげないの。そりゃ皆、佐藤君に夢中かもしれないけど、吉田もいい所あるんだから。女子って顔も大事だけど、やっぱり最後には優しい人を選ぶと思うなー」
 最後の言葉には結構説得力が籠っていた。井上の経験だろうか。
「え、そ、そうかな?」
 同窓の誼だとしても、そう言ってくれるのは嬉しい。吉田は頬を染めて頭を掻いた。
 井上はじゃあね、と言い、小走りで校門を駆けて行った。それを眺め、思わず青春だなぁ、と吉田は胸中で呟いてみる。
 と、その時。ふと背中に気配が。
「………あ、佐藤」
 本当にいつの間にか、佐藤が背後に立っていた。いつからだろう、と吉田は少しだけ気になった。
「ごめん。邪魔だった?」
 下駄箱前に立つ自分の背後で佇む佐藤に、吉田はそう思った。とりあえず、一歩横にずれる。
「いや、邪魔じゃないけど………」
 佐藤が言う。自分みたいに変に甲高くなくて、落ち着いてしっとりとした声だった。顔の格好いい人は声まで格好いいのか。何だかよく解らないが、ずるいと思う。
「今の、吉田の彼女? 随分仲良さそうだったけど」
「へ?」
 吉田はきょとんとする。そして、噴出した。
「違うよー。中学の時の同級生!そんだけ」
「へぇ、そうなんだ」
 吉田は笑いながら佐藤の誤解を訂正した。本当に何から何まで一般男子の規格外みたいな佐藤が、こんな頓珍漢な勘違いをしてるのが可笑しかった。言い方があれかもしれないけど、佐藤もやっぱりその辺の男子なのだ。
「じゃ、バイバイ」
「ああ」
 これから履き替える佐藤と違い、吉田はすでに運動靴だった。そのまま手を振り、校門へと向かう。
 その道すがら、吉田はこれから迎える高校ライフについて考えていた。
 とりあえずは井上から彼女が出来ても可笑しくないんじゃない? というお墨付きをもらったのだ! 自分だってやれば出来る! 多分!
 吉田の足はまさに前へ向いて進んでいる。其処に、横からその足を挫けさせるような、何だか暴力的な響きを持った声が轟く。しかも、吉田を名指して。
「――ちょっと! 吉田義男って、アンタよね!?」
「え、ええええ? はい、そうですけど……」
 何だか尋常では無さそうな相手の様子に、吉田は思わず敬語で答えてしまった。
 ぱっと見、可愛い子だった。微笑んでたら、もっと可愛かっただろうに、今は怒りで顔を染め、眉を吊り上げいかり肩になっている。
「どういう事なのよ!」
 彼女は吉田に詰め寄る。そんな真似をされる覚えがさっぱり無い吉田は、ひたすらえ? え? と戸惑うばかりだ。
「折角、知り合った所でカラオケに行こうと思ったのに……先にアンタとの予定が入ってるってどういう事!? 何時の間に取り付けたのよ、そんな約束!」
「ちょ……ちょっと待った! なんか色々勘違いしてない!?」
 まるでいつぞやのデジャ・ヴだ。最も、あの時の井上はこんなにエキサイトしてなかった。
 そして何より、決定的な違いが。
「はぁ!? 何が勘違いよ! 佐藤君がそう言ってたんだからね!!」
「……………… 
え―――――――っ!!!!!
 これは、勘違いでも誤解でも無い。強いて言うなら、そう、嵌められた!
 佐藤に!
「ささささ、佐藤―――――!!?」
 さっきまで彼が居た下駄箱を振り向くと、今のやり取りでも見ていたのか、やたらにこにこした顔でこっちを見ていた。場合が場合なだけに、吉田はその笑顔がイラっとした。
 これは一体どういう事だ! と来た道を猛突進で引き返す吉田。
 そんな自分を嬉しそうに見る佐藤の笑顔の真意をするのは、少し先の事だった。




<END>