「あのさ、佐藤。オレ、バイトしようと思うんだけど、いいかな?」
 なるべくさりげなさを気を付けて、吉田は佐藤にそう切り出した。お茶を入れて来た佐藤は、カップを吉田の前に置き、自分はその隣に腰を下ろした。
「いいかな……って、ここで俺がダメって言ったら、吉田、止めるの?」
「ぅ……いや、……えーと………それは………」
 あえて咎めるように、わざとジト目で睨んで見れば、目に見えて吉田はしどろもどろに言葉を詰まらせた。その反応に小さく噴き出して、嘘だよ、と言いながら小さい吉田の頭を抱き寄せ、軽くキスをしてから離した。
「……いいの?」
 からかった事に不満を覚えながら、吉田は佐藤からの返事がにわかに信じられないのか、質問を反芻させた。
「ん? なんだ、お前、反対して欲しかったの?」
 佐藤がそう言えば、そうじゃないけど、と吉田は返す。
「だって、高校の時はバイトしようかなって言ったらその度に「遊ぶ時間が減るからダメ」って……」
 挙句、バイトをしないという言質を取るまで、それはもう色々凄い事をされた吉田だった。思い出しても頭が沸騰する。
 そして結局、吉田は高校時代でのバイト経験は無しのまま、大学へと進学してしまった。金銭的に余裕がある佐藤と知り合って(付き合って)しまったからか、遊ぶ為の費用にそう切羽詰まらなかった、という要因も含まれる。
「だって、高校の時は会える時間が少なかっただろ?」
 そうかなー、放課後も休日も会ってたんだから、結構時間あったと思うなーと吉田は思ったが、ここでそんな異議を飛ばすと話の流れがややこしくなるのを感じて黙っておいた。
「でも今は一緒に住んでるし。ここに吉田は帰ってくるからさ」
 慈愛を込められたような目で見つめられ、吉田は真っ赤になって俯いた。
「じゃ、じゃあ、バイトしていいんだな?」
「ああ」
「良かった。実はいい所見つけてさ、先越されないように面接はもうして来たんだ」
 安堵したように吉田が言うと、佐藤は不貞腐れたようにそっぽ向いた。
「なーんだ。だったら、もう俺が何言っても関係無かったじゃん」
「え、い、いや、それはえーっと………」
 不機嫌そうに言うと、吉田は慌ててうろたえた。それに小さく噴き出したのは、吉田であり得ないのだから佐藤しか居ない。あはは、と佐藤は朗らかに笑う。
「オマエって、ホントに何度も引っかかるのなー。可愛いな、吉田v」
 一転して明るく笑う佐藤に、吉田はきょとんとしたがすぐにまたからかわれたのだと理解すると怒りで眦を釣り上げた。
「また騙したな―――!?」
「騙される方が悪い」
 いけしゃあしゃあと言う佐藤に、吉田も二の句が告げずに憤怒したまま睨む。そんな吉田の肩を抱いて、佐藤はすっぽりその体を自分の腕で包んでしまった。
「何だよ!」
 案の定というか、当然の流れで吉田は暴れるが、そんな抵抗は佐藤にとってあまり脅威ではない。
「吉田、可愛い」
 今度は真っ直ぐ目を見て言ってやると、じたばたしていた抵抗を止め、顔を真っ赤に染め上げる吉田。
「うっ……煩いっ! 可愛くないし……って、キスして誤魔化そうとすんな! バカ!」
 そう言った所で、結局キスされてしまう吉田だった。うーっと目に涙を浮かべて真っ赤になって唸る。
「もーちょっと、俺の愛情、信じて欲しいなぁ。不貞腐れたり拗ねたりしても、吉田の事嫌いになる訳じゃないんだから、あんなに焦らなくても」
「……べ、別にそんなんじゃ………っ……!」
「まあ、時折嫉妬に眩んで呪ったりはするかもしれないけどさ」
「………………」
 そんな事されるくらいならいっそ清々しく嫌ってくれた方がマシかもしれない……と、思わず吉田は思ってしまったが、きっとそんな吉田を誰も責められないだろう。


 そんな訳で、早速吉田はバイトにと出掛けて行った。佐藤はまだバイトをしていないので、吉田のシフトが入ってる時は食事作りを担う事にした。
 ただいま、と言ってバイト帰りの吉田がドアを開けると、佐藤の作った夕食のいい香りが鼻腔を擽る。
「…………」
「おう、おかえり……って、そんな所に突っ立ってどうした?」
「う、ううん、別に、ちょっと」
 まさか幸せを噛み締めてました……とか恥ずかしい事を吉田が言える筈もなく、適当に言葉を濁して転がり上がるように玄関を上がって行った。慌ただしい吉田の後姿を、佐藤は変なヤツだな、と見ていたが自分も此処に居ても仕方ないので後を付いて行く。
(ま、大方帰って来て俺の居る現状に、まだ馴染んでないってところかな?)
