バスケット、バレーボールは吉田があまり好まない競技だ。この2つは、特に背が無いと得点を決められない種目だからだ。やはりやるからにはパスを回すばかりじゃなく、点を決めたいと思う。体育のカリキュラムが、これまでサッカーだったのがバスケットに変わるのを黒板で知り、吉田は人知れず溜息をついた。
 と、その溜息が自分以外の誰かと重なった。誰かと思えば、いつの間にか横に居た女子だった。
「いいよねー、吉田は。授業でいつだってスポーツしてる佐藤くん、見放題なんだもん」
「見放題って……」
 なんだか食べ放題みたいにお得感を与える言い回しだが、吉田はその境遇に対して特にラッキーとも思った事はない。
 まあ、彼女が嘆くのも無理もない事だとも思う。ここの学校は体育の授業は男女別で、しかも体育館と運動場を交代で使うように進行している。佐藤の姿を視界に収める事すら出来ないのだ。それを踏まえると、球技大会でのあの熱狂ぶりも納得できる……かな?吉田は納得途中で首を捻る。
「球技大会じゃあんまりよく見えなかったし、見るに集中して写メとるのも忘れちゃったし」
「あー、じゃ、俺行くから……」
 ほっとくと何処までも愚痴りそうな雰囲気を察した吉田は、早々にその場から立ち去る事を取った。それでも最後に一声かける所が、人の好さ加減をにじみ出てるというか。
(そーいや……俺って授業で普通に佐藤が見れるのに、何で球技大会の時、見に行ったりしたんだろ)
 しかもチアの服のまま。
 きっと、あの時色々可笑しかったんだな、と吉田は無理やり結論付けて、しかしそんな時、球技大会の後日に言われた佐藤のセリフが蘇る。

 ――当然だろ 好きな子見に行くのなんて………

「……………」
 あのセリフの後、思わず見に行ったと口走ってしまい、それが事実上の告白だったのかもしれない。最も、そんな気持ちは佐藤にとっくにバレていたようだが。一体いつの、どの態度で気づかれたのか果てしなく気になるが、恥ずかしくてとても聞けたもんじゃない。
 顔を真っ赤にさせたまま、吉田は走ってはいけない廊下を駆け抜けた。


 小学校の頃。給食の時と体育の時間に、最も佐藤はイジメられていた。体育の時間、佐藤は文字通りの邪魔な荷物だからだ。1対1でのパスの練習の時、1人でぽつんと立っている佐藤をよく見たものだ。
 それが今や。
「おい、佐藤。一緒にチーム組もうぜー」
「ええー、俺らの方に入ってくれよ。なあ、佐藤」
 引く手あまたの光景に、何だか吉田は過去を知っている分、感慨深くなってしまう。
 グループ競技の評価は、だいたいチーム毎につけられるのだから、上手い人と組んだ方が得なのは自明の理だ。それと同じ理屈で、昔の佐藤は除け者になっていた訳だが。
「吉田! 俺と一緒にやろ」
 色々と物思いに耽っていた所に、佐藤が声をかけて来た。男子ばかりからか、女子に見せるようなやたらキラキラとした笑顔は今は浮かべてはいない。それでも素を出してる、という訳でもないのだが。
「また吉田かよー」
 佐藤の勧誘に失敗した男子が言った。
「お前ら、本当に仲いいよな。なんでなの?」
 今更過ぎる疑問だが、口にしたい気持ちも解る。吉田もたまに言いたくなるからだ。
 この問いかけに、佐藤がにこっと笑う。その笑みに、吉田は危険な予感を抱いた。
「ああ、それはね――」
「さ、佐藤! ボール取って来よう、ボール! なっ! なっ! なっ!!」
 これ以上何も言わせまいと、吉田は必死に佐藤の背中を押した。


