転寝のように、睡眠から意識が浮上して。
 吉田は窮屈な腕の中から手を伸ばし、半ば無意識の反射で時計を手に取った。
 ふにゃふにゃしながら見た時刻に、吉田はぎょっと目を剥く。
「たっ……大変だ! 早く帰らなきゃ!!!」
「……………どこに?」
 横に居た人物が飛び起きた時の動きや、叫んだ声の音量に佐藤も目が覚めた。半身を起き上がり、寝起き直後の低い声で呟く。
「ど、どこにって、家に…………
 …………………………」
 言いかけて、その最中に吉田ははっとなり。
 その後は顔を急激に真っ赤にして、ベッドの上でシーツの掛かった膝を抱えて轟沈した。
 佐藤はそんな様子に口元を綻ばせ、蕩けるような笑顔で沈む吉田の頭の頂に向かって言う。
「”ここ”が家だろ?」
「っ…………………!!!」
(うわー、恥ずかしい!! うわー! うわ―――――ッッ!!!)
 同居……と、いうか、同棲を始めて一週間の出来事だった。


 二人は同じ大学に通う。同居を希望するに当たって、それが一番スムーズで真っ当な理由になるだろう。と思ったのは吉田だけで佐藤は例え進路が違おうが何となろうが、何をしてでも一緒に暮らすつもりでいたようだが。
 でもやっぱり、吉田は「一緒に暮らしてます」って言える為の建前が欲しくて。
 あとは、純粋にもっと一緒に居たくて。
 暮らすつもりでいるのに、それ以上を願ってる自分の強欲さに、吉田は少し悩んだり唸ったりもしたが、ともあれ佐藤と同じ大学を目指す事した。吉田は進路にそう明確なビジョンがある訳でもないし、相手に合わす事自体に抵抗は無い。
 無かったのだが。
 いかんせん、学年一位の佐藤が行こうとする大学は、英語赤点レギュラーの吉田にとって雲の上に等しいくらいのレベルで。佐藤はだったら大学変えるとかあっさり言うけど、吉田は自分のせいで足を引っ張る事だけは絶対に嫌だったので、必死に勉強して合格ラインを目指して、最終的に「ま、頑張ればイケるんじゃない?」ってくらいまで学力を伸ばし、神頼み半分で受けた試験で見事合格を勝ち取った。
 皆、祝うよりも驚いた。しかし本人が一番驚いて、一番落ち着いていたのはとっくに推薦を決めていた佐藤だった。
「もーちょっと驚くかと思ったのに」
 何でそんなに落ち着いてるの? と疑問すら感じた吉田が言う。
「まあ、何となく受かるような気がしてたからな」
「? そう??」
 確かに吉田の勉強を見ていたのは専ら佐藤だが、そんなに偏差値が高かった訳でも無いのも知っている筈だ。まだ「何で?」が抜けない吉田に、佐藤は静かに頷く。
「だって俺は何の努力もしてないのに、吉田に会えたから」
 だから、一緒に居たいって頑張る吉田の願いが叶わない筈がないよ。
 佐藤が別に、吉田を戸惑わせてやろうとかからかってやろうとか。
 そんなんじゃなくて、本当に本心で思ってる事を言ったから、吉田も参るくらいに真っ赤になった。