 完全な正解では無いものの、おおむね間違ってもいない推測を佐藤がした。
「それで、どういう仕事してんだ? ケーキ屋で」
 吉田の勤め先は近くのマンションの1階にあるパティスリーだった。近くと言っても大きな車道を挟むので、結構な距離はあるのだが。
「んっとね……一応、箱詰めが主な仕事で、後は人が足りない所をちょこちょこと……レジ打ちとか、接客とか。皿洗いもするかな」
「つまり、菓子作り以外の雑務って事か?」
「うん、そういう事。あと、犬の散歩とかね」
「……犬? 今、犬の散歩とか言ったか?」
 およそ勤め先の店舗に不適切な内容が聴こえたような気がして、佐藤の箸が止まる。
「うん。オーナーの飼い犬なんだ。真っ黒の犬で、レトリバーだったかな。もう大人だから、大きいよ」
 下手すればオレより大きいかもしんない、と吉田は言った。
「……そこって、ドッグカフェとかだったっけ?」
 その店はまだ佐藤は行った事は無いが、場所だけは知っていた。この辺りで一番近い、日用品を揃える為の大型スーパーの通り道にあるのだ。その店は。
「いや、そういうんじゃないんだけど………」
 吉田がそう言う。ならどうして店内に犬が堂々と居るんだ、と佐藤の疑問は解消されない。
「でも、その犬凄いんだよ。店内でデリバリーすんの。だから居るんじゃないかな」
「ふーん……変わったサービスだな……」
 佐藤はそう呟いて食事を再開させた。

 そうこうしている内に、吉田がバイトを始めて1か月が過ぎた。その日、佐藤が家に帰ると戻っている筈の吉田が居なく、そういえば今日はバイトだった、というのをワンテンポ後に思い出した。
「……………」
 あらかじめ知っていればそうでもないのに、予備も無しに吉田の居ない空間に放り込まれると、何だか佐藤は途方も無いくらいの孤独感に見舞われた。もう、2度と吉田は此処には戻って来ないような、悪夢より酷い想像。
 もちろんそんな事は無く、あと数時間もすれば吉田は帰って来るのだけど。
「……………」
 一度は上着を脱ぎ、ソファに座ってみた佐藤だが、どうにも落ち着かない。今すぐ吉田の元へ行って、吉田を捕まえておかないと。そんな強迫観念すらも湧いて出てきそうで。
 居ても経ってもいられなくなった佐藤は、また外へと出て行った。
 時刻は夕食前の夕方で、ほとんどの人は帰路を辿っている。佐藤はその中をまるで逆走するみたいに歩いていた。心持ち、その足は速く。
 いきなりバイト先に押しかけたら吉田は怒るかな、という考えは殆ど店先に辿り着いてから浮かんだ。
 まあ、その時は適当な理由で誤魔化してみよう。それで怒ったら、素直に吉田が居なくて寂しかったと言っておこう。優しい吉田は、人の本音を否定する事はしないから。
 オーナーの犬が居るんだよ、という吉田の話通り、店先に置かれた看板には店内に犬が居るという旨が書かれている。その犬は頼めば店内でお使いをしてくれる事や、主なメニュー。それと期間限定のスイーツが写真付きで説明書きがなされていた。
 佐藤は少し迷い、折角だからと店のドアを開けた。開けるとすぐにショーケースがあり、自分とそう年の変わらない青年が番をしていた。イートインだと告げるとテーブルへと案内される。時間帯がもう閉店間際だからか、テーブルに着いている客は佐藤の他に1人しか居なかった。