「何を慌ててるんだか……いくらなんでも、俺だって言葉選ぶよ」
 佐藤は自分が強引に連れ込まれた理由をすでに熟知している。そういうところが油断ならないのだ、と吉田は警戒を緩めなかった。
(何か……佐藤がネコ被っても、素を出しても、結局俺が困る羽目になるような気がする………)
 どれだけ改善策を練っても結局はバッドエンドに向かうような、じっとりと嫌な感じがした。これがだたの杞憂である事を祈るばかりだ。
 ボールを取りに来たのは佐藤をあの場から引き離す為の口実だが、言った手前しない訳にもいかない。何となく埃っぽい体育倉庫の中、佐藤とバレーボールの入るコンテナを取りだしに入る。コンテナが通る為の道を、まず空けないとならない。ガタガタと周辺の物を移動する。
「………。吉田」
「んー、何………っ」
 照明の事は考えていない薄暗い倉庫の中。ちゅ、とした音で吉田は自分の身に降りかかった事を知った。
「バッ……な、何っ!!!」
「どう見たって2人きりだろ?」
 人目が無ければ場所を選ばない佐藤の価値観を、吉田が受け入れる事は難しい。しかも時々人目を気にしない時すらあるし。
 ――人目が無ければいいってもんじゃないだろ!
 すぐさまそういう反論が浮かぶが、あえて口にはしない。これまでのやりとりでそう言った後は、ものすごく恥ずかしいセリフでしれっと言い返されてしまうからだ。だってずっと吉田の事が欲しいんだから、とか、吉田が足りないんだもん、とか。
 吉田さえ居ればいい、とか――
「…………。ほら、さっさと行くぞ!」
 まだ佐藤の感触が残る口で、吉田はそれだけ言った。


 本当にもう、全く隙あらば手を出すんだから、と意識してしまうと切り替わりがスムーズに出来ない吉田は、さっきの不意打ちキスを引きずって胸中でぶつぶつと呟いている。
 別にする事自体が嫌だと言う訳では無いのだ。こういう所でするのが嫌なのだ。
 だから、佐藤の部屋でするなら、別に、何も――
(って、何を考えてんだ俺は!!!)
 しかも今は体育の授業中だというのに。見れば佐藤は、他のクラスメイトと何事か話している。こっちを見ていない事に、吉田はほっと胸を撫で下ろし――
「わぁぁぁっ! 吉田ぁ――――ッ!!」
 思わぬ方向からの叫び声に続いた自分の名前に、吉田は反応というより反射で振り向いてしまう。
 そして。
 ドッゴォッ!!!!
 その顔面に、バレーボールが思いっきりぶち当たった。


「……うわー、思いっきり顔に入っちまったなこりゃ………」
「呼んだのがまずかったなぁ。悪いことした……」
 吉田が顔を上げなければ、衝撃に対してのダメージがまた違ったかもしれない。まあここでそれを言っても、役に立たない後悔でしかないが。
 力加減を間違えたサーブが、よりによって吉田の方へ向かって行ったのが原因だ。原因を作った当人達が、すっかり昏倒した吉田を覗き込んで、口々に言う。そんな連中を押しやるように、佐藤は吉田の元へ赴いた。
「ここで寝かせと居てもしょうがないから、保健室連れて行くよ。先生に言っといて」
「ああ、いいけど……佐藤、保健委員だっけ?」
 適当に伝言を頼まれた男子が言う。
「別に、違うけど。まあそんな事いいじゃん」
「そりゃそうだけど……
 佐藤はそれだけいい、この件でそれ以上の言及を避けるように吉田を抱き上げ、さっさと保健室へと向かった。
 今の佐藤は、口調こそなんら異変は無いが、何だか有無を言わせない妙な迫力があった。そのアンバランスさに少し引っかかったが、教師に事のあらましを伝える使命を思い出した彼は、そのままそんな些細な事は早々に頭から出てしまった。