「…………俺。多分一生分の運使い果たしたかもなぁ………」
 合格報せを受けてから、初めて佐藤の部屋に行った時、吉田がふとぽつりと呟いた。
 この部屋で何もしないでただ過ごすのも随分久しぶりだ。ここ最近、ずっと勉強していた記憶しかない。
(……キスはしてたけど………)
 それでも、今は勉強に打ち込む時期だと佐藤も思ったのか、それ以上は手を出さなかった。
 ので。
 今日はそういうつもりで来たのだが。
 吉田の心境は全てお見通し、みたいな佐藤だけど。完全ではないから時々見当はずれの時もある。だから自分で言うべきか。吉田はぐるぐる悩んでいた。ぽろっと流れを無視した発言が零れたのも、それの副作用かもしれない。
「そうか? 大学受験で大袈裟だなぁ」
「佐藤にとってはそうかもしれないけど! 俺からしてみればそれくらいの偉業だったの! あれは!」
 何かしれっと言う佐藤に腹が立って、吉田はムキになって言い返した。
「知ってるよ」
 激昂する吉田に対して、佐藤は平静だった。
「吉田がどれだけ頑張って、どれだけ必死だったか。俺は知ってるよ」
「…………………」
「俺が一番知ってる………」
 吉田の顔を覗き込んで、伸ばした手は髪に触れる。それから優しく撫でて顎に触れた時、吉田はキスされるんだ、と解った。吉田がそう思うのを待っていたように、佐藤がゆっくり口づける。
「っ!!」
 吉田の体がビクリと大きく戦慄いたのは、上顎の裏を舐められたからより、衣服の下に佐藤の掌が入り込んだ事の方が大きい。
「……ダメとか無理とか言うなよ。吉田………」
 低く、劣情を駆り立てるように言う。ダメと言われても、佐藤は止められないのだから、相手にその気になって貰うしかない。
 泣かせても、多分止まらない。欲しくて欲しくて堪らない。
 それが自分だけじゃないと思いたい。
「……ダ、ダメ、とかじゃないけど………っ」
 剥ぐように脱がされながら、吉田が言う。寒くは無くても、脱がされた事に体が震えた。
「ひっ、久しぶりだから……その…………」
 首筋を舐められ、上ずったような声になる。佐藤が意地悪くクスリと小さく笑う。こんな笑みを見るのも、久しぶりだった。
「ああ……余計に感じる?」
「ぅ……そ、そうかも」
 他に経験が無いのだから、この時にこのようになる、という実体験が吉田は無い。曖昧に頷くしかなかった。
 そんな吉田に、佐藤が唇を合わせただけで離れる。愛しさだけを込めたキスだった。
 そしてまた、キスされた。今度は触れるだけじゃ済まさないものだった。
「ごめんな」
 激しい口づけで、早速意識がかき乱されてきた吉田に、佐藤がそう謝った。
「本当は、ゆっくり優しくしてやりたいんだけど……今日、姉ちゃん早く帰るって言ってたから」
 間の空いた体には少しキツいかもしれないけど、しないで済ます事の方が無理だった。だから佐藤は謝った。
「……お前だって、そのつもりで今日来たんだろ?」
「!!っ………」
 耳元で呟くと、極近い吉田の体躯が強張った。やっぱりバレてた!と吉田が顔を赤らめる。いつまで経ってもそういう恥じらいの抜けない吉田が可愛くて、佐藤は頭に軽いキスをした。


 と、ゆー現在に至るまでのダイジェストを、轟沈した吉田は思い返していた。思い出そうとしなくても、勝手に記憶が反芻したのだ。
(……あれだけ必死こいて同居してるのに、前の生活の方が体に染みついてるんだよな……)
 そう思うと、何だかもやっとするというか。望んで手に入れた事のなのに、それなのに。
 でも、それも時間が解決するだろうか。佐藤とこうして住む時間が増えれば、こんな馬鹿な間違いを犯す事も無くなるだろうか。
 視界が塞がれていると、その分他の感覚が冴える。耳は幽かにしか音を立てない秒針の動きを拾っていた。
 前はこの音は耳ざわりだった。タイムリミットが迫っている事を告げるしかない音だった。
 でも今は、共に過ごす時間を刻む音でもあるから。
「吉田?………吉田?」
 ゆっくりと上下する肩を訝しんで、佐藤は控えめな声で呼んだ。しかし、単調なリズムを聴いていた吉田は、まだ情後の余韻抜けきらない体もあり、その姿勢のまま眠ってしまいっていた。
 こんな姿勢で器用だなぁ、と佐藤は苦笑して、起こさないように気を配ってその体を横たわらせた。
 寝息を立てるその姿は、すっかり安心しきっている……と、思っていいのだろうか。仰向けにした顔を覗き込み、ついでのようにもう一度キスをした。
 佐藤が、吉田と一緒に暮らすようになって何が一番嬉しいかと言えば、もう帰り時間の為に吉田を起こさなくてもいいという事だった。この寝顔を、壊す事も無い。
 もう一度、佐藤はキスをした。今度は口へ。
 その感触に、吉田はううん、と唸って寝返りを打った。
 佐藤の居る側に。
 それを見て、佐藤は幸せそうに微笑んだ。




<終>