 ケーキ屋だけども、何となく一人で物を食べる気にもなれなくて、佐藤はブレンドを頼んだ。
(吉田は……居ないか)
 吉田の主な仕事は焼き菓子等の箱詰めだ。その作業は奥まった場所でされているのだろう。製菓スペースがショーケースの後ろに見えたが、とても箱詰めの出来るスペースは無さそうだった。閉店間際だけども、パティシエ達の動きは休みが無い。明日の仕込みの為に奔放しているのだろう。
 と、その時、おそらく厨房に繋がってるだろうドアが不意に開いた。何だ? と思ったらそこから籠を加えた黒い犬が現れた。
 ああ、あれが吉田の言っていたサービスか、と胸中で呟いて何となく犬の動きを見続ける。犬は、テッテッテと軽快に床を歩いて行く。
「……………」
 佐藤の横をその犬が通り過ぎる時、なんんだかチラリと見られたような気がした。何だってんだ、と犬を見ていると頼んだコーヒーが運ばれる。
 一口啜ってみて、お、これは、と目を見張る。
(ケーキ屋のコーヒーだと思えば……中々………)
 これはこれだけでも十分売りになるな、と佐藤は偏見を撤回した。
 閉店も近いから、ぎりぎりまで居座るのは迷惑だろうと、佐藤は早々に席を立った。吉田は店の前で待っていればいい。
 代金を払い、店から出て行こうとすると足元に何かが掠めた。さっきの犬だ。まるで出て行くなとでも言いたげに、佐藤の前に立ち塞がっている。
 何だ? と軽く睨むように目を射ると、後ろから自分を呼ぶ声がした。
「さ、佐藤?」
 もちろん、佐藤がこの世で最も必要とする人の声だった。


 支給されたというこの店のエプロンは、吉田には大きいような気がした。とは言え、他にサイズもないのだろう。だからこうして吉田も身に着けている訳だ。
「来るんだったらメールでもしてくれればいいのに」
 吉田の仕事場となっているスタッフルームで二人は話す。ここのオーナーはまだ若いような青年でいかにも人の良さそうな面持ちをしていた。そして、お友達が来たのなら、と言って佐藤をここまで通してくれたのだった。
 壁にくっ付くようにロッカーが並び、部屋の中央にはテーブルが4つくっ付けられて大テーブルになっている。その上にプラスチックのケースに入ったマドレーヌがあり、横には組み立て前のぺったんこな空箱がある。吉田の仕事はこの焼き菓子をギフト用に梱包する事だ。
 人気があるから、箱詰めする傍から店に出すんだよね、と吉田は再び作業に取り掛かる。手を休めないまま、佐藤にそう問いかけた。
「ん〜……まあ、暇だからちょっと寄ってみた、ってくらいだから」
 わざわざメールするまでも無かったと思った、とそれらしく佐藤は答えた。
「それでもさ、こんな閉店ギリギリとかに来なくてもさ………」
 そうぶちぶち吉田は言うが「帰れ」とはっきり言わない所、なんだかんだで来てくれて嬉しいと見ていいようだった。
「そういや吉田、俺が来たのがどうして解ったんだ?」
 佐藤は気になっていた事を訊いた。当然だが、佐藤は自分が吉田の知り合いだとスタッフの誰かに言いだしたりはしない。
「何かさ、ミツルギが気づいたみたいで、それに気付いたオーナーがお友達? って訊いて来て」
 ざっとした人相を聞いてもしやと思ってみたらビンゴした、という訳らしい。
「ミツルギ? 誰だそりゃ?」
「あ、犬の名前。もう見た?」
「ああ、見たけど……そんな名前なのか。あの犬」