 同じ建物内である筈なのに、授業中とそれ以外とでは、まるで別世界のように違う。静まり返った、とは言い難いが、人のざわめきが無くなっただけで受ける印象がかなり違う。まるでパラレルワールドにでも迷い込んだみたいだ。吉田を腕に抱いて、佐藤はこのまま誰も知らない世界に行ってみたいとすら思う。自分達の関係性を疎まれる事も無く、吉田を奪われる可能性すら無い場所へ。
 保健室へ着いたが、中は無人だった。どうやら保険医は別件で席を外しているらしい。それなら自分で勝手にやるまでだ、とまずは佐藤は吉田をベッドの上に横たわらせる。快適さやデザインを全く考えない、素っ気ないパイプベッド。シーツはどこまでも白い。
 佐藤はベッドサイドに腰掛けて、吉田をじっと眺める。眺めの前髪が顔に掛かってるのを見て、指先でそれを脇に寄せた。より露わになる吉田の顔。昔のままと思いきや、こうしてまじまじと見ると子供から少年、そして青年へと成ろうとしている過程中である事が解る。丸いばかりだった頬もそのフォルムをすっきりしたものへ変えている。――まあ、それでも触るととても柔らかいのだが。
 変わらないものなんて、何処にもない。変わってないように見えるのは、解らないだけか見えてないフリをしているからか――
「吉田…………」
 低く、掠れたように名を呟き、薄く開いている吉田の口に、そっと唇を寄せた。さっきのような、不意打ちの悪戯ではなく、ねっとりと唇に刺激を与えるような口づけ。
 佐藤とのキスが吉田にとって初めてだというのは、本人の言質を得ている。この柔らかさも温かさも、まだ誰も知らないのだ。そして吉田も、自分以外の感触を知らない――
 出来る事なら、これかれもそうであって欲しい――つい、そんな事を夢想してしまう。それがどれだけあり得ない事か、解っていながらも。
 ある程度堪能した佐藤は、まだ足りないという欲求の声を抑え、顔を上げる。相変わらず吉田の眼は閉じられたままだが、頬が上気し、呼吸も幾分か早くなっているように思える。
「吉田」
 今一度その名前を呼ぶ。反応が無いのを見てから、佐藤は上から圧し掛かる様に、吉田の耳に声を吹き込んだ。
「今すぐ起きないとここで最後までするよ」
○×△□↑↓☆ΨΩ£!!!?
 吉田が喚き散らすのを予想していた佐藤は、大声を上げる口をあらかじめ手で押さえておいた。おかげで外にまで響き渡る絶叫は吉田の喉から出る事は無かった。
 ひと通り叫び終わり、酸素が得られない事に顔を真っ赤にしてじたばたし始めた頃、佐藤は吉田を解放してやった。ぶはっ!と一気に空気を吸い込む吉田。
「な、な………い、いい、いつから気づいてた!?」
 動揺のせいか上手く口が回らず、実際発した声以上に口をパクパクさせていた。
 佐藤は、意識の無い相手に悪戯するようなヤツでは無いというのを吉田はよく知っている(答え:反応が無くてつまらないから)。しかしそれ以上に、さっきの佐藤の声は、相手が起きているという確信に充ち溢れていた。
「んー、見ただけじゃ俺も解らないけどさ。でも抱きあげた時、お前少しビクッとなっただろ」
 それで解ったと佐藤はしれっと言う。しかしそれならほぼ最初からタヌキ寝入りがバレていた事になる。ああ恥ずかしい。
 しかし別に、吉田も倒れたフリをした訳でも無かった。かなりの勢いで顔面に直撃したボールのせいで、意識は支えを失ったようにクラクラとしていた。その時、肩に佐藤の大きな手が触れたのを感じて――それで意識がはっきりしたのだ。その後、何だか起きるに起きれなくて、ここまで佐藤に運ばれてしまった訳だが。
(って、佐藤、解ってたんなら、別に保健室運ばなくっても――)
 そこまで考え、吉田ははっ、と気づいた。
 ベッドの上。二人きり。授業中。保健室――
 怪しげなシチュエーションの単語の数々に、じわじわと汗が滲んでいく。
(いやまさか佐藤がそんな真似に出るだなんて決まった訳じゃないんだし!)
 ああでもさっき不穏なセリフを聞いたばかりだ!と吉田の脳内では籠の中で逃げ場を探す小動物がイメージされる。勿論その小動物は現在の吉田の象徴に他ならない。
「吉田ー? さっきから顔色楽しいぞv」
「いっ……いいから! 俺休んどくから、佐藤さっさと授業戻れよ!」
 授業中である事を鑑み、吉田は叫びの口調ながらも音量は控えた。
「ええ……つれないなぁ。吉田だって、俺と二人きりになりたくて、タヌキ寝入り決め込んだんだろ?」
「ち、ちが……あ、あれはその、何となくっていうか……―――ちょっ、佐藤!脱がすな脱がすなって!!」
 まさか、本気でここで最後までするつもりなのか、と吉田にとっての最悪の事態が脳裏を掠める。
「大丈夫、最後まではしないよ」
「そっか……って、じゃあどこまでするつもりなんだオイッ!!」
「んー?」
「そんな首傾げてもダメ――――ッ!!」
 吉田は何とか佐藤を押しやろうとするが、いかんせん両手を取られてしまってはそれも出来なくなる。
 自分の指を絡ませた吉田の手を、佐藤はそっと脇に置いた。あう、と真っ赤になった吉田が呻く。
「……放課後まで待てないのかよ………」
 せめて憎々しげに言う。睨んでみたが、目に力が情けないほど入らない。
「待てない」
 佐藤の返事は、即答に近かった。言い返そうと思って俯いていた顔を上向かせ――間近にあった佐藤の顔が思いのほか真摯で、そんな顔を見せられると吉田はもうどうしていいか分からなくなってしまう。そして何も抵抗出来なくなってしまう――
 佐藤の唇が吉田のそれに触れる。最初は伺うようにそっとだったのが、どんどんと大胆になり、擦り付けるようになる。シーツの上の絡ませた両手はそのまま置いたままで、佐藤は唇だけで吉田に触れて行く。じれったいようで、でも動きは激しかった。口だけでじゃれつく佐藤が、大きな犬みたいで少し可愛く思える。
 佐藤の狙いが唇から首元へと移る。触れたくすぐったさに、仰け反ってより露わになった首へ、佐藤はさらに施そうとして――
 その時。保健医が戻った。


