佐藤が触れて来るのは、突然にして唐突だ。もっと言えば、こっちにとっての不意打ちになるタイミングを、あえて見計らって仕掛けてるような気がする。
 佐藤の長く逞しい腕が、檻のように自分を封じ込めるとそういう時間の始まりだ。それまでだらだら寛いでいた部屋の雰囲気も、がらりと変わったように感じる。
 今日は背後から抱きとめられた。襟元が結構広いタイプの服のせいで、項付近を佐藤が狙う。それでも痕を付けない様にしてくれているのは、吸われた感覚が無い事で解る。それでも、佐藤の薄く柔らかい唇で何度もなぞられると、吉田の脳内で早速危険信号が点滅する。ただえさえ首筋は弱いのだ。感じたまま反応してしまうのを、堪えられない。
「ちょ……と、もー、しつこい!」
 おそらく佐藤にとって最も効果的な仕返しは、無視する事。だからこそ、吉田は長い事黙り続ける事は出来なかった。
 密着して触れるだけで、特に不埒な事をしない佐藤は、スキンシップを求める動物みたいでしている事は微笑ましい。しかし紛う事無く、吉田にとって佐藤は恋人に値する相手なので、密着されるだけでもおかしな気持ちになってしまう。そういうつもりなら、さっさとそうして欲しい。焦らされるのが一番困る。……自分から強請ってしまいそうで。
「もー、なんなんだよぅー」
 そんな気を紛らわす為か、文句にもならない抗議を口に出す。本当に嫌がってないからか、佐藤も自分の態度を全く変えたりはしなかった。
 吉田を少し抱き上げ、座る自分の足の上に横座りにし、ぴょんぴょん撥ねる髪が可愛い吉田の頭に自分の顔を乗せる。人の足の上と、決して安定のいいとは言えない場所に吉田が身じろぐのに合わせ、佐藤は顔を擦り寄せた。そしてぽつりと呟く。
「マーキング」
「へっ?」
「吉田は俺の、って主張するの」
 だから匂いをつけてるんだ、としれっと言う佐藤に、吉田はゆでダコのように真っ赤になる。
「ばっ……! そんなの、明日になれば取れちゃうよ!」
 そこに突っ込みを入れるのか、と内心佐藤は微笑んだ。
「いいもん。明日もつけるもん」
「”もん”とか言うな! 合って無い!」
 そう言って逃げを打つ吉田の体を、抱きとめる腕に力を入れる事で封じ込めた。多少身体を圧迫したらしく、「ぐぇっ」と吉田が唸った。
「吉田って、良い匂いがする」
 わざと耳元で囁くと、声も無く「ひっ」と戦慄いた吉田は顔をますます赤らめた。
「俺、この匂い好きだなー」
「ふ、ふ、ふ、風呂にはちゃんと入ってる!」
 少し声を裏返してまで吉田が言う。だからそういう事じゃないんだって。わざと外してるのか本当に照れてるのか、最近あやしくなってきた佐藤だ。
「大体、良い匂いなら佐藤の方がよっぽど――………っ!」
 そこまで、殆ど言いかけ終えてようやく吉田は自分のセリフの恥ずかしさに気付いたようだ。はっとなって口を紡ぐが、そこまで言ったなら全て言ったのと同じ事だ。
「へえ、そうなんだ」
 俯いた吉田には佐藤の顔は窺いしれないが、その声はどこまでも上機嫌のものだった。表情なんて見ないでも解るくらいに。
「なら丁度いいや。ずっとこうしてよv」
「や……ぅ……は、離し………っ」
「トイレの時は離してやるから」
 当たり前だろッ! と突っ込む気力すら薄れ、吉田は佐藤の腕の中で唸り続けた。


 何かと嘘の多い佐藤だが、それでも吉田に対して偽る事は少ない。結局、この日は帰る時間になるまでずっと佐藤の御膝抱っこで過ごされた。その間と等しく顔も紅潮しっぱなしだったので、なんだか酷い湯あたりになったようだった。どうもクラクラする。
(なんか、ホントに佐藤の匂い移ったみたい………)
 家に帰っても尚、抱きとめられている感覚が抜けない。母親に疑問に思われないよう、吉田は自室で引き籠っていた。見たいテレビがあったけど、今日はそれどころじゃない。
 佐藤からは良い匂いがする。それは確かだけど、説明するのは難しい。良い匂いとは言うが、香水のとは違うと思う。本当にそれを付けてる人の横に並ぶと、明らかに違うと思える。強いて言えば、宙に溶けて風に運ばれる花の芳香に似たものがあるかもしれない。香水のように意図的につけたのではなく、ただ居る事で香り立つさりげないもの。だから、やっぱり佐藤本人の――所謂体臭、というものになるのだろう。体臭と言うと、不潔なものようなイメージで、使う事が少し躊躇われるけど。やっぱり格好いいやつは匂いまで良いんだな。よく解らない理屈と結論で吉田はこの話を締めた。
 そうこうしていると、母親からさっさと風呂に入りなさい、とい小言が飛んできた。気づけばずいぶん時間が経っている。
「――あっ、そうだ、義男!」
 言われた通り風呂に向かってるというのに、今度は何なんだ、と少しうんざりして「何?」と振り返った。
「あんたね、最近シャンプーとか使い過ぎよ。ちょっとは控えなさいよ」
 母親にそう言われ、ギクリ! と吉田の肩が大きく震えた。まさに丁度、ついさっきまで吉田が悶々としていた事を汲んだ内容だったからだ。
「だ――だって、仕方ないんだって!」
「はあ? 何が仕方ないっていうのよ」
 言い訳ではなく、真実そう言ってるような息子に向かい、怪訝そうな顔をする。
「だ、だって………」
(佐藤が抱きついてくるから……って言わる訳がないしッ!)
 自分のセリフに自分で注釈を入れる吉田だった。なんとも不毛だ。
「〜〜〜、何でもないっ!」
 嘘をつく器用さをてんで持ち合わせてない吉田は、それだけ残してさっさと風呂場に入る。今に残っている母親が、凄い不審に思っただろう事が解るが、他にどうしようもない。湯船に浸かり、吉田ははーっ、と息を漏らした。通常こういう場合はリラックスして息を吐く場合が多いが、この時の吉田に限っては意味が逆だ。
(自費……で買うしかないのか)
 今までのペースを保ってボディソープを使い続ければ、今日の二の舞になるのは明らかだ。
 いっそ佐藤に要求してやろうかな、と思ったが、想像の段階でにこにこ笑顔でいいよ、という佐藤が浮かんだのでそれはナシになった。
 マーキング、と言って嬉しそうな佐藤の笑顔を思い出す。それ自体というよりは、そういう事を出来るようになった立場が嬉しいのだろう。それならもっと、別の自分にも受け入れやすい形で言ってくれればいいのに、と吉田の恨み事は尽きない。
 風呂から上がり、吉田は自分の匂いを嗅いでみた。腕を鼻に近づけ、すん、と嗅いでみる。香り立つのは今しがた入っていたばかりの入浴剤の匂いだ。それ以外の匂いは探せない。
 自分についた佐藤の匂いは落ちちゃったのかな、と思うと少し寂しかった。
 こんな事、他の人には勿論、佐藤にも言えないけど。佐藤と付き合い始めてからこっち、人に言えない記憶ばかりが増えているように思う。
 明日はどんな秘密がどれだけ増えるのだろう。そんな事を思いつつ、吉田は就寝に入る。
 横になり目を瞑った時、ここには居ない佐藤の匂いがしたような気がした。



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