 犬につけるには少し変わった風な響きだな、と佐藤は思った。古風というか、何と言うか。
「うーん、匂いで解ったんじゃないかな……一緒に生活してるし………」
 後半を小声で言う吉田。そう恥ずかしげにされると、佐藤の中の嗜虐心が触発されて困る。
 このように。
「そうだなー。こういう事もしてるし……v」
 意味ありげに佐藤は低く呟き、隣に座ったのをいい事に吉田のごく耳元へ囁きかけた。吹きかけられた呼気に、吉田の肩がビクッ!と戦慄く。
「ちょ、何すんだよ!」
 オレはまだ仕事中なの!! と顔を真っ赤にした吉田が抵抗する。
「何、感じた?」
「ババババ、バカ! ここ何処だと思ってんだよ!!」
「吉田のバイト先v」
「そうだよッ!!」
 だから不埒な事をされまいと逃げたい吉田だが、それ以上に逃げる訳にもいかない吉田だった。こういうのを八方塞がりという。
 後ろに下がる吉田の腰を、佐藤はすかさず手を回してそれ以上の撤退を塞いだ。
「……さ、佐藤……っ、ホントに……オマエ………ッ!」
 涙目になって、怯えるように吉田は震える。佐藤の好きな顔だった。優しく頬を撫でると、それだけで過剰なくらいに吉田が反応する。
「何をそんなに警戒してんのかな……そこまで節操無しじゃないぞ、俺は」
「そ、そこまでって……ど、どこまで………っ」
「あー、でも、吉田がそーんな可愛い顔してたら、俺も抑えが効かないかもなーvvv」
「何言ってんだよー! 止めろよ本当にっ……! 誰か来るって……!!」
 そんな風に、真っ赤になってじたばたする吉田は、本当に可愛い。もっと苛めたい(←苛めっこ)。
「大丈夫v このくらい、友達同士のじゃれ合いの内だってvv」
「そんな訳無い! そんな風に見えない―――――ッッ!」
 今にもテーブルの上に押し倒される寸前で、スタッフルームのドアが開いたのは丁度その時で。
 ドアの開くカチャ、という微かな音を聞いた時、よしだの心臓は軽く数センチジャンプした。
「ん?」
 突然の訪問者に冷静に対処したのは佐藤で、ふと後を振り返ってみればそこに人影を確認出来ず、怪訝な顔をした。
 が、まるでさっきの繰り返しのように、足もとに蠢く何かを見つける。
「何だ、またオマエか」
「え、あ? ……ミツルギ?」
 不意に、吉田は「あ」と声を上げた。
「そっか、もう終わりだ……片付けなきゃ」
 そう呟いて、吉田は程良く散らかっているテーブルの上を片付けて行った。
「…………」
 わざとか? と佐藤が犬を睨むと、犬は「はてさて何の事やらな」というように横を向いた。


 それじゃお先に失礼します、と吉田は店のスタッフ達に告げて、佐藤の待っている裏口に小走りで駆けた。
「佐藤、歩きで来たの?」
 それなりの距離がある為、吉田はここに自転車で来ていた。
「俺が漕いでやるから、お前後ろに乗る?」
「バカ。オレのサイズじゃ佐藤漕げないじゃん」
 解って言うんだから、と吉田は膨れる。
 かと言って、佐藤を後ろに乗せて吉田が載れる訳でもなく、結局この自転車は今日の所、乗られずに引きずられて帰路を辿る事になった。やれやれ、と自転車の鍵を開ける吉田。
「吉田」
「ん?」
 呼ばれた吉田は振り向く。
「帰ろっか」
 そう言った佐藤は、とても嬉しそうで、それ以上に幸せそうで。
「………う、うん」
 それを一身に浴びてしまった吉田は訳もなく胸が熱くなって、顔も赤くした。




<終>