「おう、吉田ー。大丈夫だったかー?」
 次の授業に顔を出した吉田へ、そう呼びかけたのは牧村だった。
「ああ、うん。大した事無かったんだけど、ついでだから昼寝して来ちゃった」
 あっはっは、と吉田は殊更明るく言う。そこへ、佐藤がすす、と近寄って来た。そして、吉田以外には届かない声で言う。
「あの後1人でシタ?」
んなッ!!!!―――――ばかっ!!!!」
 絶叫を押し留める事に成功した吉田は、自分を凄いと思う。噴火しそうな吉田に、佐藤は涼しい顔だ。何か色々と悔しい。
(そりゃ確かに流されそうになったのといきなり中断させられた訳だからすっきり切り替え出来たかと言えばそうでもないけどでも学校の保健室のベッドでそんな事しないやい!佐藤のバカ!バカバカアホ!!!)
 声に出して言えない分、吉田は胸中で怒涛のように吠える。真っ赤になって唸る吉田に、佐藤は同じように吉田にだけ告げた。
「放課後。――俺の部屋に来てくれるんだろ?」
「……………」
 機嫌を損ねると解ってるセリフを言った後で、何といけしゃあしゃあな。例えれば自分で掘った落とし穴に落ちた相手を助ける行為に似てるかも知れない。無意味だと罵りたいが、相手に自分の理解を越えた意味があるのは、何となく感じる。
「………行かなかったら、ここで変な事するんだろっ!」
 だから行くんだ!と吉田はそっぽ向く。
「えー、どうだろ?」
「………ふんっ」
 からかうようにはぐらかす佐藤に、吉田はそっぽ向いた所から、さらに顔を背けた。……少し、首が痛い。
 悪魔みたいに狡猾かと思えば、子供みたいなしょうもない屁理屈を捏ねて自分に関心を寄せようとする。
(こんな佐藤、きっと誰も知らないんだろうな――)
 そう思うと、こんな態度も許せる――のか?
 だんだん、越えてはいけない一線が近づいてるように思える。
 最もそんな事、佐藤を好きになった時点で、とっくに超えてるのかもしれないが。
 きっとこの後部屋に行ったら、またつまらない意地悪で色々困らされるのだろう。それでも、最後にしてくれるキスは絶対に優しい。
 ころころと変わる佐藤を、吉田は沢山知っている。

――いいよねー、吉田は。佐藤君を見放題なんだもん

 今日の初めに言われた女子の言葉は全くその通りだと、吉田は自分の席で赤くなった。



――END――